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美学者・伊藤亜紗が考える「偶然の価値」

目が見える人は情報の大半を視覚から得ていると言われます。では、目が見えない人たちは世界をどのように認識しているのでしょうか。

本人ですら、いわく言い難いその感覚を、美学者の伊藤亜紗さんは当事者との対話から探り、自著「目の見えない人は世界をどう見ているのか」で、見るという行為そのものを揺るがしました。

伊藤さんは「雲が流れゆくのを淡々と眺めるように、身体に何が起こるかを淡々と見ていく」と言います。

身体を通じて見えてきた「世界の別の顔」とは。

見えない世界の「見え方」

伊藤: 目の見えない人たちが、どうやって自分の周りの世界を認識しているのか、当事者の方々の話を聞いてきました。わたしは見えている分、「視覚」に縛られているともいえる。そうした束縛から解放されてみたい思いもありました。実際、目の見えない人たちの世界のとらえ方は、想像を超えた面白さがあります。

ある時、先天的に全盲(先天盲)の方とお昼に天ぷら定食を食べたんですね。その時、天ぷら定食をどうやって認識しているのかを聞いてみたのです。見えているわたしと見えない彼が、同じ天ぷら定食を食べている。互いの「食べる」は同じなのか違うのかと思って。

その方は面白いたとえで説明してくれました。天ぷら定食が「パソコンのデスクトップに並んでいるフォルダのような感じだ」というんです。

――天ぷら定食が、パソコンのデスクトップですか。

伊藤:そうなんです。相手の感覚を言葉にしたいばかりにわたしがしつこく問い詰めたからか、そんな風におっしゃっていました。

全盲の人たちは、視覚以外の感覚で自分の周りの世界を把握しています。もっぱら視覚で把握しているわたしとの間で、互いにどうしても分からない部分、通じない部分が出てきます。だからわたしたちの数少ない共通経験である「パソコンを使う」という行為で、説明しようとしてくれたのだと思います。

天ぷら定食は、いくつも料理の皿や鉢が並んでいますよね。

見えていると、物体情報と位置情報が目を通して同時に入ってきます。「『エビの天ぷら』が『皿の上』にある」といった具合に。「『エビの天ぷら』が『どこか』に存在する」「『何か分からないもの』が左側の『皿』の上にある」なんてことは起きない。

一方、その先天盲の方は皿のかたちや位置は把握しているけれど、皿に盛られたてんぷらの具が何かという情報は、最初は把握していないそうです。把握するのはそれぞれの皿に箸をつけたときだけ。この感じを「パソコンで言うところのクリックをすると、《天ぷらです》って出てくる感じかなあ」と話していました。「何」(物体)より「どこ」(位置)の方が、情報としては重要度が高いそうです。

――それぞれ異なる世界にいる者同士が、互いに共通する表現を探しながら、言葉にされてこなかったものを見いだしていく作業ですね。

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伊藤:ある意味無茶ぶりインタビューですよね。天ぷら定食とフォルダの話も、理解するのに50分はかかったと思います。

無意識の行為を言語化するのは本当に難しい作業です。「どうやって想像してますか?」と聞いただけでは「いや....想像してません」で終わってしまいますから。でも、その人ならではの何か、は必ずある。時間をかけて、しつこく探り当てていきます。

そのくらいまでやらないと、相手も、わたしの期待に沿った答えを用意してしまうかもしれない。ありがたいのですが、わたしはその人が意識的に語れることを聞きたいわけではありませんから。 

その人が問われて初めて、「それ、考えてもみなかったな」というところから一緒に言葉を探していくという作業がやっぱり面白いし、そこには「本当」がある感じがします。

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ーー天ぷら定食の話を聞いて、以前本で書かれていた、人とのかかわりあい方についての「情報ベース」と「意味ベース」の対比を思い出しました。

