私家版・近代将棋図式精選(おまけ)

 今回扱うのは昭和62年3月号の近代将棋なのだが、この号は「詰将棋 この魅惑の世界」と題された座談会が12ページに渡って掲載されている。その参加メンバーが凄い。橋本孝治、添川公司の若手二人に加えて、上田吉一、駒場和男、黒川一郎、七条兼三といういずれ劣らぬツワモノを揃え、そして司会が森田正司。これはもう、当時のドリームチームとしか思えない面子である。今これをやろうとしたら、どんな七人が相応しいだろうか?

 では、これらの対話の中から、私が個人的に興味を惹かれた箇所をいくつか引用してみよう。

森田 江戸時代から現代まで様々な詰将棋が創作されてきましたが、皆さんはどんな詰将棋、詰将棋作家が一番好きか。今度はその辺りをうかがいたいと思います。
黒川 やっぱり看寿ですね。桂馬がポンポン跳んで行ってまた戻ってくるのがありましたね。あれは…。
上田 64番です。

 ここの箇所、弘前グループでは「黒川さんが抜き打ちテストで上田さんを試したのでは?」という話になっていた。つまり、黒川さんが「あれは…」と言いながら上田さんをチラリと見て「知ってるのか、そこの若造」という視線を飛ばし、それに気付いた上田さんが「当たり前だ。俺を舐めてんのか?」とむかつきつつ「64番ですっ!」と答えたのだという冗談。

 ところでよく考えてみると、図巧64番は桂を2筋に順に打っていくのであって「桂馬がポンポン跳んで行っ」たりしない。どうやら、この時黒川さんの頭にあったのは別な図のようだ。しかし、桂が順に跳ねていくのは図巧では他に見当たらない。もしかして、この時黒川さんが思い浮かべていたのは、無双四十二番ではないのかな?

                                        無双四十二番 

無双42番

森田 宗看と看寿の作品のよさはどのあたりでしょうか。
駒場 位が高いという感じです。
黒川 わかります。名人としての品格があるということでしょう。

 ここは駒場-黒川のコンビネーションプレーの見事さに感服。「偉い人が創ったのだから凄いのだ」としか言ってないような気もするが、それでも説得力が感じられるのがスゴイ。

駒場 ひととおり御意見を伺いましたが、嫌いな作家、作品というのは出てきませんね。(笑)
森田 どうぞご遠慮なく。
駒場 添川君や橋本君は仕上げに気を使っているし綺麗ですが、一部の若手の作品は目一杯やりすぎている。例えば趣向というのはシンプルに表現するほど美しい筈なのに、そこへ手を加えてかえって拙くする。一つの趣向作品からヒントを得て、二重、三重に手を入れてしまう。看寿や宗看から感じられるようなゆとりというものがないから、息苦しくなる。こういうのは進歩かどうか。

 言っていることは分かるが、駒場作品とシンプルさという概念がすぐに結び付けられないので、どうも違和感がある。私だけか?「目一杯やりすぎている若手」というのが誰かというのも、気になるところだ。
 駒場語録をもう一つ。

駒場 我々は美を意識して創るけれど、手順のごちゃごちゃした綾だけで解答者を惑わせるという人たちがいる。これは邪道ですね。

 これも、「駒場=変化・紛れがごちゃごちゃ」というイメージがあるので説得力を感じない。例えたら、鳩山由紀夫が「脱税はいけない」と言っているような感じか(笑)。言っていることは正論だけど、あんたが言うなとつっこみたい。

 しかしこの後の対話に、非常に興味深い箇所がある。

森田 いい提言だと思います。作品と美、この辺はいかがでしょう。
上田 素材に対して造り過ぎているのですよ。駒場さんの言うように、これは邪道だと思います。
黒川 やはり美術にしたいですね。添川さんはいかがですか。
添川 僕もそう思います。
橋本 僕は美というよりも、とにかく新しいものを求めたいです。
駒場 そこに美が生じるのですよ。
上田 新しさを求めるのは一つの美学ですからね。

 ここ、もし私の読解力が正常ならば、橋本さんは「たとえそれが美しくなくても、新しい構想・手順を追い求めたい」という決意表明をしているという風にしか読めない。つまり、他の作家にとって美は目的だが、橋本さんだけはそうではないのだ。異端扱いされながらもフェアリーと詰将棋を自在に行き来し、常に新しさを追い求めるその姿勢は当時から全くぶれることはない。この座談会は30年も前のことだが、この時既に橋本孝治は橋本孝治だったのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?