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📕とことんユーミン📕すべてのことはメッセージ



マガジンハウス 


1970年代、シンガーソングライターとして十代でデビューを飾った荒井由実。
のちに日本最大の女性ポップスター、松任谷由実=ユーミンとなる煌めく才能は
いかにして世に出たか――。
八王子の裕福な呉服店に生まれ、ピアノに触れ、清元を学び、ミッション系の私立女子校に入学。
グループ・サウンズが一世を風靡するなか、由実は高度経済成長期の東京を、好奇心いっぱいに回遊しはじめる。
米軍基地、ジャズ喫茶、ミュージカル『ヘアー』、伝説のレストラン キャンティetc.……
次々に新しい扉を開けて、才能を開花させていく。
少女・荒井由実のデビューまでの軌跡をノンフィクション・ノベルとして描き出す。   
名曲「ひこうき雲」が生まれるまでーー
マガジンハウスHPより


◆松任谷由実さんから寄せられたコメント
これはノンフィクションというより、ルポルタージュに近いかもしれない。
山内マリコさんの獰猛な取材力とインタビューに、記憶のボタンが次々とクリックされ、
私は幼少期を、青春を、サーフィンしまくった。目眩く楽しかった。
これは多くの人たちが好きなサクセスストーリーの真逆だから、全くシンパシーが得られなかったとしても仕方ない。
正に、”事実は小説よりも奇なり”。
ひとりの特異な少女が、50s、60s、そして70sの、
東京カルチャーとカウンターカルチャーに彩られ、特異なまま大人になってゆくお話。
山内さんの大いなる好奇心が、私自身もすっかり忘れていた愛を、思い出させてくれた。
こんな機会を与えていただけて、本当に良かったと思う。
つくづく私は、”ユーミン”以外のものにはなれなかったのだなあと、
覚悟とも諦めともつかない幸せな気持ちで、この小説を読み終えた。 
マガジンハウスHPより


第一章   八王子の由実ちゃん



由実ちゃんのお気に入りの曲は中村メイコさんの
「田舎のバスは オンボロ車」でした。

そう、この曲私の記憶も蘇ってきます。
1954年(昭和29年)1月19日生まれの由実ちゃん、
1956年(昭和31年)8月10日生まれの寿実ちゃん、

八王子と東神奈川は横浜線1本で繋がっていたのです。



八王子カトリック教会の幼稚園のクリスマス。
由実ちゃんは恍惚として聞いたクリスマスキャロル

私は日本で最初に日本人女性のよって作られた幼稚園で
「あらののはてに ゆうひはおちて」と歌っていました。

津村謙の歌う『上海帰りのリル』
映画では香川京子さんがリルを演じました。
由実ちゃんは子守の秀ちゃんが歌う『上海帰りのリル』の異国情緒やノスタルジーを感じていて、すぐに歌詞も覚えて一緒に歌いました。






朝鮮戦争が休戦して4年経った昭和32年師走、
ラジオから流れるベレス・ブラードの
『マンボNO.5』のリズムに合わせて裁断台のおどる由実ちゃんに
常連のスミス夫人は
“That’s  a nice dance!”と言って、チップをくれた!
この年で人を喜ばせるサービス精神旺盛の由実ちゃん


「やさしさに包まれたなら」


第二章   ピアノ、清元、サウダージ


1963年市川雷蔵主演「第三の影武者」
私の亡き母も映画大好きで市川雷蔵の大、大ファンでした。
市川雷蔵さんのお顔を覚えています。

wikiより



次女の由実ちゃんはいつもお姉ちゃまのゆうこちゃんのお下がり。
中古品は英語でセカンドハンド そこでセコハン。
いつも私はセコハンと呼ばれていて、世古って名前が大嫌いになったっけ。


耳で覚えた外国の映画音楽、とりわけ好きなのが
アルフレッド・ハウゼ楽団のコンチネンタル・タンゴでした。
由実ちゃん 胸キュンタンゴ。



ピアノと同じく習い始めた清元

幻視するように隅田川の川辺に佇む女をイメージして、
由実ちゃんは川に降る雨音や、湿った匂いも感じる感性を身につけていきました。

第三章   立教女学院とパイプオルガン


聖公会のミッションスクール立教女学院に入学した由実ちゃん。
聖マーガレット礼拝堂の礼拝で
バッハ作曲『トッカータとフーガニ短調』を聴きました。
これまで聞いた時とは全く違うパイプオルガンの調に圧倒され、
すっかり世界観が変わってしまいました。

