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 東宝名物「社長」シリーズは、1956(昭和31)年の『へそくり社長』(千葉泰樹)を第一作に、万博に沸き立つ1970(昭和45)年の『続 社長学ABC』(松林宗恵)まで三十三本作られた。お家芸の特撮映画や、「若大将」に代表される青春路線、そして庶民の風俗喜劇「駅前シリーズ」と共に、東宝娯楽映画の時代を彩った。恐妻で入婿の三等社長に森繁久彌、勤勉実直な秘書課長に小林桂樹、石橋を叩いても渡らない堅実な重役に加東大介、そして「パーッと行きましょう」のかけ声も高らかな社用族の権化のC調課長(または部長)に三木のり平、フランキー堺の怪しげな日系バイヤー、といった芸達者なレギュラー陣の絶妙のアンサンブルは実に魅力的。

 それに先立つ昭和20年代後半、東宝ではホワイトカラー小説の雄、源氏鶏太原作の『ホープさん サラリーマン虎の巻』(51年 山本嘉次郎)が封切られ、東宝初出演となる小林桂樹が演じた新人サラリーマン像が好評を博し、サラリーマン映画というジャンルが確立。続く『ラッキーさん』(52年 市川崑)もまた主演は小林桂樹、原作は源氏の「ホープさん」と「三等重役」をベースにしている。先代がパージされたために、繰り上がり昇格した戦後派社長を河村黎吉が演じて、三等重役の哀感が好評を博すこととなる。
 そこで製作者、藤本真澄は、すぐに河村社長がメインの『三等重役』(52年 春原政久)を企画。河村社長と小林桂樹のフレッシュマンに加え、ここで森繁久彌の老獪な人事課長が登場。松竹育ちの名脇役、河村の「云うなれば」と勿体ぶった物言いとは裏腹の小心ぶり、自分第一の老獪な森繁課長。生真面目な小林社員のトリオは微苦笑を誘い、すぐに『續 三等重役』(52年 鈴木英夫)が作られる。伝説の蕎麦をハサミで切るギャグが誕生する。第三作が企画されたところで河村黎吉が急逝。シリーズ化は断念され、小林桂樹は再びフレッシュマンもの『坊ちゃん社員 前後篇』(54年 山本嘉次郎)に出演。一方の森繁は、マキノ雅弘の「次郎長三国志」(53〜54年)で森の石松を好演して、文字通り“演技開眼”。

 飛ぶ鳥を落とす勢いの森繁は新東宝の『森繁の新入社員』(55年 渡辺邦男)などのアチャラカ喜劇に出演しつつ、東京映画の『夫婦善哉』(55年 豊田四郎)で高い評価を受け、俳優としての“格”が一気に上がってしまう。
 敗戦から十一年、経済白書に「もはや戦後ではない」と記された昭和31(1956)年、藤本真澄は『三等重役』再びということで、森繁を河村社長の後釜に据えて『へそくり社長 前後篇』を製作。森繁は「新入社員」から一足飛びに「社長」に昇格してしまう。社長夫人には越路吹雪。入婿で恐妻家という設定や、夫人の目を盗んでは小唄の師匠・藤間紫に鼻の下を延ばす、という黄金パターンもここに始まる。第一部のラスト、忘年会での「鰌すくい」の演技指導(?)に呼ばれて、出演した三木のり平は、そのまま残留。小林桂樹の恋人に司葉子と、レギュラーも揃い、正続篇というスタイルも確立。先代、河村社長の肖像も社長室に掲げられ、こうして「社長シリーズ」は華々しくスタートを切った。
 すぐに『はりきり社長』(56年 渡辺邦男)が作られ、社長夫人には宝塚で越路吹雪の後輩にあたる久慈あさみ。以後、最終作まで夫人の座は久慈あさみとなる。1957(昭和32)年、東京映画で『おしゃべり社長』(青柳信雄)が作られ、タイトルに「社長」とあるが、森繁もボヘミアンの雇われ社長で、脚本も笠原良三ではないためシリーズ外。「社長シリーズ」は、森繁社長、笠原良三脚本作品を指す。源氏鶏太原作の「新三等重役」(59〜60年)も、森繁は社長ではなく“沢村専務”なのでシリーズには計上しない。

