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流れゆく途中

 難聴のこと

元々の聴力が回復しつつある。補聴器なしで人と会話する事が可能な時がある。波がある。30dBくらいなのではないか?左耳につけていた高度難聴用補聴器を装用すると、騒音で痛むかと危ぶむ。難聴だったことは変わらない、元の発達障害ー脳の聴く・話す回路に故障があるタイプであることも変わらないのだが、店員さんとやり取りする時に、「聞こえている」自分に違和感を感じる。これって自分だったっけ。「がんばって聞き取っている」自分が損なわれていく。

 パートナーのこと

愛着障害を重ね着した状態だった。1年半以上密に私が愛着基地となって、病院や公的機関以外の助けを得て自他境界を構築した。精神的に弱い所はまだ3,4歳の子供。もうそろそろ大人になってもいいんじゃないか。暮らす事を考えていいんじゃないか。普通の母子関係もそうなんだろうが、母親が子供に自分を捧げる。私自身、私でいさせてもらえなかった。育児で心身共にくたびれきっている。とnoteに投稿できるくらいに回復した。

 性自認

性別欄を戸籍上性・女 にすることに躊躇いはないが、幼い頃から男性的な服装を好み、思考・興味を持っていたのを、「母親の機嫌を取るために・大きなヒトの理想であるふつうの女を演じなくてはならない」と強烈に抑圧してきた。母親の支配下にあるうちは「学者的である・高慢な女性を保っていた」?家庭内学校内の自己否定の嵐で何がしかにしがみついていたのだろうか。今もその片鱗がある。女性的なパートナーに属している今は、元来の着たい物を着て、したい行動をする事で解き放たれるのではないかと思っている。

そもそも3つとも明確な定義がなく、定義するものでもなく、何かにキチッと当てはめなければいけない事ではない。流動的でいい、人と交差することで移ろっていいのだが、子供時代の「私」が今でも少し怯えるのだ。人の機縁を取らなければいけないと思ってしまう。治る、収まることからもまだまだ途上なのだろう。

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