SNSあおり運転オジサンとあおられるカモ

某プログラミングスクールの運営者の著作権侵害や、同権侵害にかんする言及内容が注目を集めています。またおなじことを繰りかえすんだなーと遠い目になりそうになったのですが、たしかnoteはそういう場所にしたくない人が運営しているはずで、私はnoteに賛同します。ここに、私の考えを少しまとめておきます。バッと。

申し送り

本稿は、SNSあおり運転を助長したり勧奨したりするものでもなく「そういう手法があって私はこう考えるけど、読者はどう判断する?」と問いかける記事です。ご自身の実行はもっぱらご自身の決裁によっておこなわれます。ぜひ「私ならこう考える」とカウンターいただけると幸いです。

SNSあおり運転とは

人の感情をさかなでするのをいとわず、故意にさかなでして反応を促す情報発信を仮に「SNSあおり運転」と呼びます。

なぜ故意にあおるのか?

結論を申しあげると、自分が利益を得るよう、認知度を向上するための施策を実行するためです。その結論の背景には、とくに広告代理業において、ある特定の中小規模の営利団体の経済規模が、同団体が提供するサービスの倫理性の高さに比例するわけではなさそうだとする考えをもっております(もしその考えが間違っているとする統計がありましたらご指摘ください)。端的には「誠実な手法でなくとも儲かる広告代理業がある」ってことです。

あおり運転のフロー

1.けしからんことを言う
2.反発を呼び、さらなる反発を惹起することを言う
3.反発する人が、反発に同意する人にもしない人にも情報を提供する
4.3が不特定多数の人によって繰り返しおこなわれる
5.けしからんことを言う前より認知度が向上する

1.けしからんことを言う

科学的に実証された事実と異なる意見、倫理(社会通念)にもとる見解、人格攻撃などのモラルハラスメントや違法行為を目にすると、ふつうの人々は反感をおぼえます。おぼえた結果、反感を表現しやすい場所すなわちSNSで「自分の正義」を主張します。
主張する理由が大きく2つあって、一方は、すなおに公正でありたいとする、金銭的な利益を求めない姿勢で、他方は、自分のポジショニングをアピール(し、最終的には金銭的な利益につなげようと)する姿勢です。
具体的には、前者は「許せない!」など感情面の発言をしたり、冷静に論理的に分析したり(するのが好きだから)する、どちらかというと感情ドリブンな感じです。後者は、多数派が考えそうなことを推測し、多数派とは異なる見解を述べ「その視点はなかった!さすがは○○さんだ!」と思われたい感じの、狡猾ドリブンです。

両者はともにSNSあおり運転者の利益に貢献します。

2.反発を呼び、さらなる反発を惹起することを言う

けしからん言動には、さまざまな反応が集まります。SNSあおり運転者は、その反応の中でどれに反論するとさらに騒動が広がるか選択し、着火します。すると、着火されたほうはSNSあおり運転者の思惑どおり、なんやかやとさらに意見を述べます。
ここで重要なのは、SNSを利用する時間は閲覧者によって異なるという事実です。1度めの反応を目にしなかった人も2度めの反応はたまたま見かけるかもしれません。何度も意見を述べることにより、より多くの人の視界に入ると期待できます(SNSあおり運転者が)。

3.反発する人が、反発に同意する人にもしない人にも情報を提供する

ある意見が、例外なく同意だけを集める可能性は低く、たいていは「こういう考え方もあるよね」「もしかしたらこうなんじゃない?」と異論や推察が生じます。勧善懲悪という言葉はその最たる例でしょう。善が悪をこらしめる物語に付随する、悪側の事情を述べたサイドストーリーにこそ魅力を感じる人もいるのではないでしょうか。
つまり、けしからんなにかに対し「けしからん!」と表明しても、その表明を支持する人もいれば支持するかどうか留保する人もいるのです。(おそらくは少数派の)留保した人はどうするか?ある程度は自分の目で事実を確かめたくなるんですね。

4.3が不特定多数の人によって繰り返しおこなわれる

3が繰りかえされると、けしからん情報を認知する母数が増えます。かなりおおざっぱに計算式にすると、

反発する人+反発を留保する人=認知度

です。最初は300+2だったのが、10000+50になるかもしれません。さらには30000+130になるかもしれません。たしかに反発する人のほうが圧倒的に多いのですが、反発を留保する人もどんどん増えていますね。この反発を留保する人こそ、SNSあおり運転者にとっては見込顧客なのです。

5.けしからんことを言う前より認知度が向上する

上述で示したとおり、反発する人が増えれば増えるほど認知度が向上し、同時に見込顧客も増えます。SNSあおり運転者にとっては口からよだれが出るほどおいしい状況です。なぜなら、反発する人を利用すると見込顧客が増えるからです。もっと言うと、見込顧客を増やす(=反発する人を利用する)ことがカンタンに実行できるからです。

某著名YouTuberも言っていましたね。「認知されないのは存在しないのとおなじ」と。言いかえると、アタマおかしいんじゃないのか?と思われてから勝負がはじまるとする考え方です。一定の合理性を認めざるをえないでしょう。

私の姿勢

固有名詞をともなって相手方を特定できる情報は言わない。ただこれだけです。

SNSあおり運転者の中で、アフィカスブロガーを含み、事業収益面で高い実績を残した人は相当数いるでしょう。「事業収益面で高い実績を残」すことが優秀だとする人や組織にとっては、彼らは優秀なんです。

でも私はイヤなんです。なぜイヤか?卑屈さのせいでおかしなことがたくさん起きるからです。卑屈な人をたくさん救う世界は、卑屈さを刺激するだけで卑屈さを解消しない経済によっては成立できないと推察しているからです。自分の弱みで現実と対峙するのではなく、強みで現実と対峙できるように促すことこそ、QOLが向上しあえる世界だろうと考えているからです。

したがって、あおり文句(科学的に実証された事実と異なる意見、倫理(社会通念)にもとる見解、人格攻撃などのモラルハラスメントや違法行為)を見たとき、私は「あおられちゃったら思うツボ」と考えるよう自分を仕向けています。もちろん、たまには激情にかられます。虐待や理不尽な行為などを知ると、ここでは記せない苛烈な言葉が脳裏をよぎります。でも冷静になって、これ拡散してよいものなのかな、と考えると、少しは落ちつくことができます。

広告業により事業収益を獲得するメディアは、営利企業として、公正であることよりも広告効果を上げることを大きな目標とします。公正であれば広告で儲からなくても全然OK、みたいな企業は、取引も給与支払もできず、どんどんつぶれるでしょう。当たり前のことをあえて言うと、営利企業なら売れてナンボですよね。

さいごに

情報発信には、権力が介入しないほうがよいとする考えのほうが圧倒的多数だと思います。ただ、たとえば日本のどこかで、石で何度も打ってフロントガラスが割れた事件が起き、同事件を報道するのを目にしたとき「私がこのニュースを知ってなんになるんだろう?」と疑問がわきました。

反発したりポジショニングをととのえたりして、SNSあおり運転者に加担し貢献するのはそれぞれの決裁でおこなわれますが、それでなにがどうよくなるんだろう?という視点もあってしかるべきでしょう

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