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“Pink Martini & Saori Yuki 1969” 奇跡の軌跡

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佐藤利明(オトナの歌謡曲/娯楽映画研究家)

 2011年5月2日午後3時、オレゴン州ポートランドのスーパー・デジタル・スタジオでのセッションの合間に、トーマスから「街を案内するよ」と誘われた。録音したばかりの「ブルー・ライト・ヨコハマ」をカー・ステレオでかけ、チャチャのリズムにノリノリのトーマスが?連?れていってくれたのは、中古レコードがズラリと並んだEverydayMusicという大きなショップ。「ここでSaori YukiのLPを見つけたんだ」と、ワールドミュージックのコーナーでトーマスは嬉しそうに教えてくれた。

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 Pink Martiniは、1940年代から60年代にかけて世界中で流行したジャズ、映画音楽、ミュージカルのナンバーなどを主なレパートリーとする、ヴォーカリストを加えた12人編成のオーケストラ・グループ。アメリカ、ヨーロッパ、アジアとツアーを展開しながら、リスナーにゴージャスな音楽体験を提供している。“まるで映画のような?”という形容が相応しい、エンタテインメントの黄金時代を体感させてくれる、唯一無二のグループである。

 そのスタイルとサウンド・アレンジ、プロデュース、そしてヴィジュアル・コンセプトまで手掛けているのが、リーダーのトーマス・M・ローダーデール。1971年生まれのトーマスが1969年に日本でリリースされた由紀さおりの最初の?LP「夜明けのスキャット」を見つけた理由は、ジャケットのヴィジュアルに魅了されたからだった。だが、そのレコードを聴いたトーマスは由紀さおりの透明感のある歌声に惹かれ、3枚目のアルバム“Hey Eugene!”で“Taya Tan”をカヴァーする。

 こうして1969年にリリースされてから一度もCD化されることのなかった「タ・ヤ・タン」(山上路夫作詞・いずみたく作曲)は、日本をさしおいて世界のリスナーによって発見されることとなった。

 ぼくがYouTubeで“Taya Tan”を発見し、それを由紀さおりのプロデュースを手掛けている佐藤剛氏に伝えたのは、2009年の6月10日のこと。それがすべての始まりだった。
 
 剛さんはすぐにPink Martiniにコンタクトをとって来日を働きかけた。音楽出版社やレコード会社にもアプローチして「草原の輝き」の日本盤の発売を企画。そのライナーをぼくが書き、由紀さんがコメントを寄せてくれた?。そして発売に合わせてワールドツアー中のPink Martiniが来日し、ビルボードライブ東京でワンナイト・ライブを開催したのが2010年3月10日だった。

 そこにスペシャルゲストとして由紀さおりが参加、ヴォーカリストのチャイナ・フォーブスと「タ・ヤ・タン」を競演、オリジネーターとリスペクターがステージで幸福な出会いを果たしたのである。

 それがきっかけとなり、2010年11月、世界リリースのホリディ・アルバム“Joy To The World”のために、トーマスの依頼?で?由紀さおりが日本語で「ホワイト・クリスマス」をレコーディング。このアルバムはアメリカとカナダで?大きな話題となり、カナダではゴールドディスクを獲得、クリスマスの定番となった。

 その時期の由紀さおりは、歌手デビュー40周年を迎えて、“21世紀の歌謡曲”をテーマに、新たな活動を始めていた?。2009年のオリジナル・アルバム「いきる/由紀さおり」での試みに続き、2010年11月16日の東京国際フォーラムでのコンサート「由紀さおり RADIO DAYS〜1969〜」では、自身がデビューした“1969年の歌謡曲”をテーマに「ブルー・ライト・ヨコハマ」や「わすれたいのに」といった1969年を象徴する曲をカヴァーする。(演出:佐藤剛 構成台本:佐藤利明)

