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イエスタディ・ワンス・モア〜日本映画沈没

浦山珠夫

 2004年4月のこと、築地を歩いていたら、本願寺で竹内均先生の葬儀が営まれていた。先生とは一面識もないのだが、心の中でご冥福をお祈りした。僕らの世代にとって竹内均先生とは、「ニュートン」の編集長でもなく、教育テレビで奇矯な声(失礼!)を出す茶色い鼈甲の眼鏡の先生でもない。東京・日比谷の千代田劇場で見た『日本沈没』(1973年)で、「プレートテクトニス理論」をわかりやすく「ズルッと」教えてくれた先生なのである。

 『日本沈没』は、1970年代の邦画界で大作パニック映画ブームの先鞭をつけた傑作である。監督は黒澤明門下の森谷司郎。60年代東宝青春映画でみずみずしい演出を見せた才人であるが、この『日本沈没』から大作専門監督となる。脚本は、日本映画が生んだ異才であり最高のシナリオ作家で、これまた『羅生門』や『七人の侍』など黒澤映画のシナリオを手がけてきたベテラン橋本忍先生。『日本沈没』の直前、お二人は青春映画の佳作『「されどわれらが日々」より 別れの詩』(1973年)を手がけていた。

 青春映画というのは意外だが、日本映画=プログラムピクチャーという観点からはごく自然なこと。巨額の制作費を投じた空前の特撮スペクタクルとなった『日本沈没』は、当時の終末ブームを背景に空前のヒットを記録。低迷にあえぐ邦画のカンフル剤としてマスコミに大々的に取り上げられた。

 『日本沈没』が公開されたのは、1973年12月29日。邦画界は、斜陽に歯止めが利かなくなり、かつての2本立興行、いわゆるプログラムピクチャーでは、観客を劇場に引き止められなくなっていた。邦画各社はブロックブッキングシステムを維持していたものの、地方都市の直営劇場は、折からブームのボーリング場に鞍替えして糊口をしのいでいた。

 『日本沈没』と同時期、松竹系は『男はつらいよ 私の寅さん』(山田洋次)と『大事件だよ全員集合!!』(渡辺祐介)、東映系は高倉健の『ゴルゴ13』(佐藤純彌)と『女囚さそり701号 恨み節』(長谷部安春)。日活は大原みどりが主題歌を唄った『バンカク 関東SEX軍団』(高橋芳郎)と山科ゆり主演の『狂棲時代』(白鳥信一)という、豪華だかどうだか分からないプログラムで編成されていた。お世辞にも正月映画としての好編成というには、企画が払底しているとしか思えない。

 日本万国博に湧いた1970年を境に日本映画は大きくかわってきた。大映倒産、日活のロマンポルノ路線変更にともなう一般映画からの離脱。それまで、人気シリーズとスターによって支えられていた日本映画の観客動員数は確実に減少の一途をたどっていた。

 具体的にいうと、1960年代を代表する人気シリーズ、加山雄三の「若大将」は、1971年の正月映画『若大将対青大将』(岩内克巳)で打ち切られ、植木等の「クレージー映画」は、やはり1972年の『喜劇・泥棒大家族 天下を盗る』(坪島孝)で30本に及ぶパワフル喜劇のジャンルに終止符を打ってしまった。

 かつて、家族全員で楽しむ娯楽だった映画は、テレビの波に飲み込まれ、深夜興行の東映やくざ映画と、渥美清の任侠パロディ『男はつらいよ』、そして日活ロマンポルノが中心になっていた。東宝の看板である「明るく楽しい東宝映画」というフレーズは、エロとヴァイオレンスの波に飲み込まれ、健全なプログラムピクチャーはその役割を終えていた。この時期の邦画は、一部男性ファンのための<欲望のメディア>へと変節していた。

 では、洋画はどうだったのか? 『ゴッドファーザー』(1972年)、『ポセイドンアドベンチャー』(1972年)といった大作映画のロングランで、活況をとりもどしつつあった。特に『ゴッドファーザー』は、任侠映画や「寅さん」を支持していた男性客を中心に、行列ができるほどの人気興行となった。

 こんな話がある。山田洋次監督がテレビの映画化としてスタートさせた『男はつらいよ』だが、回を重ねるごとに観客が殺到。単なるプログラムピクチャーとして企画されていたため、松竹は三ヶ月に一本「寅さん」を連作。もうネタは尽きたと山田監督が嘆いても、識者は褒めるわ、新作映画が不入りとなるや急遽三本立の「寅さん祭り」をすれば映画館は満員。松竹首脳部は考えた。そして達した結論! 