そして、自分の声がパイプオルガンになっちゃった・・・


1964年サンレモ音楽祭で優勝した16歳のカンツオーネ歌手、
ジリオラ・チンクエッティ。
彼女の歌う「Non ho l'età、」邦題は
『夢見る想い』で伊東ゆかりさんが歌いましたが、
由実ちゃんのお気に入りはオリジナルでした。

東京放送『ヤング720』毎朝7時20分から8時まで放送していた番組。



ファッション、音楽、映画情報、マリー・オリギンの星占い、
もちろん私も毎日見てたけど、
最後まで見ると遅刻なので、どうしてたのか記憶なしです。
小学校は冬時間だと8時25分予鈴だったので
終わってからダッシュしたのかも。

タイガースの「僕のマリー」

タイガースは「君だけに愛を」でブレイクしますが、
私も「僕のマリー」でファンになりました。
私はドラムのピー(瞳みのる)の「奥様」になりました。

当時、一枚50円の板チョコの包み紙を150円分送ると
メンバーの声の入ったソノシートが届きました。
どれだけ明治チョコレートを買ったことでしょうか。


由実ちゃん中学生の13歳。
寿実ちゃん小学生の11歳。

この時期の2歳の違いはかなり大きい・・・です

第四章   マギーと立川基地



1966年からTBSで放映された「奥様は魔女」
豊かなアメリカの家庭が垣間見られる内容通りの
世界がアメリカの基地にはありました。
ユーミンは立川基地の周りで、私は本牧や横須賀にアメリカを見ました。


由実ちゃんの人生を変えた運命の一曲
プロコル ハルム 「青い影」


第五章   らせん階段の家


本棚に並んだ薄い背表紙をつーっとさわっていた指が、ぴたりと止まる。
バッハの作曲した『管弦楽組曲第三番 ニ長調』第二曲、通称『G線上のアリア』の楽譜を、書棚から取り出し机の上に広げる。五線譜を指でなぞり、音符を確認しながら、由実はひとり、世界の秘密を解いた気がしてきた。

ーーーああ、やっぱりそうだ。プロコル・ハルムの『青い影』は、『G線上のアリア』を下敷きにしているんだ。(略) そっか。コードなんだ。コード進行でできているんだ。、ポップ・ミュージックは。
発見した瞬間、由実のなかでカチッとなにかがハマり、回路が拓かれる感触がした。
由実は本を閉じて、こう思った。
ーーーだったら、わたしにも作れるんじゃない?
小説ユーミン 167ページ14行目〜168ページ 13行目)



『マホガニーの部屋』の誕生です。


横浜本牧出身のゴールデンカップス


一躍GSの風雲児として躍り出たカーナビーツ


この頃、本牧に来ていた由実ちゃん
横浜育ちの女子高生は本牧はディープすぎて、
とても近寄れる場所ではありませんでした。
すれ違っていたとしたら山手地区だったかな。
横浜に生息していた女子校の生徒たちは、
横浜駅相鉄ジョイナス、伊勢佐木町森永ラブ、
元町界隈に繰り出していました。

第六章   フィンガーズ・デイズ

ユーミンが追っかけしていたバンドがフィンガーズでした。

慶応義塾大学の名門一族がメンバー





メンバーのシー・ユー・チェンがユーミンの名付け親でした。
そして中学生のユーミンは将来の道を見つけ始めました。




ベルベット・イースターのサイン Yuming ユーミン

現在進行形のing で終わる名前は、自分をどこまでも遠くまで、前へ前へと進めてくれる気がする。名前がつくと、別に自分が誕生したみたいだった。
P223 16行目〜18行目



第七章   一九六九年



小学校の同級生の死の知らせを聞いて出かけたお通夜。
遺影の彼の姿を見て、ユーミンの心に去来したもの。
それが名曲「ひこうき雲」へ昇華していきました。

ロック・ミュージカルの「ヘアー」


アクエリアス(輝く星座)流行りました。
高まるベトナム反戦運動、安保闘争、
東京大学本郷キャンパスにある安田講堂がバリケードでされ、
学生に占拠された映像がテレビに映し出されていました。
火炎瓶や石を投げるヘルメット姿の学生。
機動隊は催涙ガス入りの弾丸を装填したガス銃、放水攻撃。

さて、その頃うちのアパートは横浜市大医学部の学生の下宿みたいでした。
彼らを頼って関西から逃げてきた不思議なお兄さんたち。
ジョーン・バエズ、加藤登紀子さん、彼らが好む曲はどこか悲しげでした。

キャンティ


第八章   カルチエ・ラタン的御茶ノ水


「ヘアー」の東京公演が千秋楽を迎えた翌朝、
打ち上げパーティーから帰宅したプロデューサーの川添象郎は任意同行を求められます。
「ヘアー」関係者が大麻取締法違反で一斉検挙。
台湾国籍を持つシー・ユー・チェンは外国人として
横浜入国収容所に勾留されていました。

