spoon_knights_2のコピー147

銀匙騎士(すぷーんないと) (37)

「おい。おーい。おい。
 死んだ。
 息してない。もう、なんか、つめたい。ぜったいにしゃべらない。動きもしないだろうな。
 これが死ぬってことか。さみしい。
 もう、二度と会えないもんな、会いたいと思っても。ここにいるけど、いない。
 おれはおまえの話を聞いたけど、おれ以外の人間は、誰も聞いてない。このまま死んでたら、ああ死んでるな、って思われるだけだ。灯台の、ああ、こういうことじゃん。
 ぽっかり口をあけた、その赤くて黄色い光のもれる穴が、硫黄と石油と塵の燃えさかる地獄の門に見えなかったのは、男が必死に生きようとしていたからだし、希望をけっして捨てなかったからだし、それに、あたたかかったんだろう。
 そうかな、寒かったんじゃないかな。おれは、それっぽいことを考えてたんじゃないかな。男は、本当に絶望してなかったのかな。いまの、さみしい、せつないおれは、ちがうような気がしてる。こいつ、名前も聞かなかったこいつは、地獄の門が見えてるのか、天国の階段をのぼってるのか。おれは、こいつじゃないから分からない。永遠に分からない。人を殺したしなあ。
 それで、それで、そっとのぞいた。
 川のなか、そっとのぞいてみてごらん、だ。目高と蜻蛉の戦争だ。みんなでごたくさやってるよ、だ。
 それで、それで、それで、灯台守の夫婦と、そのおさない子供が、つつましくも、しあわせそうな、やっぱりあったかそうな夕食の最中だったんだよな。
 あっ、やばい、
 と、男は硝子をうとうとした手のとんかちをひっこめた。
 どぶん。
 と、大きな波がおしよせた。その内気な男を、ずっと遠くまでさらっていって、海のもずくになった。
 もくずだって。
 その男みたいに、こいつもなっちゃった。
 おれに全部おしつけて、死にやがって。いっしょに考えて、書いて、残せばいいのに。馬鹿。いいけどさ。おれがおまえに名前をつけて、おはなしにするよ。おれは、おれのおはなしからはじめる。おれのことからはじめて、それで、おまえが出てくるまで、おれなら、こう書く。日記をさ、書きなおすんだ。

 風船が飛んでいく。卍(まんじ)にもつれ、巴(ともえ)にみだれ、七色の吹雪のようでもあったし、神秘な沈黙のうちに巡礼の旅に出発した、熊蜂(くまんばち)の飛行のようでもあった。
 いいのかな。いいだろ。もっと、もっと、もっと、書くよ、変なこと。
 変なふうにっていうか、見えたように、感じたようにさ。
 安稜(あろん)は、って、おれのことだ。
 あごを三角にとがらせて、のどはつるつる、雪花石膏(あらばすたー)の丸柱。赤いのはあめ玉だし、黄色いのは花の種、白は赤ん坊の歯、空のまんなかから太陽が照らして、ときどきそれは針で突いた傷のかさぶたになったり、櫟の木の裸幹からにじんだ樹液の粒、安稜(あろん)の目玉にもなった。
 たのしい、おもしろい。おれの目玉が風船になって、風船がおれの目玉になっちゃった。
 
 あいつが帰ってくるまで、書いてるよ。
 あ、は、は、は、は、は、は。
 おまえのおはなし、本当はさ、眠かったけど、いま、なんか、眠気が吹き飛んだ感じ。
 ここから、おれのおはなしだから。やっぱり、人のおはなしより、おれのおはなしがおもしろいよ。
 
