オットー_ネーベル

【通信講座】 「見せる虫」 講評

古き良き、推理小説ならざる、「探偵小説」を読んだ。
ことばの選択は厳正で、描写も的確、いまどきこれほど立派な日本語の文章を書ける人がいるとは思わなかった。
(「持ての他」は「以ての外」がただしい。それ以外の誤字脱字誤用はなさそうに思えた)

随分年季の入った建物で、二階へと繋がる鉄製の階段は所々錆びてしまい、剥離した塗装が足を踏み出す度に湿った煎餅のような音を立てた。
彼女のうなじが差し込んできた陽光に照らされ、そこに張り付いた小さな汗の玉一つ一つが、かすかに微笑んでいるように見えた。髪の生え際、頸椎の骨の輪郭が、チカチカと明滅する。

すべての細部が
海辺の町の蒸し暑さ、汗のにおい、眠ったような時間の流れを形成し
それぞれの力強い運動と摩擦があざやかな火花をちらす。
一人称「僕」が迷いこんだ異界の感覚を見事に創造した。


「鞄」の主題。

片手に持った鞄が、鬱陶しく感じられる。そんなに重いものではないはずなのだけれど……。
鞄を喫茶店に置いてきてしまったことに気がついた。手ぬぐいは、鞄の持ち手に巻き付けておいたのだ。

「鞄」が意志あるもののように、
あるいは無色透明な一人称「僕」の無意識の欲望を象徴するように
物語の進行と一人称「僕」の行動を支配している。
この白昼の異界でなければ、忘れ物などというつまらないプロット操作は
あまりにも恣意的で、作者の魂胆が見えすいて
耐えがたいほどみにくい結節点に堕してしまっただろう。


作者からのメールでは、

以前ネット上で、
「テーマが共感しにくい」
「ここという読ませどころ、読者の心を動かすポイントがない」
「物語の流れが静かすぎる」
等のアドバイスをいただいたのですが、正反対のことを書いてくださる方もおり、自分の弱点がうまく掴めずにいます。この辺り、アドバイスが欲しいです。

とのこと。
つまらない作品は常につまらない読者しか得られないが
すぐれた作品は
運がよければすぐれた読者を得ることができ、
つまらない読者をすぐれた読者にする可能性もある。
「アドバイス」に対してはこれ以外に言うべきことはない。
いわゆるリベラル・ヒューマニズムを極端に低俗化したくだらない読み方が「共感」である。
この作品に「ここという読ませどころ、読者の心を動かすポイント」を感じられないなら散文芸術を味わう資格がない。
「物語の流れが静かすぎる」ことまで認識できたのに、なぜ、それが作品の本質であり、作者の精妙な魔法の効果であるとみとめないのか。


本を読むとき、なによりも細部に注意して、それを大事にしなくてはならない。本の陽の当る細部が思いやり深く収集されたあとならば、月の光のような空想的な一般論をやっても、なにも不都合はない。だが、既成の一般論からはじめるようなことがあれば、それは見当ちがいも甚だしく、本の理解がはじまるより先に、とんでもなく遠くのほうにそれていってしまうことになる。たとえば『ボヴァリー夫人』を読むに当って、この小説はブルジョワ階級の告発であるというような先入観をもって読みはじめるくらい退屈で、作者にたいしても不公平なことはほかにない。つねに心しておかなくてはならぬことは、芸術作品というものは必ずや一つの新しい世界の創造であるということ、したがって先ずしなければならぬのは、その新しい世界をできるだけ綿密に研究し、なにかまったく新しいもの、わたしたちがすでに知っているどの世界とも単純明快なつながりなど全然もっていないものとして、その作品に対することだ。このような新しい世界が綿密に研究された暁に、そのとき、そのときのみ、その世界と他の世界、他の知識分野との関連を調べてみればいい。
読者が良き読者になるためには、どうあるべきか、答えを四つ選びなさい──
 1 読者は読書クラブに属するべきである。
 2 読者はその性格にしたがって、男主人公ないし女主人公と一体にならなければならない。
 3 読者は社会・経済的観点に注意を集中すべきである。
 4 読者は筋や会話のある物語のほうを、ないよりは好むべきである。
 5 読者は小説を映画で観ておくべきである。
 6 読者は作家の卵でなければならない。
 7 読者は想像力をもたなければならない。
 8 読者は記憶力をもたねばならない。
 9 読者は辞書をもたなければならない。
 10 読者はなんらかの芸術的センスをもっていなければならない。
 学生たちの解答は、主人公と情緒的に一体となるとか、筋のある小説とか、社会・経済的観点とか、そっちほうにひどく片寄った傾向のものだった。もちろん、ご推察のように、良き読者とは想像力と記憶力と辞書と、それからなんらかの芸術的センスをもった人のことである──この芸術的センスを、機会あるごとに、わたしは自分自身のなかに、ほかの人々のなかにも、なんとか育もうと思っている次第なのである。
                    ナボコフ『良き読者と良き作家』


しいて言えば
「物語の時間と言説の時間の一致」(「【通信講座】「黒蟻の巣」講評」参照)をテクニックとして選択しているのか
つまらない読者への配慮(「分かりにくい!」「読みにくい!」)なのか
作品の全主題の均整が、かえって芸術的可能性を阻害しているような気がした。

江戸川乱歩であれば「見る」「見せる」の主題、その情景に大半のページをさくだろう。
 

彼女の肉感的な体つきを、舐め回すように見た。そこには確かに加害の罪悪感が存在して、同時にサディズム的快感があり、そして最後に湧き上がってきたのは、ちょっとした嫉妬の念であった。


小栗虫太郎なら「彩色虫」の主題で、分類学、解剖学的解説に夢中になるにちがいない。

夢野久作なら、ラストシーンこそが主題であり、ここから悪夢の幻想へ読者をいざなうことだろう。

――明日、大学へ行く途中、どこかで油性ペンを買っていこう……。
 乗客のほとんどいない深夜の列車で、僕は、そんな計画を立てていた。
――それから、顔にべったりと塗りたくってやるのだ。できれば目立つ色が良い。赤とか緑とか、あるいは青……。
 僕は喧噪の中をたった一人、そんな奇抜な格好で練り歩く妄想をして、湧き上がる欲求と高鳴る心臓を抱えながら、家へと向かって歩いていた……。

小酒井不木は「坂のヒエラルキー」を発展させ、奇怪な観念体系を築きあげるかもしれない。


調和やバランスなどという「つまらない読者」の観念から解き放たれたとき
作者がどのような「新しい世界」に飛翔していくか、期待している。

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