 1969年という年は、由紀さおりが「夜明けのスキャット」でデビューを果たしただけでなく、日本の、そして世界の音楽シーン、ポップカルチャー、政治、モラル、あらゆるコトやモノが大きく変革を遂げた年でもある。その1969年に日本でラジオから流?れていた歌をセレクトして、「1969」というタイトルのアルバム企画が進んでいくなかで、由紀さおりはスタッフとともに10数曲を選曲、アレンジとプロデュースをPink Martiniに依頼することとなった。こうして両者の本格的なコラボレーションが実現に近づいた。
 
 そのプロジェクトが進行中だった2011年3月、日本が東日本大震災に見舞われた。オレゴン州ポートランドで、オレゴンの日本人会とPink Martiniによる日本のためのチャリティ・コンサート「オレゴンから愛」が開催されることになり、それを聞いた由紀さおりが急遽、参加を決意して渡米。

 そこで再会したトーマスはアメリカのテレビニュースで「Saori Yukiは日本のバーブラ・ストライサンド」と称え、その美しい歌声がポートランドの人々の心に届いた。おりしも、全米のスターバックスコーヒー×iTunesによる東日本大震災チャリティー企画がPink Martiniに持ちかけられていた。そこでトーマスが由紀さおりに、黛ジュンのヒット曲「夕月」をカヴァーすることを提案。本当に急遽のことだった。3月27日のチャリティ・コンサートの翌日には「夕月」のレコーディングが行われたのである。Pink Martini フィーチャーリングSaori Yuki - Yuzuki (Japan Benefit, 2011)はこうして世界配信されることとなった。

 この「夕月」のポートランド・レコーディングを皮切りに、アルバム制作が本格的に始動した。2011年4月27日から5月4日にかけ、ポートランドでレコーディング・セッションが行われることとなり、もちろん、ぼくも同行させて頂いた。Pink Martiniのレコーディング・スタイル、トーマスの音楽作りの現場を、この眼で見届けたいと思ったからである。

 スタジオに入る前夜、Pink Martiniの本拠地Heinz Recordsで、トーマスと由紀による音合わせからスタート。共演ヴォーカルのティモシー・ニシモトも加わり、トーマスの思い描くサウンドに基づいて、彼女のキーを探る作業?。まるで大きな石を削りながら彫像を造り上げていくように、候補曲のデッサンが出来上がっていく。コミュニケーションをとりながら、お互いの体温を感知して、理想の境地に達していく。Pink Martiniのサウンドの、大きな特徴である“人間らしさ”や“温もり”の原点を見るような想いだった。

 3日目からは、ベーシストのフィル・ベイカー、ドラマーのアンソニー・ジョーンズが参加して、ヴォーカルセッションがスタートした。決まりきった伴奏をするのではなく、トーマスのイメージするサウンドと由紀の歌声の最も気持ちよい音を見つけていくという、スケッチのようなレコーディ
ングである。

 トーマスのピアノのイントロには、彼が考えている「曲の解釈」がすべて込められていて、それが由紀にヴィヴィッドに伝わり、曲の骨組みがつくられていく。それはまるで魔法のような時間だった。フィルのベースも、アンソニーのドラムも、変幻自在で、ライブハウスでセッションしているかのような時間が流れ、温もりのあるサウンドが歌声を包み込み、時には、彼女の歌声がサウンドを牽引していく。

 こうして録音された曲に、Pink Martiniのオーバ?ー・ダビングが加わり、しかも、プリンスなどを手がけたエンジニア、デイブ・フリードランダーによるミックスで、珠玉のアルバムが少しずつ完成に近づいていった。この一連のプロセスのなかで、もう一つの奇跡ともいうべき、新しい展開が待っていた。トーマスがこの「1969」を日本の由紀さおりのアルバムという考えから、Pink Martiniのアルバムと同等に捉え直したのである。

 そして日本人の感性と、アメリカ人のセンスで、一曲一曲が吟味されていった。トーマスの目指すサウンドと世界観は、由紀さおりの目指す“21世紀の歌謡曲”とひとつになっていき、2011年の今、世界に伝えたい「1969年の音楽」を、Pink Martiniが演奏し、由紀さおりが歌うという、まさしく、時空を超えた夢のコラボレーションが実現したのだ。

