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非行少年に与えられたもの④

中学生の頃に知った社会の暗闇

13歳になり、施設から最も近いA中学校に入学した。
私が通っていた小学校からA中学校に入学した者は学年全体の8%くらいしかいなかったが、すぐに他校の同級生と仲良くなり毎日学校へ行くことが楽しみだった。

反抗期真っ只中で不良に対する憧れがあった私は、入学式の時から校則違反をして先生や上級生に目をつけられていた。A中学校の生徒はみんな真面目で1人だけ浮いていたが、注目を浴びているようで気分がよかった。

仲の良い友達とサッカー部に入部した私は、部活には一生懸命励んでいたが、学校の授業では授業妨害をしてクラスメイトに迷惑をかけていた。
次第にそれがエスカレートして、ある日、席替えの席に私が不満を抱き、教室の壁を殴って穴を開けたことに担任の先生が怒り、声を荒げて私に向かって歩み寄ってきた。その時、クラスメイトの視線が私に集まり、皆に舐められるわけにはいかないと気持ちが昂った私は先生を投げ飛ばした。
そのことがきっかけで、学校側は私が暮らす児童養護施設に私の登校を控えるように相談した。クラスの生徒の保護者からも多くのクレームが集まり、私はしばらくの間学校を休むことになった。学校を休んでいる間は施設のグラウンドで1人でボールを蹴って遊んでいた。
しばらくして、学校には行きたいことを希望すると、2週間だけ別室登校といって生徒と会わずに個室で授業を受ける対応がなされた。別室登校中に問題を起こさなければクラスに戻ることができることになっていた。しかし、その間に学校の帰り道に自転車を盗み、クラスに戻れない日々が続いた。
ようやくクラスに戻っても、万引きや暴力などの問題を起こして別室登校を繰り返した。

施設の生活でも、夜中に施設を抜け出して外を徘徊したり、タバコや飲酒が発覚して外出禁止の処分を頻繁に受けていた。
当時、感情面も荒れていて些細なことで短気を起こしていた。
ある日、施設の職員に外出届(外出する際に必要な書類)にサインをするよう促したが、忙しくしていてサインを書くのを後回しにした先生に対して私は腹を立て、ガラス張りの食器棚を蹴破り足の裏を16針縫ったことがあった。
怒りの感情や衝動を抑えられない気質だった。それに加えて自分がやりたいと思ったことは周りが止めてもやり通す性格でもあった。
怪我で縫った足の抜糸が済んでいない状態でも川に遊びに行き患部をビニール袋で覆ってバイ菌が入らないようにして遊んでいた程だった。

そのような私の異常な行動を施設側は児童相談所へ相談した。
何度か児童福祉司の職員と面談をし、次に問題を起こしたら施設で生活ができなくなると警告を受け、精神科病院に受診を促されることもあった。
警告を受けたにもかかわらず、衝動的に非行を繰り返した私は児童相談所に一時保護された。

一時保護所は、親から虐待を受けた子供や非行少年がその後の生活環境を調整する間、一時的に生活する場所で、私は家庭に問題を抱えた子供たちと一緒に生活した。
入所してすぐに同年代の人と仲良くなった。
1人は中学2年生の金髪の少女で、いつもスウェットの長袖を口元に当ててヤンキー座りをしてニコニコと笑顔を見せる女の子だった。
指には自分で彫った☆や卍マークの入れ墨があり、いつも「あ〜、ぼじりちゃ〜」というのが口癖だった。
「ぼじる」とは”シンナーを吸う”という意味らしく、この時彼女からたくさんの悪い知識を教えてもらった。
私は入れ墨やシンナーを知らなかったこともあり、とても刺激的でワクワクした。
彼女の笑顔はとても優しく、しかしどことなく悲しみがあるような気がした。その予感は当たり、彼女の腕には見たこともない程のリストカット痕があった。彼女は、小学生の頃から父親から性的虐待を受けていたと笑いながら話した。力が抜けるような寂しい笑みだった。それが嫌で引きこもりになり、リストカットやシンナーにハマったと打ち明け、彼女は援助交際が発覚して一時保護されたことも明かした。

