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『風と共に去りぬ』(1939年・MGM・ビクター・フレミング) 〜大阪松竹座・フィナーレ上映〜

大阪モダン文化発祥の地

 「キネマ旬報」創刊75周年の1994年5月、71年の歳月を過ごした映画劇場・大阪松竹座が製作されて55年目の『風と共に去りぬ』の記念上映をもってその幕を閉じた。英語でForeverというと35年以上というから、二回の永遠を体験した勘定になる。
 
 大阪道頓堀に定員1050名のネオ・ルネッサンス様式のムービー・パレス、大阪松竹座が開場したのは大正12(1923)年。以来、京阪神のモダンボーイ&ガール御用達の社交場として親しまれ、エルンスト・ルビッチ監督『ファラオの恋』(1922年)で柿落とし、D・W・グリフィス監督『国民の創生』(1915年)、ルドルフ・バレンチノ主演『血と砂』(1922年)、フリッツ・ラング監督『メトロポリス』(1927年)など無声時代の傑作を上映。字幕スーパー第1号『モロッコ』(1930年)、日本映画トーキー第1作『マダムと女房』(1931年・松竹蒲田・五所平之助)、初のビスタビジョン作品『ホワイトクリスマス』(1954年)など、サイレント〜トーキー〜カラー〜ワイド時代と、その華麗なるラインナップは映画史そのものといってもいい。『ベン・ハー』に至ってはサイレント(1928年)、70ミリ(1959年)の両バージョンが上映されている。

 太平洋戦争勃発の昭和16(1941)年12月には、アメリカ映画上映禁止令を前に、『ガン・ガ・ディン』(1939年)、『ボージェスト』(同年)など、翌年正月封切りが予定されていた作品を日替わりで上映した。また、封切り時には松竹蒲田、松竹大船からスタアが駆け付け、ダグラス・フェアバンクスやチャールズ・チャップリンも来日の折には、舞台挨拶に来館している。子供の頃より松竹座に親しんだ淀川長治氏は、ユナイト映画宣伝部に入社した昭和8(1933年)、松竹座の二階で「松竹座グラヒック」という豪華パンフレットを編集していた。

 映画のみならず、松竹少女歌劇時代の三笠静子(のちの笠置シヅ子)が舞台せましと歌い、戦後はサッチモことルイ・アームストロング、ジョン・コルトレーンのジャズ・ジャイアンツのコンサートなど、様々なプログラムも組まれ、大阪モダニズム発祥の地と言われる所以でもある。

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喝采 エピローグシアター

 全面改装を前に「喝采 エピローグシアター」と銘打って、『十戒』(1956年)、『ベン・ハー』、『E.T.』(1982年)、『ボディガード』(1992年)など松竹座の歴史を飾った作品の上映、『モロッコ』、『スミス都へ行く』(1939年)、『大いなる西部』(1958年)などクラシック作品を、1994年4月23日から日替わりで上映。閉館を惜しむファンが各地から詰め掛け、連日満員の状態。道頓堀にはマックス・スタイナー作曲の「タラのテーマ」をBGMに「エピローグシアター」開催を告げるアナウンスが流れ、道行く人もしばし足を止め、消えゆく映画劇場を見つめていた。筆者も5月5日の『マイ・フェア・レディ』から大阪入り、大劇場で観客と映画を共有する楽しみと喜びを久々に取り戻した。

 大阪松竹座は建築探偵的な興味も満足させてくれる見事な建造物(設計は大林組の木村得三郎)でもある。アール・デコ前夜、ネオ・ルネッサンスの香り高い表正面の凱旋門様式のアーチ型飾り窓の美しさ。イタリアで焼かせたテラコッタで化粧され装飾を凝らしたファサードは「これが映画館?」と問いたくなる荘重な構え。総大理石のチケット売り場も映画を観る楽しみにより豪華なムードをもたらしてくれる。

 ひとたび館内に入るとまるでクラシック・ホテルのロビーを思わせる雰囲気。王朝風のシャンデリア、マントル・ピースは大正モダン建築の粋を集めて彩られ、三階まである劇場内、スクリーンの巨大感は久しく忘れていた映画劇場、ムービー・パレスの感覚そのもの。

 この巨大スクリーンでマルクス兄弟の傑作『我輩はカモである』が戦前に上映されていたかと思うだけでワクワクしてくる。化粧室のスタイル、格調高いエレベーター扉などが、大正モダニズム時代をしのばせる。

『風と共に去りぬ』

 松竹座が開場したのが1923年5月8日。奇しくも71年後の同日、『風と共に去りぬ』上映という、まさに映画のなかの映画でフィナーレを飾る。様々な伝説を今なお生み続けているマーガレット・ミッチェル原作、MGM大作『風と共に去りぬ』が製作されたのが、アメリカ映画の当たり年と言われる1939年。グレタ・ガルボの『ニノチカ』(MGM)、ジェームズ・スチュワート主演、フランク・キャプラ監督『スミス都へ行く』(コロムビア)、ジュディ・ガーランドの『オズの魔法使』(MGM)、ジョン・ウェインとジョン・フォードの傑作『駅馬車』(ユナイト)と歴史に残る作品が次々とハリウッドから送り出されていた。

