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世帯収入150万円一家② 私と不良少女


*前回はこちら


困りごとの話に戻りまして――。

医療機関とか福祉や教育系のサービスを利用するにあたっては「困ってるんだ!」というアピールをしないと、自分たちの状況に見合ったサポートが受けられないということがあります。なので、方便じゃないですが、困ってるということにしないといけないんですよね。

確かに、よくよく考えてみれば「困っている」には到達できるんですが、そのためには自分の中で「自分自身の率直な感じ方としては困ってるとは言いがたい部分もあるが、一般的な見方をすればこれは十分すぎるほど困っていると言えるはずだ」というような操作が必要になるわけです。

しかしあれですよ、と言ってまたしても話が逸れていきますが――。

エッセイで発達障害がどうとか貧困がどうとか虐待がどうとか書いても、私の場合、いまいち困ってる感が出ないじゃないですか。かわいそう、大変そう、応援してあげたい、って感じにならないじゃないですか。あの人は自分で勝手にやるからいいだろう、みたいな形でスルーされるというか。その辺が読者も増えなけりゃサポートもしてもらえない理由なんでしょうかね。小説を読んでもピンと来ない人が多いようですし。

こういう場面でもアピール力とかコミュニケーション能力が問われるんでしょうね。目的にかなった手段としてのそれが。私の場合、なぜか、どうやっても「またあの変な人が何か変なことを言っている」になってしまうんですね。私は、ASDらしく、自分を客観視することが苦手なので、どうしたらいいのか自分では分からないんですけど。

あるいは、もしかしたらそういうことではなくて、単に私が「文章に書けば何だって実際よりも大袈裟になる」という信条を持っているせいじゃないかという気がしなくもないんですけど、どうなんでしょうか。

おそらく、普通の人は文章に書き表された大袈裟さを、大袈裟さなんて意識することなく、言葉の通り受け止めるというか、それっぽく書かれているだけだという意識自体を持たないのではないかという気がするんですが、私の場合、「それっぽく書けばいいんでしょ」ということをすんなり受け入れられないんですね。

そういえば、ASDの特徴として、自分の言いたいことだけ言って人の話は全然聞かないという形で多弁が出ることがあるそうですが、私は対面では無口な方なので(若い頃ほど)これにはまったく当てはまらないと思ってたんですが、もしかしたら文章を書くときにそれが出ている、ということもなくはないのかもしれません。

私なんか「死にたい」を連呼したって困ってるとは思われないですからね。それどころか「恵まれてるくせにわがまま言うな」とか言ってあしらわれる始末です。「愚痴っぽくて聞いてて不快」とか。私の方ではよく「どうしてあんなたいしたことない不幸が広く応援されたりサポートされたりするのに、自分は一向に支援されないんだろう」と不思議に思ったりもするわけですが、きっと私には分からないコミュニケーションが成立してるんでしょうね、そこでは。

なんにしろ、たとえ少数派の立場から物を言うにしても、基準みたいなものは多数派に置かないとダメなんでしょうね。その上で、「これって大変じゃないですか?」とか「私、気づいちゃいました」とかやる。そうしないと伝わらないということなんでしょう。違う? まぁ自分でも何を言ってるのかよく分からないので違うかもしれません。私は、なんかこう、その辺の当たり前がズレてるんでしょう、きっと。それこそ適応していないというか、自分にだけしか通じない話を独り言のようにして延々と喋っているというか……。「こういうもの(世の中とか社会とか)とはもう金輪際付き合わないようにする」ということを掲げていたくらいなんだから、そりゃズレもするでしょうよというような話かもしれませんが。

あるいは、単に私が何を望んでいるのかが分かりにくいということかもしれません。妻にもそんな風なことを言われたことがありますが、そう言われても「え、何を望むか?」で、私はきょとんとしてしまうというか、一瞬思考が停止してしまいます。考えたことないわ、みたいな。私には目的がないんですね。「例えばそれが書かれたものであるなら、読まれることが望ましい」くらいには思っても、それ以上の具体がないというか。