当時、私は社会のそのような出来事に関して無知だったため、彼女の話はあまりにも非現実的な内容で衝撃を受けた。心臓を掴まれたように胸が痛くなった。

彼女の他にも、中学3年生の坊主頭で耳たぶに大きな穴が空いているのが特徴的な痩せた非行少年がいた。彼は物静かな性格で、話しかけても一言しか返さないような人見知りだった。しかし笑顔が優しく、みんなから人気だった。彼もシンナーや入れ墨の経験があり、家庭環境を聞くと母子家庭で貧乏で、遊びたくて家出を繰り返して一時保護されたと明かした。あまり深く踏み込まなかったが、友達と悪さをしたりして遊びまわることで憂さ晴らしをして現実から逃避していたのかもしれない。非行をすることで得られる刺激が、寂しさや不満を忘れさせていたのかもしれない。

他にも、一時保護所には事件被害者側の少年も入所していた。
地元の先輩に万引きを強要され、断ったために頭からオイルをかけられ火をつけられたようだ。その事件はニュースにも大きく取り上げられていた。被害者の子は自身も悪さを繰り返して人を傷つけてきた身でもあり、被害に遭ったことに対しては深刻に考えておらず、ケロッとして明るく振る舞う様子に驚いた。地元に帰ると危険を被るため、一時保護されたと明かした。

一時保護所で出会った仲間達はみんな優しさを持っていた。みんなそれぞれに満たされない感情があり、穴を埋めるために発散する方法が非行だったのだと思う。
私もそうだと思う。自身の置かれた環境に不満を抱き、さまざまな事で周りと比較されるのが嫌で、でも自ら比較して劣等感を抱き、非行に走ることで競争から逃げて、周りと違うレールを進んで、自らの存在を特別であるかのように錯覚していた。置かれた環境に我慢して周囲と同じように真面目にしていると、他者と比較する軸が同じになり、それには耐えきれなかった。お金があれば塾に行って勉強ができる。一般家庭で育てば施設のような制限が少なく、楽しく暮らせそう。そのような、ありとあらゆる比較軸を取っ払う手段が「非行」だった。
非行を美化する気は全くない。
非行は人を傷つけ、大切な人を裏切り、悲しませ、不幸にする。
いつしか同年代の人たちから取り残され、将来の選択肢を狭め、年齢を重ねるに連れて軌道修正が効かなくなる。非行をする過程で培ったアイデンティティを崩せば、自身の存在価値を失う気がして変わることができなくなる。真面目に生きている人を否定したくなる。
気がついた頃には社会で孤立して生きづらくなる。
非行は不幸の連鎖を生む。だからこそ、非行の入り口に立つ若者に関わる大人に伝えたい。

「彼らの渇いた心をあなたの愛で満たして欲しい」と。

約1ヶ月間、一時保護所で生活し、その後私は育った施設に戻ることができた。
児相の職員から更生を促されたが、私は全くその意思がなくむしろ悪い知識を多く吸収したことで、教えてもらったことを試してみたい気持ちの方が強かった。
施設に戻った私は、さっそく自身の手に入れ墨を彫った。
更に非行がエスカレートして2度目の一時保護となった。
当時、一時保護するには本人の同意が必要であり、私は一時保護を拒否していた。もし、保護を受け入れた場合、施設に帰ることができなくなるからだ。空腹に耐え、何時間も児相の職員から説得されたが、「児童自立支援施設で真面目に1年間生活すれば施設に帰れる」と児相の職員と約束を交わし、一時保護を承諾した。

そして13歳の冬、それまで暮らした児童養護施設を離れることとなった。

児童自立支援施設とは、非行をした児童や家庭環境に問題を抱える児童が生活する施設で、自由に遊んだり、外出ができず制限が多い生活環境である。

次の記事では、児童自立支援施設(学園)での生活について書きます。
学園での経験は今の私の生き方に大きな影響を与えるような物語が詰まっているので、時間をかけて筆を進めたいと思います。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


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