 そのなかでもひときわ輝いていたのが聖林君主=ラスト・タイクーン、デヴィッド・O・セルズニックがその総力を結集して作り上げた『風と共に去りぬ』(MGM)。監督もジョージ・キューカー、ビクター・フレミング、サム・ウッドと、そうそうたる巨匠が次々と登板したが、監督の作品というよりプロデューサーの映画である。ある意味では、スケール、作品の質、スタア、どれをとっても映画100年の歴史がもたらした最高作であろう。

 残念ながら太平洋戦争前夜のため、日本公開は戦後まで待たねばならなかったが、大阪松竹座では昭和27(1952)年7月にロードショー公開。全席指定席、初の三百円興業(通常は百円)、もちろん大ヒットして、二ヶ月のロングランを記録した。

 以後、我が国でも70ミリ版でもリバイバル公開、鳴り物入りのテレビ放映、ビデオ発売とあらゆる世代に親しまれてきた。1994年末には50年ぶりの続編小説「スカーレット」が発刊され、『風と共に去りぬ』が再び大きくクローズアップされた。ところが、日本は不便な国というか、権利の関係で、しばらくこの名作をビデオやテレビ(WOWOWをのぞいて)で見ることすらできず、1989年、五十周年を記念してリマスターされた。ため息の出るほど美しいプリントがUIP配給でロードショーされたのが最後の上映だった。

 嬉しいことに1994年5月MGM映画の日本発売権を持つワーナー・ホームビデオから「五十周年記念マスター」による高画質のビデオ、レーザーディスクが発売、ビハインドシーンを満載した「〜幻のメイキング」ともども発売された。

その後、DVD、Blu-ray、配信と様々なニューメディアでリリースされ、文字通りのマスターピースとして親しまれているが、2020年「ブラック・ライブズ・マター」運動のさなか、奴隷制をめぐる描写が問題となり、アメリカHBOでの配信が停止されたことがニュースとなった。その後、「奴隷制の恐ろしさを否定している」と解説をした4分半の動画を本編開始前に付けた上で、配信が再開された(追記)。

そして・・・フィナーレ

 さて、1995年に話を戻そう。5月8日、松竹座のフィナーレをひとめ見ようと早朝から多くのファンが松竹座に駆けつけた。8時30分開場、9時には2階席、3階席ともにほぼ満員。立ち見覚悟の熱心なファンも加わって。朝9時40分の初回上映時には3階席の通路までぎっしり観客がいしめいていた。宝塚歌劇で上演されたこともあり、若い女性、それも初めて『風と共に去りぬ』を観ると思われる十代の女の子も多い。中年女性や、壮年の紳士、かつて松竹座でランデブーを楽しんだであろう老夫婦の姿も目立つ。筆者も三階席の中央前列に陣取って、開幕ベルとともに始まる序曲=オーバーチュアに胸躍らせた。

 『マイ・フェア・レディ』(日本ヘラルド配給)の時は、決して最高とはいえない、退色著しいプリントだったので、少々心配だった。GONE WITH THE WINDのタイトルロゴが流れるトップで、懸念は吹き飛んだ。UIP配給の五十周年バージョンで、傷もあまりないニュープリントに近い状態である。
 
 ヴイヴィアン・リーのスカーレット、オリビア・デ・ハビランドのメラニー。クラーク・ゲーブルのレット・バトラー、レスリー・ハワードのアシュレー。何度も観たはずなのに3時間45分があっという間に過ぎた。『キングコング』(1933年・RKO)のセットに火をつけたアトランタの炎上スペクタクル、心躍るダンス、南北戦争の死傷者が累々と重なるショッキングなシーンは、モニターでは決して味わうことができない。大スクリーンならではの映画的興奮がある。2000人近くの観客との一体感は、何事にも変えがたい。

 インターミッションのスーパーが出たとき、場内から笑い声が出たのは、緊張感からの開放か、それとも初めての休憩付き映画への戸惑いか。そして後半、メラニーの死で史上最大のメロドラマはクライマックスを迎えるが、劇場のあちこちからすすり泣きが聞こえる。レット・バトラーの「俺の知ったことか!」、スカーレットの「彼を取り戻さなくては、どうしよう。明日考えよう」という名台詞で、場内の興奮はピークに達した。

THE END

 エンド・マークには場内割れんばかりの拍手が贈られた。それは七十一年間という気の遠くなるような長い時を過ごしてきた映画劇場への「ごくろうさま」の意味も込められていたに違いない。

 大阪松竹座は平成9(1997)年の再開場にむけて、しばし眠りにつく。次に道頓堀にお目見えするときは、1200席の演劇専門館として生まれ変わる。ブロードウェイ・ミュージカルの公演、海外スターの来日公演も行われるだろう。もちろん近代建築の粋を凝らし、大阪・道頓堀の顔である大理石の表現間はそのままの形で残される。まずはめでたいことであろう。

大阪松竹座。日本最古の映画劇場。
1923年5月8日開場。
1994年5月8日閉場。

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1994年キネマ旬報に執筆した原稿に加筆しました。



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