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『ゴジラ』への遥かなる道〜円谷英二と東宝特撮映画前史〜

 僕らの世代は、特撮の神様・円谷英二の名前を見るだけで、心ときめく。怪獣や空想特撮映画は、映画への入口でもあった。円谷英二率いる東宝特技スタッフは、一体どんな仕事をしているのだろう。昭和30年代から40年代に幼少期を過ごし、怪獣ブームの洗礼を受けた世代なら、一度はそう思った筈。

 実は僕らの父親の世代もそうだった。『燃ゆる大空』(1940年)や『ハワイ・マレー沖海戦』(1942年)、『加藤隼戦闘隊』(1944年)の飛行場面、真珠湾攻撃のヴィジュアル、そして空戦の映像は、戦時体制下の少年の胸を熱くした。円谷英二の名前は“特別なもの”だからこそ、親父は特撮映画に連れてってくれ、「ウルトラQ」「ウルトラマン」に夢中になる倅のために、玩具を買ってくれたのかもしれない。ことほど左様に“円谷英二”の名前は、特別な響きと輝きを持っていた。

 円谷英二は、明治34(1901)年7月7日の七夕に、福島県岩瀬郡須賀川町(現・須賀川市中町)に生まれた。本名・圓谷英一。“つぶらや”ではなく“つむらや”と読む。大空に憧れ、模型作りに明け暮れ、活動写真そのものよりも、映写機に興味を持ち自作の動画を上映した少年時代。尋常小学校卒業後は、飛行機乗りを目指して上京、開校間もない日本飛行学校の練習生となるも、思わぬ事故で飛行学校は閉校、パイロットの夢は実現できなかった。その後、神田の電機学校(現・東京電機大学)に通いながら、玩具メーカーの考案課でさまざまな玩具の特許を獲得する。飛行機を愛し、映画技術に興味を持つ天性のアイデアマンだったのだ。

 やがて大正8(1919)年春、花見に出かけた飛鳥山で、玩具会社の同僚が花見客と喧嘩になり、円谷が仲裁に入る。相手側に天然色活動写真株式会社(天活)の技師・枝正義郎がいたことから、これが縁で円谷は天活へ入社。枝正に師事して、映画撮影や現像などテクニカルなことを習得。大正10(1921)年、天活は国際活動写真株式会社(国活)となるも、円谷は兵役を理由に退社する。

 兵役を終えた円谷は、夢捨てがたく再度上京、映画界へ復帰。大正15(1926)年には衣笠映画連盟に参加、『狂った一頁』の撮影助手となる。昭和2(1927)年には、松竹のトップスターとなる林長二郎(後の長谷川一夫)のデビュー作『稚児の剣法』(犬塚稔)のキャメラマンとして一本立ちを果たす。

 その後、衣笠映画連盟は解散、円谷は昭和3(1928)年に松竹下賀茂撮影所、昭和7(1932)年には日活太秦撮影所技術部へと移籍。そして昭和8(1933)年に『キング・コング』の特殊撮影に衝撃を受け、「いつか、こうした映画を撮りたい」。特撮への道を猛烈に志向することになる。円谷は『キング・コング』の上映用プリントを入手、一コマずつ徹底分析したほど。また、以前より研究を重ねていた、スクリーンプロセスのテストを日活撮影所で実施、映画の技術革新を常に意識してのことだった。

 ところが円谷は頑固一徹の技術屋で、会社側と撮影技法をめぐる対立を繰り返し、昭和9(1934)年『浅太郎赤城風』(犬塚稔)で、その怒りを爆発させ、退社してしまう。しかし、捨てる神あれば拾う神あり。すぐに東宝の前身J.O.トーキーへ入社、撮影技術研究主任となる。アイデアマンの円谷は、ハリウッド的な撮影手法を取り入れ、録音部とともに大クレーンを開発。早速、J.O.とビクター・レコード製作による音楽映画『百萬人の合唱』(1935年・富岡敦雄)の撮影に活かしている。徳山璉、小林千代子、藤山一郎、市丸といった花形流行歌手の共演を流麗なキャメラで撮影、後の東宝音楽映画の嚆矢となった。

 やがてJ.O.スタジオ撮影部主任となった円谷は、昭和10(1935)年に『かぐや姫』(田中喜次)の撮影を手がける。昭和11(1936)年には、前年に連合艦隊の練習艦・浅間に乗艦して撮影した長編記録映画『行程三万浬 赤道を越えて』(太秦発声)で監督デビューを果たす。続いて『小唄礫 鳥追お市』(1936年)で劇映画を初演出する。そして円谷にとって、大きな転機となるのが、日独合作映画『新しき土』(1937年・アーノルド・ファンク、伊丹万作)への撮影協力だった。本格的なスクリーンプロセスを導入、クライマックスの火山など、後の円谷特撮のヴィジュアルの原点となった。

 この『新しき土』が公開された昭和12(1937)年に、J.O.はP.C.L.と写真科学研究所、東宝映画配給会社と合併し、東宝映画株式会社が誕生。ハリウッドのプロデューサーシステムを導入するなど、日本映画に革新をもたらし、後に『ゴジラ』(1954年)を製作する東宝重役・森岩雄が、円谷を砧撮影所に招聘して特殊技術課を設立。

