【短編】恥
アンソロジー「BALM」に書いた短編です。
崇文は夕依との待ち合わせ場所に向かう途中でふいに足を止めた。自分のしようとしていることが急にバカらしく思えてきて、呆然と辺りを見回した。こんなことをしてもうまくいくわけがないと今更気がついた。この街を離れて一体どこへ行くのか。二人きりで何を話せばいいのか。有り余る時間で何をすればいいのか。毎食どこで何を食べたらいいのか。何もわからなかった。崇文は黙ってその場から去った。
夕依とはそれきり会うことも連絡を取ることもなかったが、崇文は時間に余裕ができると夕依の家へ向かった。少し離れたところから彼女がどうしているか探るためだ。路上駐車した車の中にいることに飽きると、近くを歩き回ったりコンビニで立ち読みをしたりして界隈で何時間も過ごした。それは当てもなく街を出ていくよりずっと安心できるやり方だった。
たいていは窓越しに姿を確認することもかなわなかったが、まれに夕依が出掛けるところに出くわすことがあった。そうすると崇文はこっそりあとをつけるのだが、行き先はスーパーなど買い出しがほとんどで他に寄り道をすることもなかった。ときどき、酒飲みだという母親や夕依が小学生の頃から手を出しているという義父の姿を見かけることもあった。傍目には普通の人間に見えた。
一度、夕依が普段よりもいくらか着飾った格好で家から出てきたことがあった。知らない男が車で迎えにきて、崇文も車であとをつけた。向かったのは車で二十分ほどのところにある遊園地だった。夕依は以前その遊園地の観覧車が自室の窓から見えると言っていたことがあった。
崇文は離れたところから二人の様子を窺った。夕依が相手の男にはにかんだような表情を見せるとどうしようもない苛立ちを覚えた。男がトイレに行ったとき、崇文はあとから忍び寄って用を足している最中の男の背中をぐいと押した。そして、前を汚した男が文句を言う前に逃げた。夕依と男がメリーゴーラウンドに乗っているとき、崇文は柵の手前まで近づいた。夕依はそこで初めて崇文に気がつき、二人は仄暗い視線をかわした。
その夜、崇文の部屋に夕依がやってきて何も言わないまま服を脱いだ。崇文は欲望をどこにぶつければいいか分からず、焦って夕依に後ろを向かせて自らの手で夕依の背中に射精した。数分寝転がったあと、夕依は黙って帰っていった。崇文の部屋は、崇文が不登校だった中学生のときに両親を椅子で殴りつけたことをきっかけに実家の離れに建てられたプレハブだった。そのとき母親は頭に全治二ヶ月の怪我を負った。
崇文はその後も夕依の監視を続けた。夕依はまもなくそのことに気がついたが、何も言わなかった。崇文もまた離れたところから見る以上のことはしなかった。一緒に遊園地へ行った男の存在はすぐに感じられなくなった。
夕依は季節に一度ほどの頻度で崇文の部屋を訪れるようになった。崇文はその度に夕依に後ろを向かせ、彼女の痩せた背中に射精した。事が済むとみじめな気持ちになったが、互いにそのことについて話すことはなかった。二人とも会うたびに次はないように感じたが、数か月経つとまた同じことが繰り返されるのだった。
あるとき、事のあとに夕依が崇文に自分の親を殺してくれないかともちかけた。母親と義父の両方だった。崇文は代わりに自分の親を殺してくれるかと訊いた。二人とも、分かったともいやだとも言わなかった。
それ以来、夕依が崇文の部屋を訪れることはなくなった。崇文はどうするつもりか考えもないまま何度か夕依の母親を尾行したが、結局何もできなかった。次第に夕依の家に通う間隔も間遠になった。
崇文はショッピングセンターで清掃のアルバイトをしていた。客が出したゴミの中から気に入ったものを見つけて持ち帰るのが、彼のひそかな楽しみだった。ある日、仕事中にゴミ袋の中身を漁っていたところを同僚に見咎められた。それ以来、職場での風当たりが強くなり、まもなく上司から解雇を告げられた。
数週間後、崇文は思いつきで母屋に火をつけようとした。だが、雑誌にライターでつけた火は勢いに欠け、裏の壁を焦がすだけに終わった。焼け跡に親が気がついたことに崇文も気がついたが、互いに触れることはなかった。
崇文は新しいアルバイトをはじめてはすぐにやめ、数週間から数か月無為に過ごすということを繰り返した。
何年か経ったある日、崇文はニュースで夕依が起こした事件のことを知った。夕依は母親と義父を就寝中に刃物で刺し殺したのだという。テレビは彼女がそのまま二人の遺体と数週間一緒に過ごしたと伝えていた。崇文はすぐに夕依の家に向かった。夜の闇の中にたたずむ一軒家は雨戸がすべて締め切られ、玄関には立ち入りを禁じるテープが貼られていた。人の気配のない家の前に佇んでいると、夕依がパトカーで連行されていく姿が目に浮かぶような気がした。
ある休日、崇文はぶらりと立ち寄ったショッピングセンターの駐車場でぽつんと立っている小さな女の子を見つけた。崇文が車に乗るように言うと女の子はおとなしく従った。部屋で一緒に遊ぼうという誘いにも黙ってうなずき、騒ぐことも逃げ出すこともなかった。
崇文はその子に悪戯をすることも、その命を手にかけることも容易いと思った。思ったがやりたいとは思えず、かといって他に何をしたらいいかも分からなかった。ただ持て余しているうちに女の子を衰弱させた。困り果てているところへ警察が押しかけてきた。連行されるとき、遠目に両親の姿が見えて彼らが通報したのだと悟った。崇文はこれで夕依の近くに行けると思ったが、二人が再会することはなかった。
BALMは現在以下の書店で取扱中。BALMは赤盤・青盤の二冊組ですが、この短編は青盤に収録。
いただいたサポートは子供の療育費に充てさせていただきます。あとチェス盤も欲しいので、余裕ができたらそれも買いたいです。