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「社会的な役割や肩書き、主義主張が外れることによって、実はみんな楽になれる」#サークルボイス|青柳拓次インタビュー

映画『ひびきあうせかい RESONANCE』の制作時に行った青柳拓次へのインタビューより。


Q、サークルボイスを始めたきっかけは何だったんですか?

「サークルボイス」とは オーディエンスが青柳拓次とともに、世界中の部族、民衆特有のスキャット(意味をもたない詞)をオリジナルのメロディーにのせて歌う、参加型のコンサート。

言葉の限界

構想自体は2006年頃から。

詩や文章を読むリーディングのイベントをやっていて、言葉のコミュニケーションをけっこう密にやってました。誰しも言葉に関しては、ある意味玄人っていうか。日常的にいろんな言葉を使って工夫して思ってることを伝えたり、時には書いたり。みんなすごく使い込んでるっていうのが分かってきて。言葉の面白さをすごく感じてはいたんだけど、一方で、音楽って言葉じゃない部分がすごく大きいんですよね。歌の分野でも歌詞を使わない表現方法があるっていうことに気づいていったんです。

世界の民族音楽が好きでよく聞いてたんだけど、その中で言語じゃなくて意味のない言葉『スキャット』を使って歌うっていうのがいろんな国にあることに気がついて。これを使えばみんなで歌えるなぁと。国籍や言語を超えてみんなで音楽を共有できるって思ったんです。


人が交わる場づくり

当時はヨーロッパでライブしたり、イギリスとかデンマークでアルバム出したりして、外国での経験を重ねていたときでした。いろんな国のホームパーティやお祭りを見たりすると、音楽にはいろんな表現や形があって。そんななか、僕自身が人と交わって音の場をつくる方法っていうのがないだろうか、と考えていて。あるとき、舞台に立ってお客さんに聞かせるっていう形ではない音楽のあり方を、スキャットを使ってやってみたいと思いました。


一緒に歌う喜び

CDやレコードのライブ盤を聴くのが好きです。みんなが歌ってるところを聴くのが好きで、そこに感動してしまう。みんなで楽しく歌ってる状態を、自分も中に入って感じられるっていうのは自分の幸せでもあり、楽しみでもあるんです。


––––なるほど。色んな国の人が参加できて、言語は関係なく皆んなでスキャットで歌って、タクジさんもその輪に入って一緒に歌う。いういろんなピースが組み合わさって、サークルボイスっていう形が生まれたんですね。

サークルボイスには、未来がある感じがします。これまでずっと存在していたのかも、とも思える。過去も未来も同時にあるような、そういう形態のような気がしてます。みんなが日常から離れて1つの大きな有機体になれる、そういう体験が楽しいし気持ちいい。この世から祭が絶えないのもそこが大きな理由の一つでしょうね。

––––拓次さんが成し遂げたいというよりは、その形がどんどん広がっていけばいいと?

そうそう、こういう遊び方でやれるよっていう雛形をつくっている感じ。祭りのような状態をいろんな場所で作っていくような。コミュニティーや環境によって変化していくのも面白いですね。


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Q、自由に音楽をやるってなんなんでしょう?

日本の音楽教育

いろんな国を見てきて感じたことなんだけど、日本人が音楽に関わる時の気持ちは、小学校の音楽の授業が強く影響しているのではないかと。合唱やる時も、先生がいて「こういう風に、こういう表情で歌いなさい、演奏しなさい」とか。好きな曲もあるけど、そうでもない場合が大半。小学校6年間にそういう経験をすることで、それが音楽をやることだ、というふうに身体に刷り込まれてしまう。その先の人生でも様々な音楽に出会っていくんだけど、カラオケは別として、聞く側にまわってしまう人が大多数なんだろうな、と。
楽器自体が好きで習い始めてずっとやる人もいるけど、多くの人がそもそも自由に音楽をやるっていう発想自体が無いような気がします。
音楽って本当はハードルがすごい低いんだけど、高いかのように感じてしまう。その原因が小学校の音楽の授業にあるんじゃないかな。勿論、がんばっておられる先生もいると思いますが。あとは、日本、西洋の音楽が中心で、授業で世界の民族音楽に触れる時間が圧倒的に少ない気がします。

––––僕自身まさにそうです。音楽が好きで20代にバンドをやっていたんですが、よく分からない不自由さから楽しくなくなってやめてしまいました。


音楽ってもっと自由でいい

例えば「ピアノって、好きに自由に弾いてもいいんだよ」なんて誰も言ってくれないですね。ましてや、歌を皆んなでその場で適当につくって歌おうなんて。世代を超えて、3世代で一緒に同じ歌を歌おうなんて今の時代ありえない。でも民謡が生活に根付いている文化ではそれが出来ると思うし、いまだに沖縄は出来ていると思います。
音楽の楽しみ方において、世代間で分断されてるのは今の日本の、もっというと世界の都市の大きな特徴かもしれない。