伊藤:「視力」で説明すると、数値化された「0.01の視力」は「情報」です。でも、同じ0.01の視力でも、一人ひとり「意味」が違うわけです。

ここでいう「意味」は、その人の「体験」と言い換えると分かりやすいかもしれません。同じ0.01でも、全体が黄色っぽく見える0.01や、天気によって見え方が違う0.01もあるでしょう。単純に視野が狭いというのもあるだろうし。数字にしてしまうと同じなのですが、実際はそれぞれ異なる体験をしている。

「情報」は対象をコントロールしやすくなりますし、科学は基本「情報」をもとに探究していきます。でも、そもそも「身体」というもの自体、人間がコントロールしきれないものですよね。そういう意味で、様々な人たちから身体の話を聞くことは、自然を見ている感じがするんですよね。空を見上げて雲が流れゆくのを淡々と眺めるように、身体に何が起こるかを淡々と見ていく。

そこに評価を与えた瞬間に、人間の側に引きつけてしまう感じがするので。

特に障害の問題は「可哀想」「支援しなきゃ」という思いが、つい最初に来てしまうことがある。そうした感情より、まずはニュートラルに見ようとしたほうが、相手も自分もラクですし、お互いの「違い」に、興味をもって関われる感じがします。

情報ベースでつきあう限り、見えない人は見える人に対して、どうしたって劣位に立たされてしまいます。そこに生まれるのは、健常者が障害者に教え、助けるというサポートの関係です。福祉的な態度とは、「サポートしなければいけない」という緊張感であり、それがまさに見える人と見えない人の関係を「しばる」のです。もちろんサポートの関係は必要ですが、福祉的な態度だけでは、「与える側」と「受けとる側」という固定された上下関係から出ることができない。それではあまりにもったいないです。(中略)

ここに「意味」ベースの関わりの重要性があります。(中略)意味に関して、見える人と見えない人のあいだに差異はあっても優劣はありません。(中略)見えないからこその意味の生まれ方があるし、ときには見えないという不自由さを逆手にとるような痛快な意味に出会うこともあります。そして、その意味は、見える/見えないに関係なく、言葉でシェアすることができます。そこに生まれるのは、対等で、かつ差異を面白がる世界です。 (『目の見えない人は世界をどう見ているのか 序章 「うちはうち、よそはよそ」という距離感』から抜粋)

いわく言いがたいものを言葉にしていく

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ーーもともと、生物学者を志していたそうですね。なぜ美学に?

伊藤:子どものころ昆虫の世界に魅せられて、虫から見た世界ってどんな感じなんだろうと思っていました。生物学は細分化して見ていく学問なのですが、特にわたしが学生だったころは分子生物学が脚光を浴びていて、DNAを読み解けば生命全体が分かるかのような空気に違和感を抱くようになりました。もっと主観的なもの、分割できないものを、と3年の時、文転して美学の分野に行きました。

美学は、美しさや魅力といった、感覚としては分かるけれども言葉にしにくいもの、つまり「いわく言い難いもの」を言葉にしていく学問です。きっちり情報化できるものとは真逆の領域ともいえます。その美学の観点から、人間の身体の違いに関心を持つようになりました。

わたし自身、小さい頃から吃音でうまく話せないこともあって、自分の中で起こっていることが、自分が発している言葉とは全くかみあっていない感じをずっと抱き続けてきました。「そんな簡単に言葉を信じていいのか?」という思いがあったんですね。

対して、言葉に関するためらいが美学にはある感じがしたんです。だから信じられる、と思ったのだと思います。

キッチンペーパーでラグビーのバーチャルリアリティ

伊藤:いま、東京工業大学のリベラルアーツ研究教育院で学生たちに芸術を教えています。

人間は先入観や常識にとらわれて、自分の発想の幅を狭めてしまっている。何かにとらわれてしまうところからどう解放されるか。それがリベラルアーツなんですね。

例えば、最近よく聞くバーチャルリアリティ(VR)。「最先端技術で仮想世界に行く」というイメージがありますが、もともと「実質的な」という意味で「ハイテク」でなくても使われていた言葉です。