 「1969」というコンセプトは、当初、日本側からの提案だった。ぼくが剛さんから「由紀さんのプロジェクトを手伝って欲しい」という依頼を受けたときから、二人は1969年という年を「すべての原点」として捉えてきた。1969年に始まった「20世紀の歌謡曲」が、由紀さおりの「21世紀の歌謡曲」に繋がってゆくと信じて…。

 われわれのコンセプトに賛同してくれたトーマスは、日本の曲のみならず、同時期に世界で注目を集めた曲を加えることで、よりPink Martiniらしく1969?年という時代の音楽や文化について考えることができると、企画をさらに膨らましてくれたのである。その時からトーマスは、Pink Martini?のアルバムとして、このプロジェクトに全力で取り組み始めた。

 その結果、このアルバムは、日本の由紀さおりと、世界のPink Martiniの共同プロジェクトというかたちで、一気にワールドワイドな展開をすることになったのである。日本だけでなく、北米、ヨーロッパをはじめ、アジアを含む全世界でリリースされるのだ。ぼくたちが望んでいた「日本の歌謡曲を世界へ」という夢が、こうして現実のものとなった。

 2011年10月17日には、ロンドンのロイヤルアルバート・ホールで、Pink Martiniのコンサートに由紀さおりが参加、12月の全米ツアーにも参加が予定されている。1960年代末の日本でのみ流行した歌謡曲が、抜群のセンスを持つ音楽家の感性にどう響いたのかは、完成した音源をお聴きいただければ一聴瞭然。このアルバムを通して“ニッポンの歌謡曲”がワールドミュージックとして、どう広がってゆくのか“21世紀の歌謡曲”の世界展開の“これから”が楽しみである。

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【収録曲】

01 ブ ル ー ・ラ イト・ヨ コ ハ マ 2 : 5 0
作詞: 橋本 淳 作曲: 筒美 京平

02 真夜中のボサ・ノバ 3:14
作詞: 橋本 淳 作曲: 筒美 京平

03 さらば夏の日 Du soleil plein les yeux 3:27
作詞:キャサリン・デサージュ 作曲:フランシス・レイ

04 パフ Puff, the magic dragon 3:49
作詞:レオナルド・リプトン 作曲:ピーター・ヤーロー 訳詞:野上 彰

05 いいじゃないの幸せならば 3:34
作詞 : 岩谷 時子 作曲 : いずみたく

06 夕月 3 : 1 8
作詞:なかにし礼 作曲:三木たかし

07 夜明けのスキャット 3:16
作詞 : 山上 路夫 作曲 : いずみたく

08 マシュ・ケ・ナダ Mas que nada 2:34
作詞・作曲:ジョルジュ・ベン 訳詞:永田 文夫

09 イズ・ザット・オール・ゼア・イズ? Is that all there is? 4:11
作詞・作曲 : ジェリー・リーバー、マイク・ストーラー
訳詞 : タダシ・ナガイ、レナ・コナー、ヨシオ・クロサキ、トーマス・M・ローダーデール カミリア・ニエ、サトミ・サノ、マスミ&スティーヴン・ティムソン、マス・ヤタベ

10 私もあなたと泣いていい? 3:34
作詞・作曲 : 三沢 郷

11 わすれたいのに 2:53
原曲“I Love How You Love Me” 作詞:ラリー・コルバー 作曲:バリー・マン 訳詞:奥山 侊伸

【楽曲解説】

01 ブルー・ライト・ヨコハマ
 チャチャのリズムでアレンジしたトーマスの、抜群のセンスの良さが光っている、いしだ あゆみの「ブルー・ライト・ヨコハマ」は、1968年12月25日発売。橋本淳作詞、筒美京平 作 曲 に よ る サ ウ ン ド の 新 し さ 、 港 町 ヨ コ ハ マ の イ メ ー ジ と 相 ま っ て 、 1 9 6 9 年 の 初 頭 か ら 大ヒットを記録した。2010年11月のステージ「由紀さおりRADIO DAYS〜1969〜」で もオープニングを飾った曲である。