私には目的がない、か……。言ったり書いたりすることそれ自体が目的になっているというところですかね。

以前、妻とそんな話をしたときに、「こうしてほしいということを明確に言えば、してくれる人はしてくれるのではないか」と御託宣をちょうだいしたことがありますが、それは私にはなんとも抵抗のあるやり方で(それこそ、そのためにはウソをつかなければならなくなるという気がしてしまうので)、私の場合「おかしかったら笑えばいいんじゃないか」くらいのトーンでしか人に期待はかけられないようです(それに、私の妻が自分から何もしなくても人から応援されやすいタイプだということを忘れてはいけません。事実は、単に応援されやすい人とされにくい人がいる、というただそれだけのことかもしれません。要するに見た目ですよね)。

というか、それを言っちゃあおしまいよなんですが、私はできるだけ人と関わりたくないんですね。「書かれたものをどこかの誰かが読む」という関係性はよくても、「読んだ誰かが書いた人である私と直接交流を持とうとする」というのは、こう、つまり、「やめて?」じゃないですが、人と関わるのは消耗するわけじゃないですか。と、そこまで言ってしまうと自分でも「あぁそうか」と思うわけですが、だってASDだもん、ということに私は気づくのでありました。それは簡単にまとめすぎというものですが。

とはいえ、一方で、私はずいぶん長いこと「お前らが作ってる世の中の方こそ間違ってるんだからな」という形で世間一般をやたら敵視してきたので、共感されない(どころかむしろ反発を招きがちになる)のも当然と言えば当然なんでしょう。

私の、いわば反社会的個人としての活動はかれこれ二十年以上にも及ぶわけですが、これまでに「日本にある車を十分の一に減らせ」とか、「一人暮らしの人は電気は15A以上契約できないようにしろ(20Aだったかな)とか、「家から三十分以内で通える会社か学校に行くか、通勤通学に三十分以内の場所に住むかどちらかにしろ(←これは今や自分が破ってますが)とか、「人口を減らせ」とか、「生活レベルを落とせ」とかとかとか……。

そのようなバカみたいなモットーというか大改革案をですね、本気も本気で、誰に向かって言うでもなく路上でわめき散らしたりしてたんですね(いや、単に人に対して普通に言って相手にされなかっただけですが。あとネットでぶつぶつ言ったり。それにしても、私はもとから金のかからない人間なんだな)。

今見てもまともな主張ばかりです、と自分では感じますが、大半の人の目には極端すぎるように映るんでしょう。東日本大震災のときに節電が叫ばれたり代替エネルギーについて議論されたりということがあったと思いますが、個人的には「だからおれがいつも言ってるだろうが」というのでシラケた気分になったりしたもんです。これくらいのことがなきゃ分からないんだな、とか。現在のコロナ禍とそれに伴う自粛生活によっても、生きている間には不可能だと思っていた私の勝手な理想(人もいなけりゃ車もない)が一部現実となった場面を思いがけず見ることができたりして、一人でざまぁみろと思った部分もあったりしたんですね。これで日本でも年寄りがもっとバタバタ――以下自粛。

それはともかく、このような主張を聞いて誰か思い出しませんか。思い出すでしょう? 誰を? そう、スウェーデンの不良少女グレタです。強引ですいません。引き合いに出してすいません。スウェーデンなので不良少女モニカとかかってますが、意味が分からなければいいです。

今まであえて言ったことがありませんでしたが、私はあのハウデアユー少女を見かけるたびに昔の自分を見るような気分になるところがちょっとあったんですね。

上述のように、環境やエネルギーの問題の観点からグレタさんと一部似通っているともとれる主張をしていながら、私は温暖化や代替エネルギーの問題に特に詳しいわけでもないですが(←おいおい)、近い将来の地球環境に危機感を抱き、思いきった対策が必要と考えているのは同じです(思いきり方の程度が同じというか)。

メディアに散々取り沙汰された国連でのあの怒りに満ちたスピーチにしても、自分もそう言いたかったんだよ、同じ口調で、というようなもので分かりすぎるくらい分かるところがあるんですね(私は単に今の世の中が気に入らないから支配的な価値観を一掃したいくらいにしか思ってないところもありますが、もしかしたらそれは一種の照れかもしれないじゃないですか。と自分で言う。私はもしかしたら環境活動家になるべきだったのかもしれません。もうちょっとちゃんと理論武装して)。