 『男はつらいよ』を洋画系でロードショーすることである。そして第7作『奮闘篇』(1971年)で、「逆さにしても鼻血も出ない」と苦しんでいた山田監督に「丸の内ピカデリーで寅さんの一本立てロードショー」を提案。具体的には90分程度だった寅さんを二時間の大作に仕切り直すということだった。もちろん予算も増額。監督の作家性を尊重する。それが第8作『寅次郎恋歌』(1972年)なのである。

 寅さんなんて同じ! と思われるかも知れないが、この作品を機に単なるプログラムピクチャーだった「寅さん」が、山田洋次の作家性を全面に打ち出した「大作映画」へと変貌している。具体的には、博(前田吟)の母の死をめぐる、陰々滅々とした親族内の闘争が、マドンナが登場しないまま前半1時間にわたって描かれているのだ。滑稽だった<寅さん映画>が、ヒューマンな<人間喜劇>になったのである。全国公開よりも一ヶ月早い11月29日に公開され、1972年の配収第1位を堂々記録。以来「男はつらいよ」は丸の内ピカデリーでロードショーすることとなる。

 これが1972年前後の日本映画界をめぐる状況である。プログラムピクチャーに客が入らなくなり、映画館では閑古鳥が啼いていた。そこへ、天才プロデューサー、田中友幸が一気に勝負に出た『日本沈没』の登場である。

 田中といえば、『ゴジラ』に始まる特撮路線、男性活劇、戦記映画など、通常のプログラムピクチャーの枠を越えた、ケレン味たっぷりの<見せ物>を一貫して作り続けていた。『日本沈没』は、子供向け低予算映画に堕してしまった「ゴジラ映画」とは違う、本格的なハリウッドタイプのスペクタクルを目指して作られた。

 原作は小松左京。カッパノベルズの広告が出た時点で映画化権を押さえたという逸話があるが、「日本沈没」というタイトルに「これはいける!」と判断したのだろう。まさしくプロデューサーの「直感とインスピレーション」である。地殻変動で日本列島が沈没するという壮大なホラ話に、リアリズムを与えるために<特別スタッフ>を招聘。地球物理学・竹内均(東大教授)、耐震工学・大崎順彦(東大教授)、海洋学・奈須紀幸(東大教授)、火山学・諏訪彰(気象研究所地震研究部長)、そして小松左京先生。

 もう、誰が誰だかわからないが、この肩書きが重要なのである。東宝特撮全盛時代に『モスラ』(1961年・本多猪四郎)の原作者に純文学の中村真一郎、福永武彦、掘田善衛を迎え、ブレーンに「SFマガジン」編集長・福島正実を迎えてきた田中ならではの戦略である。

 竹内均先生が「ズルっと」地殻変動を解説する場面は、第一作の『ゴジラ』(1954年)で志村喬の山根博士がゴジラの脅威を説明するシーンをさらにリアルにしたもの。東宝特撮が描き続けてきた「疑似科学」が「リアルな科学」に変貌した瞬間でもある。

 『日本沈没』が素晴らしいのは、日本列島に未曾有の大災厄が襲い、ほとんどマイノリティーを失いつつあった日本人から、唯一のよりどころである日本列島そのものを喪失させ、世界難民にしてしまうためのスペクタクルという発想だろう。

 一貫して人間そのものをみつめてきた橋本忍脚本は、恋人を、家族を、そして国家を分断する災厄を、実にクールに、実に容赦なく描いている。例えば、関東大震災のシーン。江東ゼロメートル地帯のある一家。おじいさんは大正の震災の体験者がゆえに「火を出すな!」と家族に言い、娘が「大丈夫よ!ガスも消したから」と答えた矢先、防波堤が決壊して一家は水に呑まれてしまう。この救いのない展開。かつて『太平洋の嵐』(1959年・松林宗恵)で「これが戦争だ!」と主人公に絶叫させるシーンの戦死者の残酷な描写をめぐり、監督と論争になたという橋本ならではの視点である。

 災害時に永田町の安全を守るか、人口密集地帯の庶民を守るかの首脳の議論も生々しい。庶民を切り捨てる「お上の論理」を見せつつ、丹波哲郎の山本首相は苦悩する。「国を守り、国民の生命財産を守るとはいったいどういうことなのか?」