02 真夜中のボサ・ノバ
 ギロのリズム、ピアノのイントロがクールで、アダルトな雰囲気が漂う「真夜中のボサ・ノバ」は、トーマスの選曲によるもの。共演はPink Martiniの男性ヴォーカリスト、ティモシー・ ニ シ モ ト 。 由 紀 さ お り と の デ ュ エ ッ ト の 心 地 よ さ か ら は 、こ れ ぞ 歌 謡 曲 と い う 魅 力 が 堪 能 できる。ヒデとロザンナ3 枚目のシングル「ローマの奇跡」のカップリング 曲で、1969 年 8 月25日発売 。

03 さらば夏の日 Du soleil plein les yeux
 ティモシー・ニシモトとのデュエットで、これは当初 、日本語が 予定されていたが 、トーマスのアイデアでフランス語で吹き込むことに。それを由紀さおりは、フランス語ネイティブ の 語 学 教 師 も 驚 く ほ ど の 完 璧 な 発 音 で 歌 い 上 げ て い る 。「 さ ら ば 夏 の 日 」 は 、 1 9 7 0 年 に 製 作 さ れ た ル ノ ・ ベ ル レ ー 主 演 の 同 名 フ ラ ン ス 映 画 の テ ー マ 曲 と し て 、 フ ラ ン シ ス ・ レ イ が 作曲して大ヒット。フランシス・レイは1971年由紀のために「男のこころ」と「恋に落ちな いように」を提供している。

04 パフ Puff, the magic dragon
 ア メ リ カ で 活 躍 し た フ ォ ー ク・ グ ル ー プ P P M ( ピ ー タ ー ・ ポ ー ル & マ リ ー )が 1 9 6 3 年 に 発表した「パフ」は、ヒッピーのドラッグ・ソングのイメージも強いが、物語はファンタジー。 不老のドラゴン・パフとジャッキー 少年の交流と別れ 。ホナリーとはおとぎの国の島のこ と 。 日 本 で は 小 学 生 の 音 楽 の 教 科 書 や N H K の 「 お か あ さ ん と い っ し ょ 」 で 童 謡 と し て 日 本 語 詞 で 親 し ま れ た 。 こ こ で は そ の 歌 詞 を 採 用 。 ト ー マ ス は 、 女 優 マ レ ー ネ・ デ ー ト リ ッ ヒ に よ る カ ヴ ァ ー の 、 語 る よ う な イ メ ー ジ で と 由 紀 に リ ク エ スト し た 。 女 優 と し て の「 語 り の 魅力」が堪能できる。ウクレレから始まるサウンドは、タイニー・ティムの“Tip-toe Thru’ The Tulips With Me/チューリップ畑を歩けば”にインスパイアされたとはトーマス談。

05 いいじゃないの幸せならば
 1969 年のレコード大賞に輝いたのが、岩谷時子作詞、いずみたく作曲、佐良直美の「い いじゃないの幸せならば」。それまでの歌謡曲とは一線を画す、時代を象徴する“新しい 女 性 ” の 冷 め た 感 覚 を 描 い た 画 期 的 な 歌 詞 は 、 時 代 の 大 き な 変 化 を 映 し 出 し て い る 。 こ の歌詞の真意について問われて、由紀さんと一緒に歌の主人公についての話をしたが、 それに納得したトーマスによる繊細なアレンジが生まれた。

06 夕月
 iTunesで世界配信された「夕月」は、マスミ・ティムソンの琴をフィーチャーリングしたエキゾチックなカヴァー。琴とストリングスの融合、トーマスの考えるJAPAN の世界が味わ え る 。 な か に し 礼 作 詞 、 三 木 た か し 作 ・ 編 曲 に よ る 黛 ジ ュ ン の 「 夕 月 」は 1 9 6 8 年 9 月 に リ リ ー スされてロングセラーとなり、1969 年にもラジオからよく流れた。海外盤では、これが1 曲目となる。それもトーマスのこだわり。

