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恋と学問 第4夜、恋の学問の誕生。

本居宣長の個人的な恋の経験が、どうやって物の哀れの学問へと深められていったのか?今夜は、宣長の思想の「成長過程」について考えます。

そのために、紫文要領の完成(1763年)から時を戻して、宣長が京都に留学していた頃(1752-1757年)に書かれた作品・あしわけをぶねを取り上げます。宣長の処女作にして歌論書、和歌のあるべき姿を論じた本です。全編を通じて対話(自問自答)の形式で書かれています。

あしわけをぶねは京都留学最後の年、27才の時の作品と推定されています。33才で書かれた紫文要領とは6年の開きがあるわけです。そして、この6年のあいだに、さまざまな恋愛悲劇があったことは第2夜で見た通りです。

両者は和歌と源氏物語、対象こそ別々とはいえ、「文学の本質とは何か」を考え抜いた作品という点では共通しており、しかも恋に関する考察が大きなウェイトを占めている点でも似かよっています。しかし、紫文要領と比べた時、あしわけをぶねの恋愛論は思考がまだ熟し切っていない印象を受けます。

紫文要領がそこに「もののあはれ」という言葉を与えた時、宣長の思考は恋愛論の枠を飛び越えて人生論に到達するのですが、その飛躍を可能にしたものは宣長の個人的な恋の経験ではないか?別の言い方をすれば、物の哀れとは「恋の深まりとともに深められた思考」の産物ではないか?そのように考えてみたいのです。

いや、議論を先回りしすぎたかもしれません。あしわけをぶねという作品には何が書かれているのか。まずはそこから見てゆきましょう。原文のあとに翻訳を載せますから、翻訳だけ見てもらっても構いません。

いましめの心あるはすくなく、恋の歌の多きはいかにといへば、これが歌の本然のをのづからあらはるる所なり。すべて好色のことほど人情のふかきものはなきなり。千人万人みな欲するところなるゆへにこひの歌は多き也(本居宣長『排蘆小船・石上私淑言』岩波文庫、2003年、12頁)

和歌ってものは、どうしてあんなに恋の話題ばかりが多いのかって君は聞くけどな、それは和歌の本質が自然に現れているのだ。恋ほど情の深いものは他にない。みんな恋には夢中になる。だから恋の歌は多いのだ。人の道を説く歌が少ないと君は嘆くが、

すべて歌をむかしより、国家を治め身をおさむるの助也と云ふより、かかる説も出で来たるなり。政道のたすけとし、修身のためにせば、詠歌より近きこと、はなはだ多し。何ぞ迂遠の倭歌を待たむや。和歌はさやうの道にあらず。只思ふことを程よく云ひつづくるまでのこと也。然して人間の思情のうち、色欲より切なるはなし。故に古来恋の歌尤も多し。そのうち非道淫乱の歌もあるべし。これ歌の罪にあらず。作者の罪也(同47-48頁)

昔から「歌は修身と治国に役立つ」なんて言われているのを真に受けて、そんな風に思うのだろう。政治や修身のために何か始めたいのなら、儒学を勉強するとか、手っ取り早い方法はいくらでもある。歌を詠むなんて遠回りをせんでも良いではないか。和歌の道は元来そういうものではない。ただ心に思うことを調えて言い続ける道だ。そして人間の感情のうち、色欲より切実なものはない。だから昔から恋の歌が最も多いのだ。恋の歌の中には不道徳な恋を扱った淫乱な歌もあるだろうが、それは歌という表現形式の罪ではない。作者の罪である。

欲と情のわかちは、欲はただねがひもとむる心のみにて、感慨なし。情はものに感じて慨嘆するもの也。恋と云ふものも、もとは欲よりいづれども、ふかく情にわたるもの也(同49頁)

また罪深い恋であっても、それを上手に詠めば良い歌と呼ばれ、人々は作者を称賛する。なぜかと言えば、恋は単なる欲ではなく、情でもあるからだ。欲と情の違いは、欲が願い求める心ばかりで感慨を伴わないのに対して、情はモノ(運命のこと。第3夜参照)に感じて慨嘆するものだという点にある。恋という経験は、もちろんその始まりは欲なのだが、しだいに情に深く関わるものだ。