 大震災で数万もの避難民が皇居に押し寄せ収集がつかなくなり、武器で制圧していいのかと、自衛隊から指示を仰いでくる。ヘリからは熱風による死者の報告がなされ、避難民が皇居の門に押し寄せる描写が続く。「子供だけでもお願いします」との母親の声。

 首相は宮内省に電話をし、皇居の門を開くように強行に指示する。しかし、その時点で消化弾による消火活動は意味をなさなくなり、消火活動は中止。その後逃げ惑う被災者の悲惨な描写が延々続いていく。黒こげになった遺体の山。かつての「関東大震災」や「東京大空襲」の記憶がよみがえる悪夢のような描写。この大震災のシークエンスは、緻密なデータに基づいた災害シミュレーションだけでなく、橋本忍ならではの「天皇制」に対する痛烈な批判と「国家論」が象徴された名シーンである。

 極限状況のなかの為政者はどうするか? 日本の政治を裏から支配してきた黒幕・渡老人(島田正吾)と首相との「日本沈没」についての対話。海外への移民案などさまざまな方向性を示唆した上に「このまま何もせんほうがいい」という達観論すらも出てくる。うーん奥深い。

 単なる国家批判ではなく、理想的なリーダーの的確な決断と、マイノリティを超えたところで、最終的に人間の善意を信じるという考え方は、丹波哲郎の総理大臣の苦渋の決断と、日本人そのものを信じようとする小林桂樹の田所博士に集約されている。

 上空から描かれる日本沈没のビジュアルは、橋本忍監督の『幻の湖』(82年)のラストと同様、衛星映像なのだが神の視線を感じる。

 特撮でいえば緻密な円谷特撮のエッセンスを継承しつつ、豪快な破壊指向の中野特撮も、ある意味1970年代的エネルギーを象徴している。高速道路で自動車が連鎖爆発シーンのインパクトは中野特撮の醍醐味。田中角栄の「日本列島改造論」くそくらえ! といわんばかりのエネルギーにあふれる森谷司郎の演出は、もっと評価されてもいい。ただのパニック映画じゃないのである。

 余談だが『日本沈没』は、ロジャー・コーマンに買い取られ、ローン・グリーンらの出演場面を足して90分に短縮再編集された『TIDAL WAVE』(1975年)がアメリカで公開されている。『日本沈没』が「大津波」とは!

 しかし、企画がいかに素晴らしくてもプロデューサーにとって一番心配なのが観客の動員である。洋画の世界では前売り券=特別鑑賞券というシステムが定着していたが、日本映画は、どうしても「ちょっと映画でも見ていこうか?」時代の名残で当日券入場が大多数を占めていた。

 さて浦山珠夫の少年時代。映画館より安いのがプレイガイドの特別鑑賞券、もっと安いのが民音または労音だったのである。日比谷国際ビルの一階に民音のプレイガイドがあり、中学時代、安い映画券を手に入れるべく足しげく通ったもの。この民音、民主音楽協会という組織というのは知っていたが、どういう組織だか、ノンケの浦山少年にはまったく分からなかった。映画ファンでも民音プレイガイドのお世話になった人は多いのではないだろうか。まさか創価学会の文化振興団体とは知らずに・・・

 というわけで『日本沈没』の観客動員戦略である。田中友幸は、『日本沈没』公開の三ヶ月前に、東宝映画としては異色ともいうべき超大作を製作している。脚本:橋本忍、監督:舛田利雄、特殊技術:中野昭慶、音楽:伊福部昭、主演:丹波哲郎。これぞ特撮ファンにとって夢のメンバーの超大作。いまだに正式ルートではビデオも見る事が出来ない上映時間159分の幻の大作『人間革命』である。原作は、創価学会名誉会長の池田大作。創価学会を創始した戸田城聖に丹波さんが扮し、ケレン味タップリ迫力満点の中野特撮で描いた宗教スペクタクルとくれば、これは見たい。でも、両親に反対されて断念。その後あらゆる手を尽くしたが、見る事は叶っていません。

追記:その後、DVD化され、信濃町の書店で購入。無事「正続篇」ともに観ることができた。(「映画監督舛田利雄・アクション映画の巨星 舛田利雄のすべて」2007年・ウルトラヴァイブで解説、分析)

