弘前グループのこと(4)

 89年の2月に、僕は一人で又編集部を訪問している。この時のことは398号(89年4月号)の編集日誌にこう記されている。

 ▽2月2日(木)
  高坂君に仕事を手伝ってもらう。編集部にいても退屈だろう
  から、京都に行ってはどうか、と勧めた。「泊まりはどうしま
  しょう」「心配いらん、穂上君の下宿に泊まりなさい」と勝手に
  決める。電話をしたら即OKの返事が来た。

 当時の京都の雰囲気が良く伝わってくる話である。その頃の京都は、京大の学生を中心としたACTと上田氏、若島氏らの京都グループが合流してものすごい熱気に溢れていた。この時僕は、穂上氏の他に山田康平、嘉則の両氏や太田慎一氏にも会っている。こうして二十歳の誕生日を京都で過ごした僕は、既に弘前を出ることを決意していた。

 同年3月に僕は3度目の編集部訪問をしているが、これは実は訪問ではない。編集長に頼んで、新しい家を見つけるまで居候させてもらったのである。だから、僕にとっての弘前グループはこの時の3月をもって終わっている。こうして僕は、以後大阪に住み関西の詰キストと交流を深めていくのだが、この話は又別な機会に書くことにしよう。

 詰将棋に対する純粋な情熱を持っていた彼等から、僕が学んだことは数知れない。結局、弘前グループのメンバーに共通していたものは「妥協を許さない厳しい姿勢」だったと思う。現在の僕は、もう若さの属性である潔癖さを失ってしまっているという事実を、あの頃の殆どアジ演説のような文章を読み返してみて痛感させられた。今はそれが、ある種の成熟を意味するものであって欲しいと願うばかりである。

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