人の情のありていは、すべてはかなくしどけなくをろかなるもの也としるべし。歌は情をのぶるものなれば、又情にしたがふて、しどけなくつたなくはかなかるべきことはり也。これ人情は古今和漢かはることなき也。しかるにその情を吐き出す詠吟の、男らしくきっとして正しきは、本情にあらずとしるべし(同65-66頁)

だいたい人の情なんてものは、はかなく、だらしなく、愚かなのが本来の姿だと知るべきだ。歌は情を述べたものだから、情のありさまに従って、だらしなく、幼く、はかないことを専ら内容にするのは当然である。古今東西このことは変わらない。男らしくキリッとした歌は本当の情を述べていないのだ。

もと和歌の本体は、政道のたすけとするものにあらず。只思ふことを、ほどよくいひのぶるまでのこと也。政道のたすけとするは、其よみたる歌を取り用ゆるときのこと也。さてそのまた政道のたすけとするものにもあらぬ歌を、何とて取り用ひて、天下政道のたすけとはするぞと云ふに、もと歌は、上下君臣万民まで、をのをのみなその思ふことをよみ出でたるものなれば、これを取り上げて見て、上たる人の、下民の情をよくよくあきらめ知らんため也〈中略〉下の情態をしること、歌詠よりよきはなし(同85頁)

和歌は世の中を治めるためにあるのではない。ただ心に思うことを程よく詠むことが歌の本質である。治世のために歌が役立つのは、そのように歌を用いる時のことである。本質と効用を混同してはならない。なぜ歌をそのような用途に用いるかと言うと、歌を詠む行為は身分の高い低いに関わらず万民に開かれており、おのおのが心に思うことを表現したものであるため、為政者がこれを見れば下々の民衆の情がよく知られるからである。人々の情のありさまを知るのに、歌より確かなものは他にない。


さて、あしわけをぶねは文庫本で120ページほどの分量ですが、以上の引用で大体のエッセンスは取り出せたと思います。これをさらにまとめれば次の通りです。

歌は心に思うことを述べたもの
↓(そして)
人が最も深く思うのは恋のこと
↓(なぜなら)
恋は情に関わり情は感慨を伴う
↓(こうした)
はかない人の情を歌は表現する
↓(それによって)
人々の情のありさまが知られる

味もそっ気もない感じですが、あしわけをぶねの論理構成だけを抜き出せばこうなります。なるほど、「物の哀れ論」の原形を見る心地がします。しかし、どことなく別物という感じも受けます。この違和感の正体をつかむためには、原形と完成形の違いを見なければなりません。

両者は見かけこそよく似ていますが、最大の違いは情(物の哀れ)を知る目的です。あしわけおぶねは情を知ることに、為政者の治世術という、大変ちいさな役割しか負わせていません。第3夜で見たように、紫文要領において物の哀れを知ることは、人がより良く生きるための条件でした。えらい違いです。

この違いは何に由来するのか考えますと、恋というものの捉え方の違いだと気づきます。

あしわけをぶねは恋を「個人的な体験」としか捉えていません。むしろ、ことさらに個人的な体験であることを強調しています。「国家を治め身を修めるためだなんてトンデモない。歌は心に思うことを述べるまでのことだ」というように。

これには理由があります。当時の名だたる歌人たちは、世間が歌の存在価値を認めず、ただの趣味事とみなすのに反発して、歌は世の中のためになっていると反論しようと、歌の「公共性」を強引に主張していました。「この歌は表面上は恋の歌じゃが、本当は有りがたい仏の教えを説いているのじゃ」などと、今から見ればタチの悪い冗談としか思えない和歌の解釈が、大真面目に通用していました。

若き宣長はこうした現状に異議を唱えたかったのです。歌人たちがみずから歌の本質を歪め、歌を「政治利用」している現状から、歌の独立を守るために、恋を始めとする歌の主題が「私的領域」に属することをはっきりさせておく必要があったのです。

言いたいことは分かります。歌は歌うためにある。政治や道徳や儒学仏教の教えなどのためにあるのではない。これは若き日の宣長がたどり着いた、文学の独立性の主張であり、歌人たちへの正当な反論だったと思います。

