見出し画像

日本人としての教養 ~七夕節供の始まりについて~

本日も先日の続きで節供についての話を展開したいと思います。
自己紹介から始まるので、ご存じの方は飛ばしてご覧いただけますと幸いです。

まずは簡単に自己紹介

初めまして!
ご覧いただきありがとうございます。
田中俊行と申します。
私は金融業界出身で現在日本文化に携わる仕事をしています。
元々、実家がいけばなに携わる仕事をしていたのと、大学時代の専攻が美学だったこともあり、回りまわって現在は仕事の6割くらいを日本文化に関係する仕事をしています。
残りの4割は公益社団法人の運営とその1事業として補助金申請や経営計画立案など中小企業者様向けの経営に関するコンサルティング業務を行っています。
金融業界時代は証券業界に所属していました。
主には資産規模で5億以上の地域の富裕層をターゲットとして、金融だけでなく不動産などの金融以外の資産管理の助言を行っていました。
そのあと、自分自身が所属する日本では会員数最大、歴史は最古の流派である池坊華道会に所属し、2年間中で会員管理や、全国のいけばな教室のサポートを行っていました。
noteをやり始めようと思ったのは、以下の理由からです。
①日本の生活文化についてもっと多くの方に知識として知ってもらいたいということ、②日本は経済活動を中心に戦後復興を成し遂げてきたために、現在あまりにも文化的な教養の無い人が多いと感じるために多くの方々へメッセージとして届けたい、この2点です。
私自身、SDGsをEducate、いわゆるSDGsを教育するESD(ESDはこちらへ)ということに関心を持っていてそれに個人や公益社団法人の理事として取り組んでいます。
古くから日本の生活文化の中には、SDGsの持続可能性という言葉が無意識ながらに取り込まれていることを1つの研究材料として私自身がとらえる中で、日本の文化の独自性についてより知ってもらいたいと思ったのが日本文化の発信活動をはじめたきっかけです。
グローバルな舞台でも、AI化が進む中でも、より国民性や個性といったそれぞれが持つ多様性が大切にされる時代になっていくことと感じています。
それぞれが持つ独自の個性やその集まりであるその国の持つ文化が、世界平和の礎となるようにと思っています。
いけばなの先生をしている手前、いけばなに関することが中心になるかと思いますが、皆様の生活の中での参考になれば幸いです。

おさらい

先日のおさらいをしておきます。
節供は、日本人の稲作文化という社会体制に伴い、神に供える供物という意味で古くは捉えられていました。
それが時代を経て、神が仏教に取り込まれるようになると、室町から江戸時代になり、神の要素が抜け次第に季節の節目の行事という意味が強くなりました。
五節供も平安時代にほぼ現在の形に制定されましたが、室町時代には五節供に飾る花の設定がなされ、江戸時代になると節供そのものが公式行事化されました。
本日は、来週月曜日に五節供の一つ、七夕がきますので、その辺りの説明をしたいと思います。

そもそも七夕って?

七夕とは、七月七日の宵という意味です。
牽牛・織女二星の伝説は中国の「七夕」の日本化といわれています。
日本では奈良時代より以前だと思うのですが、初秋(新暦で7月)に豊かな収穫をもたらす神霊の訪れを、水辺にしつらえた忌屋(いみや)という高床住居の中で機(はた)を織って待つ乙女の信仰儀礼がありました。
この高床住居のことを、建築用語で棚と呼ぶことから、その乙女のことを「棚機つ女」と呼びます。
これが理由で、中国から「七夕」が奈良時代になって到来するまで、初秋に収穫の神を迎えまつる行事のことを日本ではタナバタ(棚機)と呼ばれました。
※忌屋とは、月の行の時に女性が籠る小屋のこと

乞巧奠とは?

現在の七夕といえば、牽牛・織女二星の伝説が有名ですが、実はもう1つ”乞巧奠(きっこうでん)”と呼ばれる行事の意味合いもあります。
では、それはどういう意味あいの行事でしょうか?


中国における七夕(たなばた)行事。
乞巧とは牽牛・織女の2星に裁縫技芸の上達を祈り、奠とは物を供えて祭る意。
唐代では飾りたてた櫓(やぐら)を庭に立て乞巧楼といった。
この星祭が日本に伝わり,最初の乞巧奠が755年清涼殿の庭で行われた。
引用・出典:百科事典マイペディア

乞巧奠と牽牛・織女二星の伝説のつながりは?

牛を飼い、機を織るという生活は、農耕社会における生活の一部のことを表しています。
そのため、牽牛・織女伝説は織女たちが管理し維持してきた伝承かと考えられます。
こういったことから、手芸が巧みになることを乞い願う乞功奠と結びつくのも自然な流れなのかなと考えられます。 

これらの伝説の起源地は?

天の川は、中国では「天漢」と表記し、奈良時代に編纂された万葉集でも同じ文字が多くあてられています。
中国には甘粛省の幡家山に源流があり、湖北省の武昌で揚子江にそそぐ有名な「漢水」が流れています。
この北から南に流れる漢水が天上の天の川の方向とはぼ一致するので、天の川を「天漢」というようになったとする出石誠彦氏の説があります。
この地上の「漢水」に基づいて天上の銀河を「天漢」と呼ぶもとになったということは、牽牛であり織女である男女の恋の伝説の原型が漢水のほとりにあったということが考えられるそうです。

七夕と花の始まりについて

平安時代の文学の古典をみると、七夕には「瞿麦合(なでしこあわせ)」が伝えられています。
瞿麦合は本来ナデシコの花の優劣を競い、その後ナデシコに関する歌を詠み優劣を競うものと言われていますが、これは七夕の牽牛・織女二星伝説によせた「歌合」として伝わっています。
こういったことから七夕(しちせき)の行事が中国から伝わり、しばらくの間は七夕の花はナデシコだったということがいえるようです。

画像1

なでしこってどんな花?

”撫でたいくらいに可愛い”という言葉をとって、撫子(なでしこ)という今の名前が作られたといわれています。
江戸・大正期辺りの作品集には1種類だけで生けられた撫子の姿というのは残っていなく、(自分の手元にないだけで他にあるかもしれませんが、、)どちらかというと季節の花として、花がなく葉だけの草や木と取り合わせる時に生けられていることが多かったようです。
江戸時代の中頃のまだ型が完成されていなかったころには、1種類でも生けられていたことは多かったのではないかと思います。
近年になって、SNSで投げ入れ(一輪挿のような瓶に投げ入れるように生けられた花のこと)や茶席に飾る花として撫子を生けている方をみることが増えました。
下のリンクは以前、奈良県にある日本料理専門のオーベルジュからの依頼で、お茶会でのお花を飾らせていただいた時のものです。
河原なでしこを使ったいけばな

まとめ

七夕は奈良時代に中国からその伝説が伝わり、今なお残る風習になったということです。
その起源は中国の漢水のほとりにあった牽牛・織女の物語といわれます。
この七夕(しちせき)の行事が日本に奈良時代に中国から伝わった際、日本にそれ以前からあった、乙女が棚で機を織って神を待つ行事である”棚機(たなばた)”と合流し、七夕(たなばた)と呼ばれるようになったようです。

七夕にまつわる話を今後もここで展開していければと思っています。
本日もご高覧いただきありがとうございました。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?