ユーミンは彼のGFのプーちゃんの運転するフェアレディZで本牧に通います。
そう、第三京浜を通って。
そして本牧の帰りにお茶したのが、坂道の上にある「ドルフィン」でした。




「マホガニーの部屋」で「ヤング720」に出演したユーミン。
私はもしかして見ていたかもしれない。

その後、ユーミンは美大受験を目指して、本格的に絵の勉強を始めました。

この章で刺激的だったのは、クリスマスページェントを高校2年のユーミンがプロデュースしたということ。受胎告知の場面は想像するだけで、面白い。
見たかったなと思います。
そのページェントを観た方がいらしたら、ぜひお話聞きたいです。

ちなみに私の母校のクリスマスページェントは世界の舞踏家大野一雄先生の振り付けで行っていました。その時は「ボイラーマンのおじさん」だと思っていましたが。
70歳を超えて、世界に羽ばたいた稀有な舞踏家大野先生。

クリスマスは特別な時でした。

大野先生の受胎告知 捜真学院同窓会HPより


第九章   セブンティーン!


1971年1月19日、誕生日を迎えてユーミンは17歳になりました。
その誕生日記念に真夜中にタクシーで出かけた先は山手にある外人墓地だということを始めて知りました。

「マホガニーの部屋」はタイトルを「愛は突然に・・」に改め、トッポこと加橋かつみの歌となり、二人は雑誌セブンティーンに登場したのです。
この時のセブンティーンは私も読んでいました。
学校に知れることになりますが、成績優秀のユーミンお咎めなし・・・さすが。
立教女学院でよかった。四谷●葉だったらアウトだったかもと思います。

トッポの声にユーミンのピアノ、素敵です。



そして、アルファレコードを創立する村井邦彦氏と出会っていくのです。
運命の歯車はどんどん回ります。

第十章   ハロー、キャラメル・ママ


由実にとって、“ひこうき雲“は、春の季語だ。
1969年4月の早朝、原宿コープオリンピアからさんざん遊び疲れて外へ出て、歩道橋から見上げた空にすーっと一筋、白い尾を引いていた、あのひこうき雲を見たせいだろうか。空も街もまだ眠たげな銀色の世界、うす寝ぼけているような空気に包まれ、時間が止まったようだった。ーーー永遠みたい。そう思った瞬間のことを、由実はいつまでも覚えている。 
334ページ 1行目〜5行目


由実は本命の東京藝術大学の二次試験に落ちて、
多摩美術大学の進学を決めます。
ここは大きな岐路だったと思えます。
もし東京藝大に進んでいたら、もしかしてユーミンは音楽の世界ではなく、
日本画の巨匠になっていたかもしれません。
本人の希望通りにならないことでも、
良い結果になることもあるのですね。

17歳で人生を閉じた小学校の同級生を思い、
死について考えている時
ひこうき雲の歌詞が浮かんできました。

大歌手雪村いずみさんに提供するはずの曲をユーミン自ら歌うことになり
シンガーソングライターが誕生するのです。

ひこうき雲


デビュー第一弾のシングルは

「返事はいらない」


のちに人生の伴侶となる彼との運命の出会いをしてレコーディングに臨むのでした。

雨の街を


なかなかうまくいかず苦戦していた由実へ、贈られた彼からのダリア一輪。
牛乳瓶に差して、ピアノの上の飾られた一輪のダリアに愛の告白以上の思いを受け、
ファーストアルバムのレコーディングを終えました。

私はこの曲を何度も何度も聞いて、耳コピしてピアノを弾きました。
ほんとに大好きだった曲です。

すべてのことはメッセージの表紙を飾る写真は
シングル「きっと言える」のときの写真です。

この写真が表紙だっだ楽譜がありました。「ひこうき雲」の楽譜でした。
この写真は人気女優田中真理さんに似ていました。
ご本人もそうおっしゃっていたので、かなり気に入っている写真です。



「由実はまだ 何者でもない」

50年前、有名になりたいと野心を抱いていた一人の少女。
50年後、彼女は文化功労賞を受賞して、天皇陛下に謁見します。

これはユーミンの物語です。

でも皆、それぞれ自分の物語があります。
その人生の物語のページ、
明日もユーミンに元気をもらっていきたいですね。

グリンタイム

今夜のメインモデレーターを務めて下さった長嶋緑さんの曲を
お送りします。


「旅立つ秋」

ピアノでしっとり歌ってくれました。






今夜もありがとうございました。

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