 どうして東宝が創価学会の映画を作ったか? 当時「人間革命」は日本最大のベストセラー。田中友幸のプロデューサーとしての「直感とインスピレーション」は、ベストセラーを映画化すれば観客動員が確保できると判断。それを東宝伝統の特撮と、実力派の舛田監督の力技で描くのは、田中ならではの企画センス。というかMGMの『ベンハー』や、パラマウントの『十戒』、そして世界最大のベストセラー旧約聖書を映画化したFOXの『天地創造』しかり。派手な宗教スペクタクルは、信心とは別に大ヒット映画の要素でもあるからだ。

 ともあれ東宝は『人間革命』の映画化に着手。日本映画史はここから大きく転換することとなる。『人間革命』は1973年の配収第1位を記録。共同製作のシナノ企画はここから映画史に登場。シナノ企画は、68年に設立された映像プロで本社は新宿区信濃町といえば創価学会のホームグラウンド。学会系の製作会社である。

 日本映画の組織的観客動員の歴史は古い。東映は国鉄労組との関係もあって、関川秀雄監督の国鉄マン映画『大いなる驀進』(60年)を作り、労組の家族を中心に動員を確保。それが昭和40年代の渥美清主演、瀬川昌治監督『喜劇・列車シリーズ』となり、松竹に引っ越してフランキー堺の『喜劇・旅行シリーズ』へとシフトされるが国鉄関係者の動員もあってヒット。左翼系の映画も労組関係の動員で成立していた。

 東宝は『人間革命』に続く、ベストセラーの大作映画化として『日本沈没』を喧伝。民音系のプレイガイドや『人間革命』で作った動員ルートを通じて、チケットの拡販に成功。企画の良さも手伝って、配収19億5千万円の日本映画記録を更新する大ヒットを記録。『日本沈没』の成功は、東宝に大作路線という新しいラインを確立し、翌1974年2月まで一ヶ月のロングランを記録。その次に封切られたのが勝プロの『御用牙 鬼の半蔵やわ肌小判』(井上芳夫)と『鬼輪番』(坪島孝)の二本立だが、この年より外部プロダクションとの提携も含めて、プログラムピクチャーの数が激減していく。

 田中友幸は『日本沈没』に続いて、74年の夏休み大作として『ノストラダムスの大予言』を製作。監督・舛田利雄、特技監督・中野昭慶という『人間革命』コンビを起用して作ったのが『ノストラダムス〜』というのが、いかにも田中らしい。原作はセンセーショナルなベストセラーとなった五島勉のノンフィクション。今ではトンデモ本にカテゴライズされるが、当時は人類ヘの警鐘として、浦山少年は真に受けて戦慄した。

 脚本は『世界大戦争』(1961年・松林宗恵)の八住利雄ということで、山村総の総理大臣のキャラなどが『世界大戦争』から引き継がれつつ、丹波哲郎が扮した予言研究者・西山良玄、玄哲、玄学の父子三代のキャラには「霊界の宣伝マン」の片鱗が伺える。というより、役者・丹波哲郎のメディアでのカリスマ性は『人間革命』『ノストラダムスの大予言』そして『丹波哲郎の大霊界 死んだらどうなる』(1989年)へと続く道程で醸成されてきたような気がする。

 皆さんご存知の諸事情と作品の特殊性で『ノストラダムスの大予言』は成功とはいえず、急遽『ルパン三世念力珍作戦』(1974年・坪島孝)が併映作として用意されるも興行は苦戦。この『ルパン三世〜』こそプログラムピクチャーの典型であり”作っておいて良かった”の一本だったろう。

 その後、田中友幸は夢よもう一度と『東京湾炎上』(1975年・石田勝心)などのスペクタクルを用意するも、ぱっとしない。それで再びシナノ企画と手を結んだのが『続人間革命』(1976年・159分)。脚本:橋本忍、監督:舛田利雄、特撮監督:中野昭慶による超大作で、『続人間革命』は配給収入19億6千万円と日本記録を更新し、1976年の興収第一位を記録。

 さてシナノ企画だが、この三年の間に、松竹で橋本忍製作、山田洋次共同脚本、原作松本清張、監督野村芳太郎の名作『砂の器』(74年・143分)に大きく関与している。クレジットには製作協力とあるが、実質的には民音系の動員確保という、松竹にとっては大きなメリットをもたらしたのだ。