 それまでの円谷の技術開発へのアプローチが、日本映画初の特撮セクションというかたちで結実するわけだが、当初、課には円谷しか在籍しておらず、ほとんどはスクリーンプロセスなど裏方的な仕事が多かった。
ところが時局は変化、日中戦争が続くなか、昭和14(1939)年の映画法制定により、映画界も戦時協力体制となり、国策遂行の名目で戦意高揚映画の製作が奨励されることとなる。

 こうしたなか本編とは別に特殊撮影スタッフが編成される、東宝独自のスタイルが確立されたのが、海軍省の依頼による『海軍爆撃隊』(1940年・木村荘十二)だった。特殊撮影・圓谷英二のクレジットはここから始まる。奇しくも軍への協力というかたちで、東宝特撮映画時代が幕開けする。ミニチュア飛行機が大空を舞い、不時着シーンなど、実際に撮影が難しいパートでは、円谷が少年時代から培ってきた模型飛行機への造詣、映画撮影で学んだキャメラワークやモンタージュなどが、ここで一気に開花。不可能を可能にする、という円谷イズムによる、日本初の本格的航空映画となり、日本カメラマン協会賞に輝いた。長らく不明とされていたプリントが発見され、2006年にデジタル修正、上映された。

 続く、皇紀2600年記念映画として作られた『燃ゆる大空』(1940年・阿部豊)は、陸軍航空隊の勇壮な活躍を、実機を駆使して撮影した陸軍省後援映画。九七式戦闘機、九七式重爆、九七式軽爆や輸送機、九三式重爆、九一式戦闘機などなどが実機として登場。円谷はさらに迫力を増すために特撮シーンを追撮しているがメインは実機による空中戦となっている。

 ファンタジーに特撮が活かされた最初が、人気コメディアン、エノケン(榎本健一)の『孫悟空 前後篇』(1940年・山本嘉次郎)。勝鬨橋の完成、幻に終わった東京五輪や万国博覧会など、皇紀2600年の晴れがましさを感じさせてくれる、ミュージカル・コメディ大作。孫悟空(エノケン)がキント雲ならぬ単発機に乗って「♪空飛び、土潜り、水をくぐれるのは 自慢じゃないけれど このオイラだけさ」と歌う主題歌のシーンは、円谷特撮の白眉。 エノケンと、“アノネのオッサン”こと高瀬實乘扮する珍妙大王の変身バトルなど、見どころ満載。

 昭和16(1941)年12月8日、太平洋戦争が勃発すると、時局迎合の海軍協力映画製作に拍車がかかる。国民の感心を南方に向けるべく作られた “南方映画”として、西表島を舞台にした『白い壁画』(1942年・千葉泰樹)と、南方資源調査に挑む航空会社のパイロットを描いた『南海の花束』(1942年・阿部豊)が登場する。 

 後者は、風速25メートル(!)の嵐の中、南方に向けて決死の飛行をする双発機の飛行場面や、墜落をミニチュアで劇的に描破。緻密な特撮が、観客のみならず、海軍にも高い評価を得る。

 特技課は大忙しとなり、新派の世話物『小春狂言』(1942年・青柳信雄)でも丁寧なスクリープロセスなどが活かされた。さらに、陸軍の主力戦闘機だった一式戦闘機・隼の開発秘話と、父を墜落事故で失ったパイロット兄弟のドラマを感動的に描く『翼の凱歌』(1942年・山本薩夫)が作られた。実機で登場する隼が、ディティール豊かに描かれており、特撮はそのサポートを果たしている。

 やがて大本営海軍情報部は、東宝に開戦一周年記念映画『ハワイ・マレー沖海戦』(1942年・山本嘉次郎)の製作を命じる。一年前の真珠湾攻撃を映画で再現しようというものだが、円谷は、わずかの資料と証言をもとに、砧撮影所に真珠湾をミニチュアセットで再現、ディティール豊かに真珠湾攻撃をヴィジュアルで描いた。この映像が少年たちの胸を熱くしたのも納得できる。

 昭和18(1943)年には数多くの映画に円谷がクレジットされている。『阿片戦争』(1943年・マキノ正博)でのパノラミックなミニチュアワーク、高峰秀子の教育映画『愛の世界 山猫とみの話』(1943年・青柳信雄)には、後に数々の戦記ものや『世界大戦争』(1961年)を手がける松林宗恵が助監督として参加。翌年、学徒動員で戦地に赴く松林の出征を祝う日章旗には、円谷の“スキー坊や”のサインがあった。 

 音楽映画『音楽大進軍』(1943年・渡辺邦男)は、喜劇人・古川緑波が狂言回しの、オールスター慰問映画。内地公開版には円谷特撮は見受けられないが、戦地用も製作されており発見が期待される。しかし、ロッパこと古川緑波が砧撮影所に紛れ込む場面は当時の貴重な記録でもある。