世代を繋ぐ沖縄の民謡

民謡はすごく大事ですね。世代も過去も繋ぐし、この先もずっと続いていく。沖縄に移り住んだのはそういうところに惹かれたのが強かった。民謡が生きてて、未だに新曲が生まれて、人々が世代を超えて繋がってる。それは地球規模で見たら、世界のスタンダードなんだけど、日本を考えると、ある地域しかそういう環境は見当たらないですね。

––––タクジさんのライブでも『安里屋ゆんた』(メインが歌って周りが「さーゆいゆい」って合いの手を入れたりする沖縄の有名曲)をやりますよね。

そうそう。もし沖縄の人がいる中でこの曲が聞こえてきたら、もう一気に始まる。踊れるし、歌えるし。小さい時から聞いてる曲ですしね。へたすれば太鼓も叩いちゃうだろうし。沖縄は、床の間のすぐ手が届くところに三線が置いてある文化だから。

昭和の最初の頃は、今より地域性のある音楽が根強かったと思います。誰もが祭りに深く関わってただろうし、世代も今程分断されていなくて、核家族も少なかった。引き継がれる歌も多かったでしょうね。じいちゃんばあちゃんが孫の世話をしながら歌うわらべ歌なんかも、自然に子どもたちは覚えていった。

そういう意味で、アメリカのブルースもカントリーも沖縄の民謡も、在り方はまったく同じ。それが世界のスタンダードだと思うんです。アイルランドでパブに行けば、アイリッシュの人たちがわーーって歌ったり踊ったり演奏したりしてるみたいに。そんな光景が世界中にあるっていうのが本当は普通の状態なんだろうなと。


繋がるための音楽をつくる

––––僕を含め、今を生きる人たちが一緒に歌えるし踊れるって曲はないかもしれませんね。

そうですね。口ずさめても、幼稚園や小学校で教わるような曲くらい。例えば、東京の祭りで、東京音頭がかかっても踊れないし、聞いたことも無いっていう若い子は多いと思います。だからそんな日常生活と地域性の高い音楽の関係が薄い層と一緒に、サークルボイスをやると、また何かしら意味が出てくるかもしれないですね。僕も東京生まれだし、それゆえのやり方っていうか。「昔からある民謡をみんなで歌いましょう」じゃなくって。

ただこれまでもこれからも、日本人だけに向けてということは無くて、自分が色んな場所に出て行ったり、もしくはいろんなところからやって来る人たちとの交流の手段として、音楽がやれることはいっぱいあるだろうなと思ってます。


Q、拓次さんの言う「調和」とはどういう状態のことですか?

マイペースでオープンな状態

むずかしい質問...

大義がない感じが良いんじゃないですか?みんなで一斉にあちらに向くとか、それによって行動するとかではなくて。みんながそれぞれのペースを保てる状態が理想。自分の考えに基づいて生きてられるっていうか。軍隊なんかになると1つの大義と目的がある。全員が同じ方向を向いて、マシーンのように行動する。それも人間のある側面ではあるけど、調和とは遠い世界ですね。

人はそれぞれ考え方、知識、経験、脳の細胞まで違う。他人の領域にずかずか入っていかないで、互いのペースを守れている状態っていうのが調和してる状態なのかもしれない。

マイペースでいて同時にオープンでいられること。自分なりのアリ、ナシってなかなか外せないんだけど「それもアリだよね」ってなれるかどうか。「私はこうだ」って持ち続けているのは実はマイペースではないですね。誰かに自分を振りかざすんじゃなくて、自然体でオープンに対応できる。みんなでそういう状態になれたらすごくいいなと思います。

––––そうですね。僕も常にそうありたいですがついつい我が出てしまうことが多いです。

サークルボイスをやることで、みんなが少しでも自分の社会的な役割や肩書きを外せる瞬間があるといいなってよく思うんです。オープンになって、自分の主義主張とか強い自我が外れることによって、実はみんな楽になれる。誰しも肩書きなり自分の考えなり哲学なりで強ばった対人関係を築いてしまった経験ありますよね。忙しくてなかなか肩の力を抜くことが出来なかったり、そういうことに意識を配れるほど余裕が無い。でも、そもそも音楽は、日常のスピード感、時間の流れを変えることができるんですよね。


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Q、拓次さんの理想とする「調和した世界」は具体的にはどんなイメージですか?

