弘前グループのこと(3)

 395号(89年1月号)からは僕も大学院の担当を始めている。何とか大学院を盛り上げようと、イラストを入れたり、訳の分からん文章を書いたりと色々試行錯誤をしてみたのだが、所詮力不足だったようだ。どこの馬の骨か分からない担当者の所へは当然のことながら投稿も集まらず、選題には苦労させられたことを覚えている。
 また当時はまだワープロなどという便利なものが手元になかった為、17×
22という変則的な原稿用紙を切り貼りして作成し、それにボールペンで書いていた。短評の文字数をいちいち数えたりといった面倒な作業が結果稿作成時にはつきまとっていたのである。僕の大学院は409号(90年3月号)迄続いたのだが、実質は405号(89年11月号)迄であった。

 弘前グループが活動していた時期には、僕は煙詰の新型収束の開発に没頭していたので、この時期の発表作は全く無い(僕が短編を作り出したのは、将棋世界92年3月号における7手詰コンクールからである。もっと早く作り始めていればよかったと、今になって悔やんでいる)。
 一方相馬君は、この時期に既に旺盛な創作活動を行っており、名作「初雪」が近代将棋(88年7月号)に発表されている。前後するが、大学の担当を始めてまもなく、彼は384号(88年2月号)の大学院に順列七種合を発表して詰パラ初入選を果たしている。これは貧乏図式でしかも持駒は桂4枚という傑作だが、残念ながら余詰があった。完全ならば看寿賞ものだっただけに、悔やまれる余詰であった。

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