 そして1977年6月。製作:橋本プロ、東宝映像、シナノ企画 配給:東宝による空前の超大作『八甲田山』(169分)が作られた。監督は『日本沈没』以来三年半ぶりとなる森谷司郎。主演:高倉健、北大路欣也、加山雄三という、プログラムピクチャーではそれぞれが主役を張れる豪華なキャストで、日本軍史上最悪と呼ばれた「八甲田山死の彷徨」を完全に映画化するという空前絶後のプロジェクトだった。この映画のプロデューサーがすごい。橋本忍、野村芳太郎、田中友幸、間にシナノ企画が入らなければ成立しないメンバーである。

 『八甲田山』は邦画としては洋画的な宣伝戦略で、「天はわれわれを見放したのか!」のキャッチコピーの良さも手伝って、連日のテレビCM、洋画系ロードショー館での特報上映、文庫本の栞への割引券作戦など、邦画では考えられないような物量宣伝を投下。試写会でのプロの批評家や映画記者の評判はさほど高くはなかったにも関わらず大ヒットを記録。

 「週刊新潮」1977年7月17日号の「タウン」欄によると、映画館に二重、三重の行列が出来、予想に反し、若い女性ファンが詰めかけたこと。国鉄タイアップでロケ地の八甲田山や東北の観光要素を強く打ち出したポスターによる効果。そして<観客動員でもうひとつ見逃せないのは創価学会員を中心とした団体客。『人間革命』『続・人間革命』映画化の脚本を手がけた「橋本プロ」の製作とあって、創価学会が全面協力しているのだそうである>とある。

 また週刊明星1977年7月3日号には、『八甲田山』の前売り戦略についての記述がある。製作費7億円、宣伝予算3億円をかけ、劇映画の配給収入の最高を記録した『日本沈没』をはるかに越える30億円という夢の大台に乗りそうな気配だ、とある。『八甲田山』結局、配収25億2千万円を記録し、日本アカデミー賞及び文化庁優秀映画賞に輝く文字通りのエポック作品となった。

 シナノ企画は、その後東宝と『聖職の碑』(1979年・森谷司郎・153分)、東映と『動乱』(1981年・森谷司郎・150分)と大作映画を共同製作していくことになる。そして学会向けのビデオ制作やアニメ製作を経て、2001年には市川崑の『かあちゃん』を日活、イマジカと共同製作している。シナノ企画といえばもう一つ、同社のビデオには、新シナノ企画方式というコピーガード信号が採用されている。とにかく信号がきつくて、ちょっとしたバックアップなどという不埒な考えは、許されないのである。

 『日本沈没』から『八甲田山』までの間に、日本映画の構造そのものが大きく変化してしまった。「若大将」「座頭市」「クレージー映画」など、映画黄金時代を象徴したシリーズは姿を消し、巨額の製作費を投じ、観客動員が見込める大作ばかりになってしまったのだ。動員のためなら、労組だろうと宗教団体だろうと利用する。そのなりふり構わぬスタイルは、一応の成功をもたらした。余談であるが名著「日本の劇」によると脚本家・笠原和夫は『人間革命』に少しだけ関わっていたというが、深作欣二監督とのジョイントで未完に終わった『実録・共産党』が実現していたら、やはり共産党系の動員が見込めたのだろうか?

 プログラムピクチャー中心がゆえに沈没寸前だった日本映画界は大作路線を成功させたが、その大作主義がもたらしたものは「観客動員の日本記録更新」であり、その引き換えに昔ながらのプログラムピクチャーが完全に終焉してしまった。これぞ、究極のディザスターだったんじゃないか? などと書いているうちに、ちょっといい話を思いだした。『日本沈没』で小林桂樹が演じた田所博士だが、実はもう一回銀幕に登場している。第16作『男はつらいよ 葛飾立志編』(1975年)で、小林桂樹が演じたのが『日本沈没』と同じ出で立ちの役名も田所先生!『砂の器』で共同脚本を手がけた山田洋次の橋本忍先生へのリスペクト溢れるこころ暖まるエピソードではないか。さらに第46作『寅次郎の縁談』(1993年)では、渡老人そっくりのキャラで島田正吾が寅さんと絡む。『日本沈没』ファンには必見だろう。

資料協力:北大路キンコ 映画秘宝2004年7月号「イエスタディ・ワンスモア」より


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