わたしも人文系の人間なりに、ハイテクではない「バーチャルリアリティ」を探っています。

10種目の競技の専門家から話を伺いながら、100円ショップなどで売っている道具でそれぞれの競技の独自の感覚を再現しています。

例えば、ラグビーのスクラム。見ているだけでは団子状態の選手が、なにやらゴチャゴチャやっているだけのようにみえます。でも実際にスクラムを組んでいる間は、顔が下を向いて周りが見えなくなるので、視覚ではなくむしろ触覚が大事になってくるそうです。自分の後ろから仲間がグイグイ押し上げてくるのを触覚的に感じつつ、前の敵と協力しなくてはならない、と。そうしないと力が拮抗しなくなり、組みあった状態が保てなくなるそうです。

この協力しあう感覚を、キッチンペーパーのロールで「翻訳」してみました。細長いロールを2個縦につなげ、両端から2人でグッと押しあうのです。確かに、相手がどっちの向きに押そうとしているのか互いに感じあわないと、うまくバランスが取れません。

この「敵なのに協力しなければいけない感じ」を体感しておくと、観戦でもスクラムの中にいる選手の気持ちや感覚がグッと伝わってくるようになります。

そもそもこの研究は、スポーツを観戦するときにプレーを「目で見て楽しむもの」ということにしてしまっているために、本当は、触覚や聴覚も使っているのに、大事な情報が実はキャッチできてないのではないかーーという問題意識から始まったものです。

「バーチャル」という言葉も、ハイテクな何か、という固定的なイメージから解放されたら、キッチンペーパーもVRのツールになる。そこまで掘り下げられたら、発想の幅がうんと広がります。

社会に向けて工学的な開発をすすめる時、今話したような発想の柔軟さがとても重要で、そういう意味では、発想を活性化させられることが、最もリベラルアーツなのかもしれないですね。

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偶然の価値を伝える

伊藤:美学を研究するわたしが工業大学にいる役割の一つは、学生たちに、「偶然の価値」を知ってもらうことだと思っています。

この大学に着任したときに、「システム」という名のつく学科がたくさんあって、学生たちも枠組みや論理、データが示される話を好むことに驚きました。

例えば誰かが待ち合わせの時間に遅れるのはシステムの問題として考える。3回遅刻したらメンバーから外すといったルールで解決しようとする。「そういう問題をきちんとコントロールできる仕組みを作るべきだ」という考えがあるからなのでしょう。

それと、自分をコントロールできることがよい、という価値観の中で育って自分をコントロールする気持ちよさのようなものを身につけてきている。「今日はゲームしたいけどガマンガマン、勉強する」といったような。それも大事ですが、ゲームも大事だったりしませんか。

そのせいなのか、わたしの芸術の授業で作品を見せて「これどう思う?」と聞いても、思ったことをスッと言えない学生が少なくありません。今思っていることを率直に言葉に出すことを強く警戒し、場の空気を読んで自分の発言をコントロールしようとする。

――「いいことを言わないと」みたいな?

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伊藤:そうです。文脈や教員の表情から「たぶんこういう答えを言ったほうがいい」と。そういうマインドにどうしてもなってしまう。

コントロールは社会をスムーズに回していくために必要ですが、人間関係や組織にガッチリと持ち込まれると苦しいですよね。その人が潜在的に持っている可能性をどんどん消していく方向に行きがちだと思うんです。

対して偶然というのは、隙を持っておくことだと思っています。組織でも、ちょっと隙があると、その人の潜在的な力が発揮されることがある。そういうものが大事なのでは、と思うんです。

それに、この世界では偶然起きてしまうことの方がずっと多い。そもそも人間の身体は偶然の塊ですしね。自分で「この顔がいい」「この性別がいい」と望んだわけではない。その偶然を背負って生きていくのが、身体を持って生きていくということで。

コントロールできないということへの畏れは、どこかで持っておかないと、何でもコントロールできてしまうと勘違いしてしまいます。

こういう授業で、世間的にはとてもメジャーなのに、東工大生にはなぜかものすごく人気のない絵画が存在します。たとえば、1940年代から50年代にかけて活躍した抽象表現主義の画家ジャクソン・ポロックの絵画です。

