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【通信講座】 小説「ドランクンヘヴン」 講評

大友克洋『童夢』、スティーヴン・キング『キャリー』のような趣向だと思ったら
万城目学『鹿男あをによし』だった。
あるいは、『君の名は。』『天気の子』の不完全な模倣だった。
 
着想、素材に個性的なひらめきを感じはするし
先が読めず、とにかく最後まで興味を持続させることができたが
定型(類型ではない)を踏まえていないレトリック、プロットが
そのずれかたが致命的なものではなく、非常に微妙であるためにかえって
いっそう違和感があって、気持ち悪い。
 


レトリック(文体)について。
タイトル『ドランクンヘヴン』からして奇妙で
近代以降、Heaven は、まずキリスト教の「天国」のことで
(「God's in his heaven; all's right with the world.」)
「酒に酔い、錯乱した天の主」のような異教的(非キリスト教的)イメージと合致しない。
ギリシャ、ローマの神々ならばいくらでも見つかるだろうが
Heaven において God (一神教の「神」)が「酒に酔う」などという表象は
ほとんどありえないと思う。


アカは泣きたくなったが涙さえ出ない。声も出せない。手も上げられない。首も回せない。身体はすっかり硬直してしまった。山の斜面に立つ樹のように。
足元に光の輪が現れた。固まったアカを円は囲む。光の円の中心になすすべもなく立ちつくしている。
エメラルドグリーンの光が地面から噴き出す。地中に埋まったエメラルドの輝きが、漏れ出てきたのだろうか。

 
「山の斜面に立つ樹のように」
「地中に埋まったエメラルドの輝きが、漏れ出てきたのだろうか」

 不要。まったく効果がない。


通学用のバッグとリュックがすべり台の元に取り残されている。彼らを見捨てて逃げ去るわけにはいかない。二人は公園の出口前で急停止し、後ろを振り返った。

「彼ら」
 このシーンで「バッグとリュック」に擬人法を適用する意味がない。
(ついでながら、登場人物たちは妙なところで冷静なので
 いちいちサスペンスの効果をさまたげる。
 本当に「見捨てて逃げ去るわけにはいかない」だろうか。
 登場人物たちにとってそれどころではない状況を読者は期待するのだが)



 ヒミズは頭を右に傾けていた。傾いた側に前髪が斜めに流れ、帳を開いていた。普段はおもてに出ない左の眼が、はっきり露出していた。
 現れた瞳は、大きく開く紅いバラの花を思わせた。バラのように美しく、怪しく、恐ろしかった。目という器官を超越している風で、まるで現実のものではなかった。


「帳」は一般的には「おりる」

「瞳」は「バラ」でたとえたりしない。比喩は一般的でなくてもかまわないが
描写が粗雑であるため、個性的な表現たりえていない。



どす黒い重油をたっぷり呑み込んだ気分だった。
恐怖で、胃がねじ切られる思いだった。


 誇張であり、虚偽であり、まったくリアリティーがない。不要。


(作者より)
小説を書く際にもっとも重視しているのは文章です。
とにかく、いい文章を書きたいと考えています。
(具体的には櫛木理宇のような文章が書けるようになりたいです)
自分の文章に何が足りないかある程度は自覚していますが、お気づきの点があれば、ぜひご指摘ください。
また文章力向上のためのアドバイスをいただけると、たいへん助かります。



 小説としての散文の上手下手は、所謂文章――名文悪文と俗に言はれるあのこととは凡そ関係がない。所謂名文と呼ばれるものは、右と書くべき場合に、言葉の調子で左と書いたりすることの多いもので、これでは小説にならない。漢文日本には此の弊が多い。
 小説としての散文は、人間観察の方法、態度、深浅等に由つて文章が決定づけられ、同時に評価もさるべきものであつて、文章の体裁が纏つてゐたり調子が揃つてゐたところで、小説本来の価値を左右することにはならない。文章の体裁を纏めるよりも、書くべき事柄を完膚なく「書きまくる」べき性質のものである。

