上海の思い出

あれは 2000 年の夏のことだったか、神戸から船に乗って、上海に行ったことがある。鑑真号という貨客船である。

ぼくはエスペラントという人工言語を多少あやつるのだが、エスペラントは英語からすれば遥かにマイナーな国際共通語であって、それを使う人間の間には、豊かな仲間意識があって、たとえばパスポルタ・セルボというサービスが存在する。

英語でいえば、パスポート・サービスということになるが、このサービスに登録している人の一覧が載った小さな本を買うと、世界各国に点在する参加者の家に無料で泊めてもらえるのだ。

このサービスに登録している人の中でも、ヨーロッパの人は事前に連絡が必要、という人が多いのだが、中国の人にはそういう断り書きがあまりなかった。

それでぼくは無謀にも、上海についてからパスポルタ・セルボに登録している人に電話をかけて、その日に泊めてもらう、という荒業をやってしまったのだ。

上に、「エスペラントを多少あやつる」と書いたが、これは謙遜でもなんでもなく、むしろ大盛り気味の表現であって、正確に言えば「エスペラントを多少は使えないこともない」くらいのものなので、上海について、電話をしたところからして、大変な騒ぎになった。

電話をして、今日泊まりたい、と伝え、o.k. の返事をもらったところまではよかったのだが、迎えに来てくれる、というのに、いま自分がいる場所が伝えられない。

大きな郵便局から電話をかけていて、郵便局からです、とは言えるのだが、それがどこの郵便局かが伝えられないのだ。

電話をつなぎっぱなしの状態で、あっちに走り、こっちに走り、あわてふためいて、おろおろしていたのだが、鑑真号で一緒だった中国語ぺらぺらの日本青年と一緒にいたので、彼の助けを借りて、一難を乗り越えることができた。

そうして、迎えに来てくれた上海のエスペラント使いのおじさんに連れられて、中国語ぺらぺら青年と、もう一人やはり鑑真号で一緒だった若者とともに、おじさんの家に向かった。

おじさんは、ぼくの親父くらいの年齢で、大学で先生をしていたのだが、今はもう引退後でのんびり暮らしている。奥さんは看護婦さんで、当時ぼくは福祉関係の仕事をしていたので、いい仕事をしているね、と優しく言ってもらったことが深く印象に残っている。

お二人は、日本の感覚から言えば、とても小さな家で、非常につましい暮らしをなさっていた。

それでぼくは「本当に泊まらせてもらっていいのですか」と、何度も聞いてしまったのだ。

二度目だったか、三度目だったか、そう聞いたとき、おじさんに
「お前は泊りたいのか、泊りたくないのか、一体どっちなんだっ」
とかなり強い調子で聞かれてしまった。

ぼくは、仰天しながらも、なんとか
「泊まりたいです」
と答えた。

おじさんは、それならいい、泊まっていけ、と言ってくれた。

ぼくはそのことをどう受け止めていいか分からず、しばらくの間、呆然としていた。

すると、少したってから、中国語ぺらぺら青年が、
「おじさんは、きみが泊まるのをすごく楽しみにしているよ」
と伝えてくれた。

それで、ぼくは気を取り直して、よし、今日はここに泊めてもらおうと、心を決めた。

じき、鑑真号で一緒だった二人の若者は宿に帰り、おじさん夫婦のうちに、ぼくが客としていさせてもらうという、当初から予定していた状態になった。

ところがぼくは、エスペラントがろくに喋れない。

さいわい奥さんはエスペランティストではないので、一部英語でやりとりをしたりしながら、なんとか時間を過ごしていった。

いま思い出しても、緊張が腰にきてしまうような、なんとも言えない時間を過ごさせてもらった。

けれども、それも本当にいい経験だったのであって、ぼくという人間は、自分の立場もかえりみず、ぽーんと自分を未知の状況に投げ込んでしまうことによって、なんとか自分の枠組みを拡げて、今まで生き延びてきたんだなあと、今こうして振り返ってみて思うのだ。

日本に帰ってからおじさんに、お礼の葉書きを書いた。

おじさんからの返信には「きみは喋るのはダメだけど、文章はうまいな」と書いてあった。

これが、ぼくの上海の思い出である。

日本人とゆかりのある上海について、ちゅるゆーかさんの文章を読んで、何か書いてみたくなったのだ。

日本と中国が、いわば親族関係にあることを、多くの人に知ってほしいという思いがあるのだ。

未知のものに対する偏見や、近親憎悪というものが存在することを知っているだけに。

それにしても、今の上海はいったいどうなってるんだろう。15年も前とは、まったく違うだろうからな。今度行ったら浦島太郎だ。

そんなことを思いながら、この文章は終わることにしよう。

それではみなさん、ナマステジーっ。

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