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『笑ふ地球に朝が来る』(1940年6月26日・南旺映画・津田不二夫)

 紀元二千六百年に沸き立つ昭和15(1940)年、流行歌や映画から「自由な空気」が失われつつあった。勇ましい戦意高揚のスローガンも高らかに、軽佻浮薄なジャズやナンセンスが少しずつだが、確実に消えつつあった。そうしたなか、東宝と配給契約を結んでいた制作会社・南旺映画がその「第四回作品」(冒頭のスーパーに出る)として製作した『笑ふ地球に朝が来る』(1940年6月26日・南旺映画・津田不二夫)には、なんとニグロバンドが登場、本格的なジャズ演奏を展開してくれる!

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 戦前最後のボードビル芸を記録した映画としても貴重。わずか50分で、ストーリーもなかなか伝わらない。演出と構成が「素朴」なのだけど、出演しているメンバーの来歴を少しでも知っていると嬉しくて仕方がない。彼らの至芸の片鱗、演奏、ダンスなどのステージのエッセンスだけでも、戦前のニッポン・エンタテインメントがいかにモダンだったのかがわかる。

 監督はこれがデビューの津田不二夫。翌年に『三太のラッパ』(1941年)を南旺映画で撮り、戦後は東映でS P歌謡映画『懐かしのメロディー 二人は若い』『同 あゝそれなのに』『うちの女房にゃ髭がある』(1954年)、高倉健さんのデビュー作『電光空手打ち』(1956年)を撮ることになる。

 カメラは新興キネマ東京出身の東健。25本ほど新興作品を手がけ、本作で東宝傍系の南旺映画に移籍。この映画の翌年、今井正監督の『結婚の生態』(1941年7月30日)、成瀬巳喜男監督の『秀子の車掌さん』(1941年9月17日)を手がけることとなる。

t 音楽は杉井幸一。ジャズのレコードを自由に発売できなくなりつつあったこの頃、「サロン・ミュージック」でスイングやタンゴ、ラテンのスタイル、編成で日本の民謡や流行歌をアレンジ。洋楽のスタイルで日本の楽曲をダンス・アレンジしていた音楽家。ここでも梅園龍子が踊るシーンで「八木節」などの民謡ジャズをゴキゲンに展開。映画のクレジットによると、バンドの編成は次の通り。

演奏「タムタムスヰング樂団」
歌手 清水悦子
ドラム 飯山茂雄(バンドマスター)
ピアノ 柴田喬
ベース 小口雄
ギター 谷龍介
アルトサキソホン 斎藤実
テノールサキソホン 津田純
第一トランペット 後藤博
第二トランペット 安田健太郎
トロンボーン 荒井恒次

 当時の一流ミュージシャンばかり。バンドリーダーでドラムの飯山茂雄さんは、戦前の東京で超一流と謳われた名ドラマー。戦後、昭和21(1946)年に「飯山茂雄とゲイシックス」を結成した。トランペットの後藤博さんは、昭和14(1939)年「エノケン・デキシー・ランダーズ」のリーダーとして日劇の舞台に立った。戦後も「後藤博とデキシー・ランダーズ」を率いてジャズブームを牽引した。彼らが、墨を顔に塗って黒人メイクをして、ハリウッド映画でもお馴染みだった「ミンストレル・ショウ」のスタイルで「ニグロバンド」としてステージ演奏。トップシーンの「セントルイス・ブルース」は、杉井幸一さんのアレンジ、ヴォーカル・清水悦子さんが指揮棒を振って、とにかくカッコイイ。昭和15年の日本のジャズ・シーンの水準の高さが体感できる! もうこのシーンだけでこの映画の価値がある。

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 舞台は雪深い地方都市(おそらく新潟)。「レビューの王者 帝都随一の人気者 青空ひろし一行来る 青空うらら ニグロバンド」のポスターが寒空に踊っている。田舎の芝居小屋で、東京からドサ周りを続けてきた「青空ひろし」一座公演は、連日の不入りで、今夜はとうとう客はごくわずか。

 座長・青空ひろし(月田一郎)と座付き作家・青島(大川平八郎)は理想主義で、客が来なくても、御難続きでもそれが芸を鍛えるのだと、花形女優でダンサーの青空うらら(梅園龍子)を叱咤している。青島とうららは、兄貴公認で付き合っている。ということが、劇中匂わされるが、ドラマというほどではない。むしろ、この一座が、雪国でどん詰まりになり、御難続きのなか、どうしていくのかをペーソスを交えながら描いていく「ショウビジネス映画」として作られている。