グレタさんはアスペルガーであることを公表していますが、その点でもアワピープルという感じがしますよ(2013年刊のアメリカ精神医学会の診断と統計マニュアル「DSM-5」において、アスペルガー症候群・自閉症・広汎性発達障害など従来の自閉性障害が「自閉スペクトラム症(=ASD) 」という名称にまとめられました。が、国や医師によって統合前の名称も診断名として使用されているようです)。

グレタさんは「――私のようなアスペルガーの人間にとって、ほとんどすべてのことが白黒どちらかなのです。私たちは嘘をつくのがあまり上手ではありません――」と言ってますが、このような思考特性や、正直すぎるところ、思い込みが強く融通のきかないところ、潔癖なくらいの正義感といった特徴は、同じくASDである私にも共通するものです。「どこがよ?」と言われても自己申告を信用してもらうしかないんですが、でも、自分にウソがつけないからこそ、「困ってるんです!」とか大袈裟にアピールしていけないというのもあるんですね、多分。

さらに打ち明けますと、このグレタさんが一部の人からものすごく嫌われたり揶揄されたりしているを見たり聞いたりすると、「やっぱりそうなっちゃうようなぁ」というので、私はこっそり自分のことのように心を痛めたりもしていたものです。別に太字にすることはないか。

世の中というところで多数派を生きている人たちは、かなりの割合で、自分たちに否定的(単に異なるというだけでなく明確に否定的)な考え方に対して不寛容かつ耐性もなく、そういう考えの持ち主を見つけると、嫌悪感を露わにしたり強い拒絶反応を示したりするんですね。

まぁ否定的な意見を面と向かって言われれば誰しも面白くはないでしょうが、そういう考え方の持ち主が元から孤立しがちなところへ、多勢に無勢で一方的に心ない言葉を浴びせてきたり、それこそ差別や人格否定をしてきたりすることも珍しくありません。意見の交換をするのではなく。そういうとき、正義は常に多数派の方にあるわけですが、その根拠は「みんながそう言っている」からです。あるいは「それが常識だから」。くそ、楽なもんだぜ。お前らはKKKか。

私自身も「あなたは変」「頭がおかしい」「狂ってる」「人として間違っている」などと言われて、たびたび排斥されてきたものです。私の父親が、ほとんど躍起になって私のことを全否定し続けていたのも、似たような構造からだという気がします(こちらの半自伝的青春ギャグ小説などご参照ください)。そしてしかも、まさに私を排斥してきたようなそういう人たちこそ、時代に乗っかって「多様性」とか言ったりするわけなんですね。

ハウデアユー!

まとまらなくなってきましたが、ここで私が何を言いたいかというと、今後私のことを見るときには、グレタさんのことを肯定的に見てるときのような目で見てほしいと、そういうことです。自分でもよく分かりませんが、そういうことだったんじゃないかという気がします。私は近い将来、我が同胞であるところの発達障害者の人たちからも爪弾きにされそうな予感がしてるので、その保険でしょうか。

発達障害界隈の人たちからは、お前のせいで我々の印象が悪くなるからやめろみたいな風にして仲間外れにされそうな気がするんですよ。されないですかね。というか、同じ診断だからって別に仲間じゃないですかね。私自身が別にそう思ってないですしね。

ときどき思うんですが、SNSなどで発信をされている発達障害界隈の方々を見ていると、なんていうか、みんな真面目なんですよね。もうちょっとギャグを言ったらどうなのかなどと言いたいわけではないんですが、もう少し自分の状況を突き放してみてもいいんじゃないかと思うこともしばしばです。怒る人は怒るかもしれませんが、個人的には発達障害というのは悲劇を生きているというより喜劇を生きているという感覚の方がしっくりきます。喜劇だとしても笑うのは自分じゃないということになりそうですが。


というわけで、次回また年収150万円の件に話を戻します。



いただいたサポートは子供の療育費に充てさせていただきます。あとチェス盤も欲しいので、余裕ができたらそれも買いたいです。