ただ、文学の本質と効用を厳格に分けすぎた結果、効用のほうを軽視してしまったきらいがあります。「なぜ己は歌をよむのか」そして「なぜ人の歌を愛好するのか」という問いに、あしわけをぶねは(為政者を除いて)「それが好きだから」、つまり「単なる趣味事」という以上の積極的な答えを与えられません。

紫文要領へと至り宣長の思考は、道徳とも政治とも異なる「文学独自の効用」を発見する所まで深まりました。それが「物の哀れを知ること」(運命愛のこと。第3夜参照)です。では、その「物の哀れを知ること」は、どのように発見されたのでしょうか?第2夜で明らかになった宣長個人の恋が、全部ではないにせよ、深く関わっていると考えられます。

本居宣長年表01

あしわけをぶねの頃、27才の宣長は、のちに妻となる草深タミを見初めたばかりでした。心は躍り、憂いなど少しもなかった段階です。だから、恋の歌はなぜこんなに多いのかと問われて「みんな恋に夢中になるからだ」と朗らかに叫ぶことができました。

紫文要領の頃、33才の宣長は、恋の闇をさまよって、ようやくその味を知った段階です。恋しい人が他家に嫁いだこと、自身の結納が済んだのと同時に恋人の旦那が死んだこと。結納した以上は結婚しないでは済まされない世間の制約。新妻と恋人の間で葛藤する心。誰のためにもならないと分かっていても抑えがたい恋の力。・・・・宣長は苦しみの中で考えを巡らします。


合理的に理解しがたく

道徳的に正当化しがたい恋によって

人ははじめて生きることの不条理を知る

恋は人の世の運命の縮図だ

恋を知ることは一人一人の人生にとって

人生の味わいを知る最初の出来事なのだ


こんな考えが、ポツ、ポツ、と宣長の頭の中に浮かんでは沈み、また浮かんでは沈み、堆積してゆきました。恋の経験は思想の形に変貌し、生まれたての思想は再び、歌と物語に目を向けます。そうしてまた、6年前と同じ対話(自問自答)が始まるのでした。


「どうしてこんなに恋の歌が多いのか?」

「前も言ったぞ。恋は夢中になるからさ」

「そうだったな。ならば今度はこう聞こう。なぜ人は恋に夢中になるのだろうか?」

「恋は運命を知る最初の経験だからだよ」

「運命?それを知って何になるのだ」

「人生には運命がある。運命とは簡単に言えば、動かしがたく避けがたく、損得でもなく道徳でもなく、それでいて、私たちが生きてゆく上での本当の充実感はそこからしか得られない≪何か≫だ。運命を知らないで過ごす人生はむなしい。運命を知るとは、人生の意味を知ることと同じで、人生の味わいを知ることと同じだ。生きる味わいを充分に経験し尽くした人生こそ、本当に生きる甲斐があった人生ではないか」


ここまで来ると、もはや恋することは個人的な体験ではありません。また、恋を歌うことは単なる趣味事ではありません。恋は人が最初に知る人生の味わいであり、歌によって人に知らせずにはいられない決定的な出来事です。恋の歌や物語を読む行為は、その味わいを自己の外部から知らされる特別な経験として捉え直されています。こうして、文学の本質と効用は「物の哀れを知らすこと=本質、知ること=効用」という名のもとに統合されるのです。

あしわけをぶねを書いたのは一人の早熟な趣味人ですが、紫文要領の作者は大きな確信を抱いた学者です。恋は個人の経験ではありますが、同時に人生の普遍に開かれた経験であり、運命愛の入り口に待ち受けている経験です。私たちに生きる味わいを最初に知らせてくれる経験です。だから、深く味わいのある人生を送りたければ、恋をせずには済まされないのです。

そのことを宣長が悟るには、己自身で恋の闇の中を手探りで歩まなければなりませんでした。逆に言えば、この闇をくぐりぬけたからこそ、恋の学問は誕生したのです。

キリが良いので今日はここまでにします。それではまた。おやすみなさい。




【以下、蛇足】




今回は紫文要領と、その原形のあしわけをぶねを見比べながら、恋の学問が誕生する瞬間に立ち会いました。

準備万端とはいきませんが、ある程度の準備は果たされたと思うので、いよいよ次回から紫文要領の本文に入ります。脱線も多々するでしょうが、それも含めてお楽しみください。

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