「ある心の風景」梶井基次郎作 感想文
悲しい時に見た風景は記憶に残っている。
大切な人を亡くした時の病院の窓から見た町の明かり。いつもと変わらず往来する車の光。
自分だけが取り残されたような、自分以外の日常の風景があまりに普通で、とても悲しかった。
その時の悲しみは、匂いと共に記憶に残り忘れられない。
私の見た風景の深刻さはまだ軽い。
喬は、かなり深刻であり、風景へ現実逃避している姿が危うい。
人間の愚かさと汚さが垣間見えて、最初は受け入れ難かった。娼婦との関係が生々しい。
今回初めて梶井作品を読んだ。「檸檬」を先に読み、続けてこの作品へ。
身体が病んでいる時の「微熱」のようなものを終始感じた。
冷たい南京玉、酸っぱそうな黄色い美しい檸檬、身体の隅々まで流してくれる冷たい透明な水のようなものを求めているように熱っぽいと感じた。
実際に見ている風景なのか、「心の裡」の風景なのか、「霧の中の想念」
「ある時は親しい風景、ある瞬間は全く未知の風景」彼は「心の風景」を指呼出来るのだ。
「どこまでが彼の想念であり、どこからが深夜の町であるのか、わからなった」p.133 新潮文庫
「心の裡の風景」、見ているようで見ていない観念的な風景がいつも繰り返し現れ、そしてその風景を彼はそこここに呼び覚ますことができる。
そしてそれらが彼の救いとなり、心が解放されて行く。
自らの穢れを自覚し、ただその穢れた自分でありたくない自覚のない衝動が「心の風景」を現実化させ喬に見せるのだと思った。
引用はじめ
「ああこの気持ち」と喬は思った。
「視ること、それはもうなにかなのだ。自分の魂の一部分或いは全部がそれに乗り移ることなのだ」
「毎夜のように彼のすわる窓辺、その誘惑—— 病鬱や生活の苦渋が鎮められ、ある隔たりをおいて眺められるものとなる心の不思議が此処の高い欅の梢にも感じられるのだ」p.144
引用おわり
娼婦との関係を「穢れ」と深く禁(いさ)めている。
傷ついている心と矛盾する肉体に、ただ怠惰へ落ちて行ってしまう。
きっと何か訳があるはずだと思う。何かに傷つき、何かのコンプレックスを抱えているような繊細な姿が想像される。
「穢れ」と葛藤するその苦悩が、魂だけで感じる世界へ無意識に救いを求め、そこに乗り移り。風景と一体化して行く感覚の表現がこの作品の美しさだと思った。
以前観たドキュメントで自閉症の青年が満開の桜を思い出しながら絵を描いていて、花びらのピンク色を塗り始める。
するともうすで塗っている時点で自分がそのピンク色になっている、と彼は言う。そのシーンのあまりに心が美しいことに涙したことがあった。
なぜそうなったか、理由は違えど感覚がとても似ていると思った。彼には桜が目の前に見えていてすでにそこに入り込みその色になっている。(東田直樹 僕が飛び跳ねる理由)
このような体験をする人は、きっと心が純真無垢であると思う。
喬は、自分の内部の隅々まで、透き通るような冷たい水できれいに流したいと思うほど自分は病み汚れきっていると思っている。
そう考える喬は、救われるべき汚れきっていない人間であると感じた。
鈴の音が、彼の身体の内部に流れ入り洗い清める。とても印象的で美しい。読んでいて光が見えるようである。
「俺はだんだん癒って行くぞ」
「小さな希望」は生き生きと湧いてくる。
きっと彼は鈴に音に乗り移り、自分の身体の中を浄化しているのだと感じた。