第3話 中学生活について

覚えてもらうにはストーリがあると理解しやすい。
その人の人となりを知るには、生い立ちも重要。
その観点から人生のストーリーをまずは書いております。

本当に伝えたいことはこんなことではないのですが、これも大事なコンテンツだと思って書きます。

中学校は1年生の5月後半から不登校になりました。
理由は色々あるため羅列すると。

勉強が好きでなかった。
サッカー部に所属したがケガをしてしまった。
馬鹿な教師と馬鹿な生徒に幻滅し、ここは自分の居場所ではないと感じた。
学校に通う意味を見出せなかった。

簡単に表現をするとこんな感じ。

勉強が好きでなかったのは大した問題ではなく、サッカーでケガをしたのは結構大きな衝撃だった。
それと同じくらいの衝撃は、国語の若い教師が忘れ物をした生徒を壁に立たせて、罰と称して腎臓パンチと言いながら背中を殴っていたこと。

殴られた生徒はもちろん痛がるが、見ていた周りの生徒は馬鹿笑い。
痛がる姿を見て何が楽しいのか自分には理解が出来なかった。
みんな馬鹿だなと思ったのもそうだが、良いのか悪いのか分からないが、自分は人と違うんだなと何となく感じた距離感を今でも思い出す。

こんな感じで楽しいことも特にないため、学校に行く意味も見いだせず登校拒否を開始。

親には理由も言わずに学校に行かないと強硬手段をしたものだから、それはもう大変だった。
母親も泣かせたし、父親にも何度も腕を引っ張られ車に無理やり乗せられ学校に連れて行かれた。

それでも車が消えたらすぐ帰るということを繰り返し、次第に何も言われなくなった。
これは悪い意味ではなく、自分の考えを理解しようとしてくれた、尊重してくれた、見守ってくれたと感じている。

ただ時にはお払いが有名な人の所に連れられ、お経?を唱えられ儀式をされた。
申し訳ないが何にも効き目はなかったと思う。

また、誰に聞いたか覚えていないが、両親が不登校の研究をしている大学の先生に相談に行き、自分の意志で行く気にならなければ意味がないと言われたため見守ることをしたというのを耳にしたことがある。

どのタイミングのことだったかは聞いていないので分からないが、ある時期から不登校について本当に何も言われなくなった。

そうなると自分の場合の生活は、昼間はずっと部屋でゲームをして、夜はオールナイトニッポンを聞いて夜中の3時に寝るという生活が普通になった。

もちろん朝起きる時間は正午くらい。
本当、一生分休んだなと思えるくらい何も考えることのない何もない時間を過ごすことが出来た。

ただそんな生活も飽きていた頃、姉が持っていたカセットテープを聴く機会があり、今でも忘れない槇原敬之のデビュー曲であるAnswerという曲に衝撃を受けたのを覚えている。

正確な時期は覚えていないが、おそらく1年生の冬だったろう。
自分も音楽をやりたい!こんな曲を作りたいと本気で感じ、親にそのことを話した記憶が残っている。

何もしない子供が自分から何かをしたいと言ったのが嬉しかったのか、すぐにカシオの2~3万するキーボードとやさしい作曲の仕方という本を買ってくれた。
コードの意味も良く分からなかったが、和音を押せばメロディーになるんだということを学び感動したのを覚えている。

その後まいにちキーボードで作曲にチャレンジをしてると、やはり安い楽器では物足りなくなってしまった。
キーを押したときの強弱もない物ではなく、ピアノのような押し感が欲しいと思い、当時はネットなどないため楽器店に行って色々と見ていたら、それが出来るのがシンセサイザーだと知った。

当時は小室哲哉がヤマハから出しているEOSというシンセをプロデュースしており、これを買うか、デモの音源が良かったSY77が良いかと、受験勉強などで人生の進路を必死に考える皆と同じように悩んだものだった。

結局SY77を選んだが、値段は20万円する代物のため、さすがに親にねだることはできなかった。
そのためどうしても欲しいから新聞配達をしたいと親に相談し、早朝の配達をすることになった。
この時にお金を稼ぐという大変さや大切さなどを学んだ気がする。

無事に1年間やり通し20万円が貯まったときには3年生となっていた。
安いキーボードで練習し、カセットテープを聞きながら大声で歌を歌い、声変わりする自分の声をつぶすために口にタオルを挟んで大声を出し、壊して回復してを繰り返していったら、地道ではあるが1音ずつ自分の声のキーが上がるのを経験した。

なので、今はその時から1オクターブ以上は高い声で歌えるようになった。
どうでも良い話かもしれないが、努力は報われるのかもしれないという話である。

そんなこんなでプロの歌手になろうとシンセで作曲などをしていたが、3年生の10月くらい?だったか、サッカー選手の三浦知良がイタリアのセリエAに移籍するというニュースを目撃した。

自分はサッカーが本当に大好きだったので、ケガで断念はしていたが、またチャレンジしたいという思いが沸き上がり、家にあったサッカーボールをもって近所の公園に2年ぶりに蹴りに行った。

そうしたらどうだろう。
痛くてボールに触れることすらできなかった足が、全く痛みもなく普通に蹴れるではないか。
この時の感動は言葉で言い表せないものであった。

その日から毎日、中学校の生徒と会わない夕方の遅い時間から公園にサッカーボールを蹴りに行った。
最初は意味もなくただ夢中でやっていたが、毎日していると高校でもチャレンジしてみたいと思うようになった。
そんな風に思えたのが12月の冬休み前だった。

すぐに親にその思いを伝えたらとても喜んでくれ、すぐに学校に相談してくれた。
1年生の5月から学校に行っていなかった自分を受け入れてくれ、高校に受かるか分からないが、とりあえず出席だけは必ずするように言われた。

12月の末に少しと、年が明けてからとりあえず毎日通う生活となった。
もちろん受験シーズン真っただ中なので同じ教室には入れてもらえず、家庭科の被服室が自分の部屋になった。

先生も忙しいため勉強は自習のみ。
当たり前だが勉強をしていないので教科書を見ても意味が分からず断念。
そのため先生と交渉し、とりあえず毎日行きはするが1時間で帰ることで了承を得た。

家では有難いことに両親と姉が勉強を教えてくれた。
中学1年の初歩初歩、英語すら意味も分からないがとりあえず数学だけは教えてもらった。

そんな感じで受験となり、家から新幹線で通わない行けない宮城県で1番頭が悪いだろう高校にチャレンジをした。

なかなか面白い学校だったので次の日記できちんと書くが、そんな高校に受験をし、答えを書けていたかはすでに記憶すら残っていないが、無事に新聞に合格番号が掲載されていた時には本当に嬉しかった。

漠然と自分の人生はどうなるんだろうと思っていたから、またサッカーが出来る、音楽もこのまま人並みにしても許されるという思いがとても嬉しかった。

中学校にほぼ3ヶ月くらいしか行っていないため、自分はある意味小卒であると本気で思っている。
でも劣等感などなく、人が知らない世界を知れて本当に良かったと感じている。

人生は1回きりだから、誰かに敷かれたレールを歩むのは面白くないというのが自分なので理解はしてもらえないだろうが、周りの人に支えられることにより何とか高校入学まで行けた。

宮城県で1番頭が悪いであろう高校がどういう所かというのは、次にたっぷりと書こうと思います。

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