           坂口安吾『ドストエフスキーとバルザック』


分かりやすく、正確で、ユーモア、リズムもかねそなえた文体ながら
強調する必要がない、一般的に書き流せばいいところで
無用のレトリックをつかおうとして、かえって
独創性、個性をだいなしにしている。
定型句をことさらに避けようとしているのが分かり
小体で、せこい、臆病な作風に感じる。


構成について。
超能力SFホラーだと冒頭、序盤で期待させながら
「余白」「ヒミズ」「ドランクンヘヴン」「ミーナ」
さまざまな主題が提示され、棚上げにされ、
なにがメインの筋なのかラストにいたるまで把握できない。
『君の名は。』『天気の子』のようなボーイミーツガールだと分かったのは終盤で
『キャリー』めいた「ヒミズ」が
ヒロインのポジションだとは想像だにしなかった(意外性があっていいという意味ではない)。

アイディアは豊富だが
「書きたいこと」「書くべきでないこと」の分別ができていない。
主人公「アカ」の両親はプロットにおいて機能していない。不要。
「ミーナ」の存在は完全に逆効果でしかない。まったく魅力を感じないばかりか
「アカ」の軽薄さを強調するだけで、なんのために登場したのか分からない。
適当すぎる「アンスラックス教授」も無意味。大学教授が提唱する理論にしてはあまりにも細部が粗雑で、スピリチュアリズムの一貫する体系として成立していない。『キャリー』の印象を助長するのみ。

素直に「アカ」「ヒミズ」の「ボーイミーツガール」として構成し
余計な人物、関係性をカットできればどれだけよかったか。




(作者より)
それと今回はキャラ造形にも注力しました。
キャラに対する所感などもお聞かせいただけると幸いです。

主人公「アカ」が軽薄な若者でしかない。
行動理念がきわめて漠然としていて(『君の名は。』『天気の子』に似ている)
恐怖に由来する自衛、大切な人を守りたいという意志、あるいは
友人「トオノ」のような好奇心でさえなく
終始、なんのために行動しているのかあいまいな「アカ」は
「顔」が見えない。


 それにしても、なぜ男は唐突に黒川ヒミズの名を口にしたのだろう? 男とヒミズには接点があるのだろうか。ヒミズに訊ねれば、男の正体が判明するだろうか。
 しかしそれはできない。黒川ヒミズには近寄ることさえ、はばかられるのだから。

このシーンがなんとしても不可解。
中途半端に両親が助けに入らなければ
生命の危険、恐怖から
あるいは強い好奇心から、積極的に
「黒川ヒミズに近寄る」必然性が生じたのに。

「アカ」がこの物語で
いかなる変化(成長)をしなければならないのか
という発想が欠如している。
致命的な欠陥であり、この変化を通してしか
せっかくの独創的なアイディアを生かすことはできない。


「ヒミズ」は
『キャリー』と見せかけて
『君の名は。』『天気の子』であるという趣向が表現しきれていればすばらしかった。
そのためには、やはり「ミーナ」がいらない。

恥ずかしい話ですがわたしはお金に困っていて、お母さんの財布から小銭をちょくちょくくすねては、絶対見つからない場所に隠して貯めこんでいました。当然誰にももらしたり、見られたりしていません。
しかしヨハクさんは小銭をくすねていたことも、お金の隠し場所も、平然と言い当てました。

これは本当に「恥ずかしい話」で
共感させようとしているキャラクターに、このようなマイナスイメージのエピソードをあたえるべきではない。
(ついでながら
 「絶対見つからない場所」、どのように隠したかを具体的に示し
 「言い当てた」ではなく「行為」で印象的に描写すべき)


「トオノ」は
この作品で唯一、過不足なく役割を果たしている。
もっとも魅力的でもある。


想像力ゆたかな作者に必要なのは
レトリック、プロットにおける典型的様式に対する
正確な把握、適切な距離感であり
物語のなかで特定の機能を担う登場人物、エピソードを
構成要素として的確に配置するための物語全体への視点だと思う。

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