07 夜明けのスキャット
 TBSラジオ「夜のバラード」のテーマソングで、由紀が歌った「夜明けのスキャット」がリリ ー ス さ れ た の は 1 9 6 9 年 3 月 1 0 日 。 山 上 路 夫 作 詞 、い ず み た く 作 曲 に よ る こ の 曲 は 、ユ ニ ー クなスタイルと美しい 歌 声 が 大 衆 の ハ ートを 掴 んで 、年 間 オリコンチャート1位 に 輝 く 大 ヒ ッ ト と な っ た 。「 旧 い 定 型 や 様 式 か ら 解 放 さ れ 、 流 行 を 先 取 り し 、 現 在 形 で 世 間 を 語る大衆の歌」を歌謡曲と定義するなら、まさしく1969年を象徴する曲で、20世紀を代 表する歌謡曲である。トーマスのアレンジは、オリジナルへのリスペクトをしつつ、後半にPink Martiniならではのダイナミックで流麗なサウンドが広がっていく。

08 マシュ・ケ・ナダ Mas que nada
 “Mas Que Nada”はセルジオ・ メンデスとブラジル‘66のデビューアルバム“ Sergio Mendes & Brasil '66 ”のために、ジョルジュ・ベンが作曲した名曲。プロデュースした のは、ティファナ・ブラスのリーダー、ハープ・アルバート。トーマスはオリジナルに敬意を 表 し て 、テ ィ ム ・ ジ ェ ン セ ン の フ ル ー ト を フ ィ ー チ ャ ー リ ン グ 、ギ ャ ビ ン ・ ボ ン デ ィ の ト ラ ン ペ ッ ト 、ロ バ ー ト・ テ イ ラ ー の ト ロ ン ボ ー ン に よ る ブ ラ ス セ ク シ ョ ン が 、こ の 素 晴 ら し い サ ウ ン ド を 作 り 上 げ て い る 。 こ の 歌 詞 は 、ア スト ラ ッ ド・ ジ ル ベ ル ド が 日 本 語 で レ コ ー デ ィ ン グ し た ヴァージョン。

09 イズ・ザット・オール・ゼア・イズ?  Is that all there is?
 ジャズ・シンガーのペギー・リーが、数奇な運命をたどったヒロインの人生を振り返る”Is That All There Is?”は、1960年代の半ばに、ソングライターコンビのジェリー・リーバー と マ イ ク・ ス ト ー ラ ー に よ っ て 書 か れ た ド ラ マ チ ッ ク な ナ ン バ ー 。 1 9 6 9 年 1 1 月 に ペ ギ ー ・ リーがレコーディングして、生涯のレパートリーとなった。トーマスは由紀さおりに、『サ ンセット大通り』(50 年)でグロリア・スワンソンが演じた往年の大女優をイメージして語っ て欲しいとリクエスト。シンガーであり女優としても数多くの映画に出演している由紀さお りの表現力が堪能できる。

10 私もあなたと泣いていい?
 1960 年代は断絶ゆえの共感の時代であったことが、「私もあなたと泣いていい?」には込められている。学園紛争は高校生まで波及し、何かを変えようという希望と、何も変わ ら な い 絶 望 が 隣 り 合 わ せ の 時 代 だ っ た 。「 血 の 涙 」 の フ レ ー ズ に は そ の 時 代 の 厳 し さ を 感じる。この曲を歌った兼田みえこは、文化放送の深夜ラジオ「走れ歌謡曲」の初代パー ソナリティで、若者に根強い人気があった 。

11 わすれたいのに
 こちらも1969 年のラジオから生まれたヒット曲 。ニッポン放送の「ザ・パンチ・パンチ・パンチ」のパーソナリティ三人組 、モコ・ビーバー・オリーブが吹き込んだ「わすれたいのに」 を2010年のリサイタル「由紀さおり RADIO DAYS〜1969〜」第一部のクロージングで 由 紀 が 「 ど う し て も 歌 い た か っ た 」 曲 と し て 歌 っ た 。 こ の オ リ ジ ナ ル は 、 フ ィ ル ・ ス ペ ク タ ー がプロデュースしていたパリス・シスターズの1961年のヒット“I Love How You Love Me”。アフター・サマーソングの名作 。



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