 女の子が、帰ってきた。器(めんつう)に水をなみなみ注いでいた、ちゃぷちゃぷ、なかは大渦潮(めいるしゅとろーむ)、見えないけれどそうにちがいない、縁を越えれば津波のように、大事そうに添えた指をおかすから、一歩一歩、こぼれて減っていくのにはらはらする。
 水が来た。安稜(あろん)はそれを受けとって、胸に捧げて、じっと男の子を見つめた。つめたくて清浄な水でもよければ、どろどろで灼熱した、不潔な水でもいい、湯でも茶でもいい、露でも雨水でも、泥水でも、樹液でもいい。
 そして、これはこの上なくつめたい、清浄な水だった。
 不潔な水でも、きっと茶碗(かっぷ)に入れれば同じだという確信が安稜(あろん)にはあった。つまり、濾過、煮沸はもとより、神秘な魔法をかけられて祝福される、そういう過程を、じゃぶじゃぶ、そそぐうちに水は一瞬で経験して、生まれ変わるだろうから。
 男の子の体に、ふりかけた。大粒小粒の水滴が、男の子を濡らして、びしょびしょになった。それだけだった。目をあけたり、体を起こしたりはしなかった、ということで、しばらくはなにも変わらなかった、という意味で、それだけだった。
 男の子のひざから、小石まじりの荒い砂の上、きれいな弧を描いて虹がかかった。よく見れば蟻の巣があって、赤いの、白いの、黒いのが、めずらしい橋ができた、と思って次々、なかよく背の順に渡っていくのが観察できる。頭のほうで砂ねずみがうつぶせになって、つめたくなった額でおなかを冷やしているし、手足には左右それぞれ指は五本もあって、四匹、糸蛇がからみついて遊んでいる。髪の毛の根本から、ざらざら、極小の真珠玉がこぼれ落ちて、右耳からつむじ、左耳にかけて半円形に白い暈(はろー)をかぶって、光らせ、まるで、それは、神さま。
 それは生命。あんなにかすかな、ちいさすぎて存在しているかのかどうか、判断しづらい、いてもいなくてもいいようなつぶつぶが、でも光るから、ここにいると主張するから、いちいち全部がたしかに存在していて、そのはずだ、これから生まれる卵なのだから。
 神さまだから、ひげが生える。もちろん、まっ白。いつのまにか、髪も白い。そして、どこまでものびる、光る。いまや、髪とひげは、あらゆる部分に広がっている。頭蓋骨のなかの透明な玉から毛がはえて、頭蓋骨と頭の皮をつきぬけてまき毛、ふさふさ。百億七千五百、もつれないように、さらさら、牧羊草原(すてっぷ)をかけぬける風より、きよらかな水を脱ぎ捨て脱ぎ捨て立っている噴水の足もとの流れよりも、もっとさわやかですずしい。まき毛のひとふさに四百十の髪の毛。髪の毛の一本一本が四百十の世界を照らしている。透明な玉は、脳みそだ。最高の知恵がつまっている。その知恵は、うすい表面のもやみたいなもの。脳みそは、三十二の道に別れてのびている。ひげから、十二本の川が流れている。手から光線がひらめく。たとえば、父親と母親、おしべとめしべ、光と影、有と無、生と死、天と地のようなもの。光線がまじわったところに森羅万象、存在する力が生まれるから。われた額から、また額がのぞく。きっと知恵の額で、顔を見せたなら、きっとかわいい女の子だ。
 男の子は泉(おあしす)になった。
 女の子、
「死んじゃった」
 ひと口、のどをしめらせ、汗がひいて、あがった息も下っ腹におさまったころ。安稜(あろん)、
「うん。だけど、生き返ってる」
「よかったね。よかったのかなあ。この子のしあわせを、あたしたちが決められないよ。あたしは、ふつうに助けてあげたかったんだもん。それができなかったから、いま、すごく残念。助けてあげたかった」
「いろいろ聞いた」
「どんな子、どんな子」
「いい子だと思う。死ぬことないのに」
「やっぱり、残念」
「まあね。どう思えばいいのか、よく分からん」
「むずかしい。ぜひとも、この子に言ってほしい。むりだけど。いま、しあわせなのか、どうなのか」
「おまえ、なんでふつうにしゃべってんだ」
「えっ」
「えっ」
「いま、それ、聞くの」
「うん」
「お水、飲んだからじゃないかな」
「なんでもありなんだな」
「安稜(あろん)が、あたしにいっぱいおしゃべりしてくれたし。そりゃあ、覚えるよ。あんなにしつこく話すんだもん」
「いけなかったのかな」
「うれしかったよ。ふつう、いやになるでしょ。馬鹿じゃないの」
「なんか、いけなかった気がするな」
「うれしかったって言ってんだろ。馬鹿」
「おれの口まねか」
「ごめんね。わざとじゃないもん。だって、安稜(あろん)から覚えたことばだから、安稜(あろん)が言ってたように言っちゃうの」
「うーん」
「うーん。まねしちゃった」
「ごめんな」
「いいって。あたし、馬鹿じゃないから、安稜(あろん)も馬鹿じゃないから、そんなの気にしない。本気じゃないもん。もっと言っていいよ」
「ばーか」
「はーい」
「おまえ、自分のことばでおはなしできるようになったんなら、なんだったんだか言えよ」
「なんだったんだかってなんだあ」
「なんで鐘のなかで寝てたのか。化物虫もなんだか知ってんのか。あと、なんでことばを知らないのか、とか」
「それ、聞いちゃうかあ」
「なんだよ」
「どこから話そうかなあ」

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