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[全文無料: フィクショナル・エッセイ]2,569マイル彼方のさして懐かしくもない故郷を想えば

[約2,800文字、400字詰め7枚ほど]

安宿の中庭の、蒸し暑い午後の熱気の中で、これを書いています。

建物の影で日差しは遮られているので、風が流れれば涼しさも感じられるほどの気候なのですが、日に照らされた建物の輻射熱で、Tシャツの下、じんわりと汗が滲むのです。

ラオスの首都ヴィエンチャンは、今まさに経済成長の真っ盛りです。

通りに出れば、やや整備の悪い車がたくさん通り、結構なやかましさなのですが、路地を一本入ってしまえば静かなもので、宿のお母さんとお父さんの静かな話し声と、どこか近所の家から聞こえてくるラジオの音楽の音以外はひっそりとして、南国の気だるい空気でいっぱいです。

ヴィエンチャンに来たのはインドのビザを取るためで、先週の火曜日に申請書を出して、今日の午後四時には受け取りに行きます。

発行日から六ヶ月有効のツーリスト・ビザが取れるはずなのですが、パスポートを受け取ってこの目で確認するまでは予断を許しません。

前回ネパールのカトマンズでインド・ビザを取ったときは、六ヶ月のつもりが四ヶ月しかもらえなかったので、奥さんと二人、旅の予定を変更するのに大いにじたばたしたものです。

ビザが無事取れれば、まずは陸路でタイに入って、そのあと10月22日にバンコクからインドに飛びます。

そして西インドの砂漠地帯ラジャスタン州に行って、プシュカルという小さな街でしばらく過ごしたのち、11月の11日からプシュカル郊外の瞑想センターで二十日間の瞑想コースに参加する予定でいます。

ぼく以上に熱心に瞑想に打ち込んでいるうちの奥さんの影響もあって、極めて不真面目なぼくにしては相当しっかりと、この二年ほど瞑想の練習を続けています。

今年の三月から七月までは、東京の実家に居候していたのですが、その間四月・五月・六月と、毎月瞑想センターに行って、十日間のコースにボランティアとして参加していました。

ぼくが参加しているヴィパッサナーの瞑想コースは、十日間の合宿コースが基本で、コースの間は朝の四時半から夜の九時まで、休み時間はあるものの、ほとんど座りっぱなしという厳しいスケジュールです。

瞑想のやり方について先生に質問したり、生活上の必要なことをスタッフに伝える以外は、お喋りなし、メモを取ったり、何かを読んだりすることもなしですから、七年前に初めて参加したときには、ほんとにきつかったです。

無事に初めての十日間コースを終えたときには、これはほかでは得がたい経験ができたぞ、と満足感も大きかったのですが、正直な気持ち、もう一度受けるかどうかは分からないな、と思ったのを今でもよく覚えています。

それがどうしたわけか、おととしの暮れから、少しばかり気合を入れて瞑想をするようになり、十日間コースを五回座り、ボランティアとしても五回の十日間コースを経験して、今度は初めて二十日の長いコースに参加する予定でいるというわけなんです。

二十日間もただただ座り続けて、一体何が面白いんだ、と思われるかもしれません。

自分でも、何をすき好んでこんなことをやってるんだろう、と思うこともしばしばあります。

はっきり言って、一日中座りっぱなしというのは、少なくともぼくにとっては、極めてしんどいことですので。

この間、七月に京都のセンターでボランティアとしてコースに参加したとき、一緒にボランティアをしてた方で山登りをする人がいました。

それで、ぼくはその人に聞いてみたんです。

「山登りって瞑想と似てませんかね?」って。

そしたらその人が、
「そっくりです」
というので、やっぱりと思いました。

ぼくらがやっている瞑想の場合、とにかく呼吸と体に起こる感覚を見続けます。

だから彼は、
「瞑想は何も考えずに見続ける、山は何も考えずに歩き続ける。よく似てます」
と言うんです。

山道を歩き続けることは、きついことですよね。

でも、ふだん暮らしている人工的な街とは違う場所を歩き続けて、ちっぽけな人間には太刀打ちできない自然の光景と向き合うとき、人は深く心を動かされるし、日々を生きるための新しいエネルギーをもらえるんだろうなって思うんです。

瞑想の場合も似ています。

いつもは考えごとばかりして、あれやこれやと用事をすることで毎日を生きているぼくたち人間にとっては、何も考えず、何もしないで座り続けるのは、実にきついことです。

でも、その何もしない、ということに十分な時間をかけて熱心に取り組むとき、ふだんの暮らしの中では、心の奥底に埋もれていたことが、ふっと浮かび上がってきて新たな光で照らされたり、あるいは、いつもなら見慣れていて見過ごしてしまうようなものの中に、まったく考えたこともなかった、思いがけない新しい顔を発見したり、といった不思議な経験が起こるのが瞑想の世界なんです。

ヴィパッサナーというのは仏教の瞑想法ですから、そうやって瞑想の練習を続ける中で、ふだん自分だと思っているものが、エゴという捕らわれの塊にすぎないことに気づき、また、この世のすべてのものが変転し続けることを深く知って、何ものにも捕らわれることがなくなったときに、一切の苦しみが止み、慈愛に満ちた境地に至れるのだ、という世界観を信じることで、一歩いっぽ瞑想の道を歩いていくことになります。

こんなふうに文章を書いていると、まるで自分がもう「悟り」を開いちゃった人間みたいに思えてきて、妙な気分になりますが、ぼくが最近思うのは、完全な文章というものが存在しないのと同じように、完全な悟りっていうのも存在しないんだろうなってことなんです。

瞑想のことなんか、これっぽっちも知らなくても、この世界を丁寧に眺めて、自分の人生を丁寧に生きている人は、ある種の悟りを知っているはずだし、仮にお釈迦さまが「最高の悟り」を知っていたとしても、その二千五百年前の悟りを今の人にそのまま説明したんじゃ、なかなか伝わりそうにないじゃないですか。

とまあそんなわけで、こんな文章を書きながら、改めて世界の東の果ての島国のことを思うと、さして懐かしくもないはずなのに、遥か遠いアスファルトとコンクリートで覆われたその生まれ故郷に対して、なんとも言葉にしようのない気持ちを持っている自分に気づいてどきどきすることになります。

これを読んでくださっているみなさんの多くが住んでいるその国のことを、好きだなんて、今まで思ったこともなかったのに、本当は心の底から大好きだったことに突然気がついて、その恋心にも似た不思議な気持ちに心躍らせながら、南国の気だるい昼下がりの魔法の時間の中、ゆらりゆらりと宙ぶらりんの世界を楽しむ自分がそこにいたのです。

[2018.10.15 ラオス、ヴィエンチャンにて]

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