 さて1958(昭和33)年、シリーズ初の東宝スコープ『社長三代記』(松林宗恵)が封切られる。森繁社長が洋行し、早くも三代目社長として加東大介へのバトンタッチが試みられる。「大番」(57〜58年)で人気を博し、小林桂樹の「サラリーマン出世太閤記」(57〜60年)で社長を好演していたためと思われるが、社長はやはり森繁。次作『社長太平記』(54年 松林宗恵)では、海軍の上下関係が逆転した下着メーカーの悲喜こもごもを描き、『続 社長太平記』では、松林が降板したため、青柳信雄がピンチヒッターをつとめた。
 そして戦前のP.C.L.時代から数えて「東宝サラリーマン映画1000本記念」(定かでないが)と銘打たれた大作『サラリーマン忠臣蔵 正続篇』(60〜61年 杉江敏男)が作られる。
 シリーズがスタートして五年、ようやくフォーマットが固まり、黄金パターンが確立するのが、『社長道中記 前後篇』(61年 松林宗恵)から。久々に源氏鶏太の短編を原作に、社長の浮気が寸前で失敗する「寸止めの美学」がエスカレート。森繁が小林秘書の睡眠薬を精力剤と取り違える浮気シーンは抱腹絶倒の面白さ。巨大缶詰を被った森繁、小林、三木の珍芸など爆笑場面が連続。
 そして『サラリーマン清水港』(62年 松林宗恵)では、ついにフランキー堺の外国人バイヤーが登場! カタコトの日本語を操る怪しげな日系キャラが、笑いをグレードアップさせ、香港編『社長洋行記 正続篇』(62年 杉江敏男)、ハワイ編『社長外遊記 正続篇』(63年 松林宗恵)と、海外へと雄飛することになる。
 人気があるうちが華と、藤本プロデューサーは『社長紳士録 正続篇』(64年 松林宗恵)を最終作として製作。小林桂樹と司葉子はようやくゴールイン。森繁社長が会長に昇進し、洋行するラストのパーティには東宝スターが勢揃いしてのグランドフィナーレ。しかし全国の映画館主たちがシリーズ終了に猛反対、そのまま続行となる。

 そうして迎えた昭和40年代、松林監督が社長専門となり『社長忍法帖 正続篇』(65年)、『社長行状記 正続篇』(66年)、『社長千一夜 正続篇』(67年)と続き、黒沢年男、藤あきみ、沢井桂子といった若手が助演し、安定期を迎える。しかし『社長繁盛記 正続篇』(68年)で、当初キャスト発表されていたフランキー堺と三木のり平が降板、小沢昭一と谷啓がピンチヒッターとなる。翌年の『社長えんま帖 正続篇』(69年)では、藤岡琢也が怪しげなバイヤーを演じ、そうしたキャストの変質は、却って新鮮な感じでもある。同時に酒井和歌子、内藤洋子といったフレッシュアイドルが色を添え、小林夫妻の倦怠期や浮気ネタなど、ルーティーンの楽しさが加味され、面白さのクオリティは維持され、円熟の松林演出が堪能できる。
 1970(昭和45)年、『社長学ABC 正続篇』で、森繁は親会社の会長となり、後進を小林桂樹に譲り、ついに「社長シリーズ」の幕が閉じられる。シリーズを通して、社長が鼻の下を延ばすバーのマダムや芸者に、淡路恵子、新珠三千代、草笛光子、そして団令子(時には小林の恋人役)がアダルトなムードを漂わせた。浮気が常に失敗する「寸止めの美学」は、「家族的会社経営を是とする」感覚と共に、シリーズの重要なモラルだった。ここまでで全三十三本。それに小林社長の『昭和ひとけた社長対ふたけた社員 前後篇』(71年 石田勝心)を併せて三十五本。まさにニッポンの高度成長を象徴するシリーズとなった。
 しかし1976(昭和51)年、笠原良三脚本、松林宗恵監督による新作『社長開運記』が企画され、フランキー堺、三木のり平が復活する予定だった。残念ながら実現は果たせず、「社長」プラス「駅前」同窓会的な『喜劇 百点満点』(松林宗恵)が作られた。

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