ポロックは下絵を準備せず、絵の具を跳ね飛ばして描く「ドリッピング」という技法を使いました。その絵を見ると、一部の東工大生はゾワゾワと生理的嫌悪をもよおすようです。でも、嫌悪感というのは教育のチャンスでもある。自分の見方を変えるきっかけになりうるんです。なぜ、ドリッピングの技法を使った絵が嫌いなのか、学生に聞いてみる。すると「再現性がないですよ、この絵。ただの偶然じゃないですか」という意見が多く出てくるんですね。

理系の学問にとってはたしかに、誰がいつどこでやっても同じ結果が出る、ということが一番重要になってくる。科学の「法則」とはそういうものですし、工学の一番の欲望は、「制御」だといってもいいでしょう。ポロックの絵は、出来上がりを制御できない(と学生は感じる)。それが嫌悪感につながっているのかもしれません。(東京工業大学リベラルアーツ研究教育院 News 『芸術作品で偶然の価値を学び“制御第一”の思考から自由になる』より抜粋)

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伊藤:いま学生たちは、新型コロナウイルスの影響で、自分に原因がないのに大きな不利益を被る体験をしています。この体験が、学生たちに計り知れない影響を与えていると思ったできごとがありました。

水俣病の当事者に自身の経験や痛みを語ってもらう必修の授業があります。これまでは学生の反応がかんばしくなかったんです。枠組みと論理、データが好きな学生にとって、個人の感情や思いという、一番苦手なナラティブな語りを聞かされるので。でも、大事だから続けてきました。

それが今年は、とても評判が良かったそうです。学生たちは今、感染症の流行という、どうにもならないもののせいで大きな不利益を被っています。その点公害の被害者と似た経験をしていることで、なにか変化が起こっているようで、すごくいいと思っています。

前に、「6+8が14であることが納得できません」と言ってきた学生がいました。「6も8も、0~9の中では大きい数字なのに、それを足すと『14』という、10~20の中では小さい数になってしまうことが、どうも納得いきません」と。とても不思議な感性だと思いませんか。

こんなこと、たぶん数学の先生には言えないと思うんですよね。でも、わたしならこういう話を聞いてくれるかも、と思ってくれたんでしょう。

理系学生として求められているふるまい方とは別の面もどんどん出していいのだ、という雰囲気を作って、学生のヘンなところを引き出すのも、わたしの大事な役割かな、と。

―― 新型コロナは人と人とのコミュニケーションのあり方を変えつつあります。身体をとりまく状況にも影響がありそうですか。

伊藤:以前なら、オンラインの会議は実際にお会いするよりも「ちょっとよくないから、あまりしないようにしましょう」という感じが強かったと思います。

でも、数ヶ月で一気に価値観が変わって、リモートの状態も「けっこう快適」と受け止められるようになってきた。そんな今、身体の研究をしているわたしは「身体ってなんだっけ?」と、もう1回考え直さなきゃ、と思っています。

固定されたものが壊されていくきっかけは、いっぱいあるんです。

最近は、バーチャルな身体を持っている人に、いろいろ話を聞いています。例えば、自分の体を自由に動かせないけれど、分身ロボットを操縦して仕事をしている人もいるんですよね。そういう人がどういう身体感覚なのか、ということに関心があります。

自分が出あっている問いの答えを、障害がある人と一緒に考えたい、という思いが、相手への興味につながっているのかもしれません。

いとう・あさ 東京工業大学科学技術創成研究院未来の人類研究センター長。同リベラルアーツ研究教育院准教授。専門は美学、現代美術。2010年東京大学大学院博士課程を単位取得退学。同年、博士号を取得(文学)。著書に『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』(水声社)、『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社)、『目の見えないアスリートの身体論』(潮出版)、『どもる体』(医学書院)、『記憶する体』(春秋社)など。 オフィシャルHP

取材・文:錦光山雅子  写真:西田香織  編集:山村哲史

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