ユートピアをつくる教育

一つの理想を言えば、学校なり社会なりっていうのが常にいろんな人種の人がいたりすること。ある種のユートピア的な環境というのかな。

僕の子ども達はインターナショナルスクールに通ってて。そこには黒人、白人、インド人系、アジア系、様々な人種の子ども達が一緒に学び、遊んでる。そこで育った子たちは人種の垣根が全くない。たとえば、だれかがある人種について差別的なことを言ったときに、自分の友達のことをそんなこと言うなって思うだろうし。それは大人になってからも考え方を知識で書き換えることはできるかもしれないけど、小さい頃に受けてきた教育や環境からは、自然に身に付くものです。

自分たちの文化とか他の人たちの文化が、ちゃんと同時に大事と思えるような教育ってどんな方法があるのかなって。これからの世界を作っていくのは教育と家庭の部分ですね。レイシズムの考え方なんてありえないっていうのが常に根本としてある状態をつくることができたらいいなと思います。

––––大事なことですよね。僕も子どもができたらそういう環境で育ってほしいです。

根底にある安心

昔の村社会はみんなで子どもを育てたりして、共同体が1つの大きな家族になっていたと思うんです。良い面も悪い面もあるけど、安心感っていうのが今のものとは全然違う。その安心感がもたらす心の安定がベースに流れてるような人生。そのうえで孤独や悩みがあって、っていう。いつもちゃんと誰かに守られてるし、守ってるし、っていうのがみんなの根底にある状態。それって、理想の社会や平和の条件の一つですよね。


Q、サークルボイスをやる上での目標はありますか?

平和な場所をつくる

サークルボイスの限られた時間を使って、平和な空間をつくること。いろんな場所、色んな国で。社会的な役割、肩書きとかが少しでも外せたら。参加者が、自分が何民族であるかっていうことも一旦置いといてもらえるような、単に地球の人として参加しているっていう気持ちになれるような内容にしたいと思ってます。

例えば、民族間で争いのあるところでやるとか。その両民族がいることも大事。意外と交流のない隣の家の人とでもいい。あとは、大きく物事を動かしてるシステム運営側の人たちと普通の人たちがシャッフルされた状態でサークルボイスを体験するとか。3世代が一緒に歌うとか。普段違う状況に置かれてる人たちが1つの場所でサークルボイスを体験することによって、頭だけでなくて、身体で、魂で「同じだ」ということを感じる。そのことで日常に少しでも変化が起きると嬉しいです。



Q、最後に。以前紹介してくれた本『水は答えを知っている』に「人間は自分が持つ周波数を使って、自然界のすべてのものや宇宙と共鳴でき、会話ができる」というようなことが書かれていました。これについてどう思いますか?


宇宙とひびきあう

ギターをチューニングする音叉ってありますよね?ラの音が鳴る。あれと同じものを少し離れた場所に置いて、片方の音叉を鳴らすともう一方の音叉も鳴りはじめます。同じ周波数のものっていうのは一緒に振動して鳴るんですね。

そういう意味で、人と人との響きあいっていうのは現実に起こってるし、宇宙や自然の波長とも、無意識にかなり響きあってるんだと思う。特に気待ちがオープンな状態でいるときに森羅万象ととてもシンクロしているように思います。逆に、自我的意識を出せば出すほど色んなことがチグハグで複雑になっている気がします。
いわゆる、頭で考えることが肥大した生き物が人間。そこを実際の体験、行動によってより思考がシンプルに洗練されることで、掴めるものが変わってくる。どうしてもいろんなことを考えてしまうっていうのは人間の性だけど、そうじゃない瞬間をどうつくっていくかですね。

世界は常に響きあってるのだから。



こちらのインタビューは、映画『ひびきあうせかい RESONANCE』のパンフレットに掲載されています。


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青柳拓次
音楽家/Circle Voice主催
1971年、東京生まれ。父は古典楽器店を営み、母は祖父の代から続くクラシックのギタリスト。幼い頃よりクラシックや民族音楽に親しみ、ギター、ピアノ、パーカッション、民謡を学ぶ。1990年にLittle Creaturesでデビュー。以後、Double Famous、ソロの青柳拓次、KAMA AINA名義で多様な音楽性の作品を発表。ダンス、人形劇、演劇の舞台や映画の音楽を作曲し、パリの地下鉄、ミュンヘン、沖縄、シチリア、ハワイ島の音楽家と現地録音盤を制作。他にも、詩、絵本、旅行記の執筆や、旅の写真展を開催するなど、表現活動は多岐にわたる。2013年に沖縄ヤンバルからスタートさせた、声を重ね合わせる参加型のイベント「Circle Voice」は、映画『ひびきあうせかい RESONANCE』の制作・上映と呼応しながら国内外で開催。



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