 その夜「ニグロバンド」「セントルイスブルース」を演奏し、彼らの「民謡ジャズ」で、ひとみ(梅園龍子)が踊ってステージの幕が上がる。ステージには声帯模写・村山進(吉本興業提供)も立って、コミカルな芸を見せる。

 続いてステージに立つのは、アノネのオッサン! 大當銀鈴(高勢實乗)である。ここでオッサンの至芸がたっぷり味わえるのである! エノケンやエンタツ・アチャコ映画で「場面食い」としてワンシーン登場して、「アーノネオッサン、わしゃかなわんよ」と独特のエロキューションで言い放つ。それだけで、子供たちは大喜び。東宝映画の最高のアトラクションだった。そのアノネのオッサンが、ここでは大々的にフィーチャーされている! ステージだけで2分34秒もある。

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「お寒さもお厭いなく、毎夜毎夜のご来場を賜りまして、表方は申すに及ばず、楽屋一同、欣喜雀逸の有様でございます。不肖、私、代表いたしまして、厚く御礼を申し上げます」

深々と客席に頭を下げるオッサン。これだけで、昭和15年の映画館は湧きに湧いたことだろう。

「いよいよ、演芸は佳境に参って参りました。されば、南洋情緒豊かなる、ハワイアン、いよいよギターの独奏をいたします」

とオッサン、ギターを弾くのかと思ったら、なんとエアギター! 口先のシンコペーションで奏でるは「酒は泪か」(笑)ちゃんとイントロから正調ハワイアンで奏でる。こんな芸を持っていたとは! メロディーを口ずさみ、ギターの余韻、残音まで再現している(笑)これにはビックリ!

 その演奏が佳境に入ったところで、ソロソロと「ニグロバンド」の面々が夜逃げ。示し合わせていて、一人ずつそっと楽屋から逃げ出して駅へ。東京に逃げ帰ってしまう。喜劇的な演出ではなく、雪国の夜、芝居小屋の侘しい電灯が、哀愁を感じさせる。これが一座の「御難その1」となる。オッサンの芸は続く。

「では、これから有名な(小唄)勝太郎の“島の娘”はぁーっというのをご紹介します。では勝太郎さん!どうぞ」

もちろん、勝太郎が出てくるわけではない。オッサン、高音で勝太郎の「島の娘」を独唱。

「♪はあー 島で育てば、娘十六、紅襷〜」

と調子良く歌う。映画館では大爆笑だったが、小屋の客はシーン。続いてオッサン「ニグロバンド」を紹介するが、一向に出てこない。楽屋でもようやく逃げたことが発覚して大騒ぎ。さあ、どうしよう!

 その夜、楽屋では、オッサンが座員を集めて演説をしている。まさに「オッサンの演説」である。「諸君、今日まで長い苦楽を共にしてきた我々、兄弟を裏切ってドロンするあのニグロバンドは実に、いっぺんの情けもない奴らでありましょうぞ!」とこの演説がなかなか面白い。その間にマネージャー(桜川忠七)も、今日の売り上げ全額持ってドロンして「御難その2」となる。

 一座は宿に泊まることもできず、楽屋で籠城することになる。しかも食事もない。そこでオッサン、みんなにヘソクリの「最後の一銭まで(最期の一兵までのパロディ)」供出させる。ようやく集まったのが十八円二十三銭。

 その金をオッサンが責任を持って預かると宣言。皆も同意する。おい、大丈なのか? オッサン、みんなの夜食に「うどん」を注文すると言って、雪がしんしん降る中を出ていく。しばらくして、みんなドロンしたんじゃないかと疑心暗鬼になっていると、うどん屋の小僧(中川弁お公)が出前を持ってやってくる。しかも「親子丼」が人数分ある。オッサン、気を利かせたと、全員が箸をつけたとたん「お代は七円五十銭です」とうどん屋。ここで、オッサンもみんなのへそくりを持ち逃げしたことがわかる。これで「御難その3」。

 夜逃げが発覚すると次のショットが必ず汽車が驀進するカットが入るのがおかしい。さあどうしよう、一座、相談して、衣装を売れば幾ばくかになるだろうと、二人の座員が衣装箱を持って近所の質屋へ。その質屋の親父が、江戸っ子でなかなか口跡がいい。最初は奥座敷で晩酌しているので声だけだが、その声だけで三遊亭金馬師匠だということがわかる。

 オッサンに続いて三遊亭金馬師匠。これも子供達には嬉しかったに違いない。旅の一座だと知るや質屋の親父「旅のものはお断りだよ」とぴしゃり。それでも「僕たちも東京から来たんです」と聞くや、機嫌を直して「どてら質に入れて、マグロの刺身で一杯。山葵ゃなくとも、身に染みる」と粋な調子で唸り出す。「こりゃ、旅の御難だな」と金を貸してくれる。