 ロッパと並ぶ喜劇王・エノケンの幻想時代劇『兵六夢物語』(1943年・青柳信雄)には、江戸風刺読み物「大石兵六夢物語」を子供向けに映画化。妖怪変化が出現するシーンでは、巨大な三つ目入道や、小美人の原型ともいえる怪童女(高峰秀子)が登場、エノケンのリアクションと円谷特撮の共演が楽しい。

 他にも、今井正の戦争活劇『望楼の決死隊』、玉川勝太郎の浪曲に乗せて彰義隊の兄弟を描く『あさぎり軍歌』(石田民三)、二枚目・岡譲二の時局映画『男』(渡辺邦男)、子役俳優総出の『少年漂流記』(矢倉茂雄)などに円谷英二が参加。そうしたなか、八幡製鉄所を舞台に魔の溶鉱炉を克服するために懸命になる技術者たちを感動的に描いた『熱風』(山本薩夫)で、リアルなミニチュアワークが効果的に使われている。

 また、インド独立を描いた活劇『進め独立旗』では久々に衣笠貞之助監督とコンビを組み、『あさぎり軍歌』に続いての浪曲時代劇で広沢虎造をフィーチャーした『浪曲忠臣蔵』(石田民三)などが作られている。

 そして昭和19(1944)年には、フィリピン進駐の日本軍を勇壮に描く『あの旗を撃て』(阿部豊)を手がけた後、戦時中の円谷英二の代表作である二本の戦争映画が登場する。陸軍省後援の『加藤隼戦闘隊』(山本嘉次郎)では、実機の迫力もさることながら、特撮による驚嘆の空爆シーンがある。ミニチュアが次々と爆発するなか、移動マスクで逃げ惑う人々を合成、彼等がまるで巻き込まれているかのようなヴィジュアルが展開。リアクションは特撮の命。この爆撃場面には、格段の特撮技術の進歩が伺える。そして連合艦隊の歴史を描く『怒りの海』(今井正)もまた、ミニチュアによる艦船がイキイキと描かれている。

 もう一本の『雷撃隊出動』(山本嘉次郎)では、九七式艦攻、一式陸攻、零戦が実機で登場、連合艦隊の誇る空母・瑞鶴や鳳翔が実際に登場。ミニチュアの飛行機に搭乗員を合成するといった、大胆な撮影も成功させている。
昭和20(1945)年1月公開の『勝利の日まで』(成瀬巳喜男)は、人気コメディアンと歌手、映画スターをずらりと並べた慰問映画。徳川夢声扮する博士が開発した慰問爆弾を発射する都会のビルのミニチュアは、どこか近未来的。南方に向けて発射された爆弾の中から、スターが次々と出現して得意の芸を披露する。フィルムセンター所蔵の短縮フィルムにある、砂漠に出現する巨大・岸井明の足下のミニチュアセットと小さくなった川田義雄の対比が、実にウルトラマン的。円谷の巨人趣向がここにも見受けられる。

 また、衣笠貞之助のスパイ映画『間諜海の薔薇』、渡辺邦男の『後に続くを信ず』と、空襲の続くなか映画作りは続けられ、本土決戦への覚悟をテーマにした『あめりかようそろ』(山本嘉次郎)の撮影中、8月15日の終戦を迎えた。

 昭和21(1946)年、戦後初の正月映画として作られた『東京五人男』(1945年12月公開・斎藤寅次郎)は、喜劇の神様による復興をテーマにしたナンセンス喜劇。焼け野原の東京が実写で、汽車や家並が特撮、という本末転倒な状況もまた、皮肉だが喜劇的である。見せ場は、ロッパのバラックが洪水で川に流される場面。ミニチュアの家からはロッパが漕ぐオールが出て操舵する。仕掛けの多い斎藤寅次郎のナンセンス喜劇のなかでも、最もレベルの高い特撮場面となった。

 その後、東宝争議の渦中で、思うような仕事はできず、さらに円谷英二は昭和23(1948)年、公職追放の指定を受け、東宝を退社。自宅で「円谷特技研究所」を設立、かつての仲間とともに、邦画各社の特撮を請け負うことに。後の変身人間ものの原点『透明人間現わる』(49・大映)は、この時期の仕事。

 やがて昭和27(1952)年、サンフランシスコ講和条約締結に伴い、円谷の公職追放が解け、東宝に復帰。早速、戦後初のパノラミックな特撮スペクタクル『太平洋の鷲』(1953年・本多猪四郎)に参加。生々しい記憶が残る太平洋戦争を再現するという試みは、各方面の物議をかもしたが、丁寧な本多の演出により大成功をおさめる。続く本多との『さらばラバウル』(1954年)では、アメリカ空軍所蔵のフィルムと円谷による空中戦が巧みに編集され、特撮の神様の復活を強く印象づけた。

 この年、いよいよ円谷英二は宿願を叶え、新たな映像革命に挑むことになる。戦争の再現ではなく、特撮でなくては描けない怪獣を創出する日本映画初の試み「G作品」『キング・コング』の衝撃から21年、円谷英二は54歳となっていた。遅咲きであるが、ここから東宝特撮映画の快進撃が始まるのである!


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