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 二人が金を持ち逃げしないかと、駅で待ち構えている座員たち数名。二人を阻止するのかと思いきや、一緒に東京へ「連れてってくれ」。結局、大量ドロン。「御難その4」

 残されたのは、座長・青空ひろし(月田一郎)、座付き作家・青島(大川平八郎)、青空うらら(梅園龍子)、増枝(清川虹子)そして岸井明さんたち四人組だけとなる。この四人組が一座のコメディリリーフで、全員、うららに惚れている。

ゴム 岸井明
ベン 東喜代駒
ピカ 大竹たもつ
ハム 江出勘太

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 我らが「アーちゃん」岸井明さんがゴム。そしてベン役の東喜代駒さんは、昭和3(1928)年に、東千代駒さんとコンビを組んで、関西のエンタツ・アチャコに対抗して、東京の「ハイクラス漫才」を名乗り、東京漫才の草分けとなる。その後、一人で時事漫談、歌謡漫談として活躍。

 チャップリンのような扮装のピカ役の大竹たもつは、吉本ショウで「オオタケ・フォーリーズ」を結成「あきれたぼういず」のようなボーイズ芸で大人気。なので、楽屋での酒盛りシーンで「愛馬進軍歌」に合わせて、「あきれたぼういず」の真似をする。途中「南京豆売り」に転調するのも元祖に倣っている。このシーンで「オオタケ・フォーリーズ」の片鱗が伺える。戦後は、役者に転向して少年映画「快傑ハリマオ」(1960年・宣弘社)で陳秀明を演じてテレビ世代の子供達にも知られる存在となる。宣弘社が製作したクレイジーキャッツ幻のテレビ番組パイロット「どら猫キャプテン」(1960年)にも出演している。

 そしてもう一人、ハム役を演じた江出勘太さんは、小柄ながらコミック・タップダンスの名手。芸名はアメリカの人気ボードビリアン、エディ・キャンターに倣ったもの。このゴム(岸井明)、ベン(東喜代駒)、ピカ(大竹たもつ)、ハム(江出勘太)たちの明るさが、座の希望となっていく。しかし50分の尺なので、月田一郎さん、大川平八郎さん、梅園龍子さんたちのドラマが皆無同様、岸井明さんの活躍はほとんどない。おそらくもっとあったのだろうが、内務省の検閲で切られたか、戦後再上映の際にカットされたのかもしれない。

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 この四人組が、最後の小道具などを持って質屋に行く。トランクや行李を開けて、青空うららのプロマイドだけ抜き取り、質屋の親父(三遊亭金馬)の世話になる。しめて三円五十銭。またしても夜逃げか?思わせておいて、四人組は正直に楽屋に帰ってくる。「ショー・マスト・ゴー・オン」の精神で、残った座員で仕切り直し、幕を開けて、稼いだ金で東京へ帰ろう!と決意をする。この辺りはミュージカル、特にバックステージもの、戦後の『バンドワゴン』(1953年・MGM・ヴィンセント・ミネリ)みたいで楽しい。

 翌日、四人組がジンタとして、座員一同、雪国の街を練り歩く。おかげでその夜は満員御礼。四人組、清川虹子さんも全員、黒塗りして、レコード伴奏に合わせて「ニグロバンド」の真似事をする。この高揚感!

 同じ頃、質屋には泥棒(楠本武志)が押し入り、親父を締め上げて、質草の一座の衣装を来て座員に化けて芝居小屋へ潜入、木戸のみね婆さん(二葉かほる)を騙して、売り上げ全部掻っ攫ってしまう。これが最大の御難となる。

 ゴム(岸井明)たち、覚悟を決めて、座長、作家、うららを逃がすことにする。「座長、いよいよ土壇場です。逃げてください。客にノサる覚悟で時間まで稼ぎますから」と、最後に故郷に帰るために取っておいた虎の子を差し出す。このシーンがなかなかいい。四人が舞台を勤めている間に、座長たちは東京へ、という最後の作戦である。

 そして四人組たちのショウが始まる。岸井明さんが「♪ダイナ」を口で演奏し、「塩原太助一代記 青の別れ」などを次々と、これぞ戦前のアチャラカ芝居! 片鱗だけど「笑の王国」「吉本ショウ」の舞台でどんなことをやっていたのかが、ぼやっとしているが伝わってきて、大興奮! もちろん客席には大受け!

ラスト、残された四人が、とぼとぼと雪道を歩いていくバックショット。ちょっとしたジャン・ルノワールの『どん底』(1936年)みたいな哀感とともにエンドマークとなる。

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