人工世界・言語考#002 創作の個別性と集団性についての独自見解

知らない人がほとんどかと思いますが、ツイッターには「人工言語界隈」なるものが存在します。読んで字のごとく人工言語を作っている人/人工言語に興味を持っている人のゆるい集まりですが、それぞれが取り組んでいるもの、取り組む方法は多種多様です。

その中で、最近「界隈」というものに対する考え方や創作についての思想で議論が起こっていたので、その流れで僕がしばらくの間考えてきたことをまとめてみようかと思います。なおこの記事は人工言語界隈の外側の人にも向けて書いています。

前置きとして述べておきますが、この記事は創作者としてどうあるべきかとか、界隈はこうあるべきだというような意見を提示するものではなくて、僕がどのような理由でどのようなスタンスを取っているかを説明したものです。先に言っておきますが僕は界隈そのものの動向に非常に疎いですし、セレン・アルバザード氏(という人がいるのですが)等を取り巻く諸々の経緯も最低限しか理解していないので、そのような情報やある種の指針を求めている人の力にはなれないかもしれません。

僕はいわゆる「界隈」というものと距離をとって過ごしてきましたし、これからもそうあるつもりです。界隈の動向に疎いのはそういう理由もあります。それがなぜかといえば、創作の個別性/集団性とでも呼べるような側面において、この「界隈」に自分が属することのある種の危うさを感じるからです。

僕は日本の人工言語界隈を、世界における人工言語作者たちの中でのほんの一握りが属するとても狭い界隈として捉えています。どちらかというと僕は海外のRedditなどでの人工言語作者らのコミュニティの方を見ているので、それに比べると単純に人数が少なく、したがって割とみんなお互いのことをなんとなく知っているような状況に見えます(海外の方は人数が多すぎて対人関係は希薄です)。ツイッターでも海外のコミュニティは存在しますが、やはり絶対数は多いと思いますし、興味深いことにLGBTQ+の人々のコミュニティと微妙にかぶるところもあるようです。

その中で、界隈としての流れに極力関与することなく傍観してきての印象としては、日本の人工言語界隈は、海外のそれにくらべて、ある種派閥のようなものを形成しやすく、また人工言語制作の背景にある思想についての議論もよくなされていると感じています。おそらくこれは、界隈への参与者が限られていて、お互い何をやっているか見えやすいということもあると思います。また、ツイッターでは定期的に荒れている印象です。

僕が界隈に身を置かないようにしているのは、界隈という、自己より大きいものへの所属を意識すると、自分の作るものに影響が出るだろうと思うからです。小さな界隈に属することは、それは内部の人間関係に参与することも意味するわけで、そうなれば思想の形成や創作自体において界隈への忖度が発生したり、無用なトラブルに巻き込まれて精神をすり減らすリスクも高まります。

僕がそのような考えを持っているのは高校時代に得た教訓も関係しています。というのは、高校時代に創作をしている人たち(多くは学校におけるメインストリームから外れている人たちで、僕もその1人でしたが)のグループのようなものに身を置いていたとき、そのグループの中で是とされる考え方(主にその中心人物だと僕が認識していた1人の生徒の考え方)にある種「毒されていた」と言える時期もあったからで、後から振り返るとその時期の僕の創作は、今の僕のスタンダードから見るとはるかに見劣りのするものでした。その考え方が良いものであったにせよそうでなかったにせよ、それとは関係ない次元で、僕の創作のスタイルにその考え方は合わなかったのです。のちにそのグループの中心人物とは決裂し、今でも繋がりがあるのはグループの中の1人か2人です(もともと人数がそんなに多いわけではなかったのですが……)。

だから、他者の考えを知ってそれを糧に自分の考えを形成することは必要なことではありますが、界隈という、(希薄ではあれ)人間関係を伴った集団の中に身を置いて活動するのは、それとはわけが違います。

高校以来僕が信条としているのは、僕自身の創作物は、つまるところ、僕自身にしか立ち入ることの許されない神聖な領域であって、したがって創作をするプロセスは、どんなに信頼を置いている人でも容易には参与できない、ひたすらに孤独なものであるということです。僕は他の創作者との意見交換はしたいと思いますし、批判を受け入れないという意味ではありません(それとは別の話です)。そうではなくて、それが緩かろうと、繋がりが希薄であろうと、なんらかの集団への帰属を意識している状態では僕のやりたいことはできないと感じるわけです。

僕にとって、創作と学問は密接に関連しながらも根本的に異なるものです。創作は、ある種学問のリバースエンジニアリングだと思っていて、学問、ないしもっと広く世界に対する観察をクリエイティヴィティに還元することだと考えていますし、逆に表象文化論などの一部の学問は創作物を分解し、分析し、その表面に現れたもの以外のものを読み取ろうとします。だから僕からすれば、人工言語創作において界隈が形成され、さらにその中で考え方の系統や派閥のようなものが形成されているのを見ると、その集団性に巻き取られてしまうことへの一種の不安感を覚えるのです。人工言語創作は僕にとっては学問ではなく、人工言語界隈のなかのいずれかの「学派」(に相当するもの)に属する気もなければ、人工言語界隈における風潮を意識する気もないからです。僕は2009年に小説を書き始め、2012年くらいから本格的に言語を作り始めて、ツイッターの「界隈」の存在を知ったのは早くて2016年です。僕は界隈と関わらなくても創作はできるし、言語学は独自に大学・大学院で学んでいけばいいと思っています。創作の背景に置くべき哲学も、自分なりに勉強して形成していけばいいと思います。

僕にとって海外のコミュニティに属する上で抵抗感が少ないのは、先述の通りあまりに人数が多く、多くの場合個々の人間が何らのサブグループも形成せずに好き放題やっているからです(作り方も作り込みのレベルも本当にまちまちで、そもそも人工言語の定義もばらばらで、誰もそれを気にする様子もありません)。一種のコミュニティではあれ、メンバーの固定されたグループだという感じがしないということだと思います。

創作とは関係ない文脈で、界隈に属している人と個人的なつながりを持つことならしたいと思っています。別に界隈人だとこちらが思ったからといってツイッターのFFを解除したりするわけでもありませんし、まして界隈に属している人を貶したり、界隈そのものの存在を否定しているわけでももちろんありません。ただ、界隈の動向を意識はしませんし、界隈がこうあるべきというような意見を持つわけでもありませんし、自分が世に送り出した創作物が界隈の人から見てどうかというようなこともいちいち気にしないようにしています。

それから、僕は集団での創作には基本的に関与しません。第一に僕は人工世界フィラクスナーレの創作をライフワークとみなし、その進展に関係のない仕事は(それを通じて自分のスキルを上げるなどのことができない限り)受けないようにしているのと、第二にクリエイティヴプロセスに人間関係が絡むと経験上ろくなことがないからです。余程信頼の置ける人だったら一緒に創作することもできるかと思いますが、僕が信頼を置く人間は、創作者に限らなくてもそもそも少ないです。

というわけで、数年間言語化しようとしていた集団性に対する拒絶感をようやく文章にしてみました。繰り返しになりますが、界隈の人や、その中でサブグループを形成している人に対する悪感情がるわけでも、界隈がなくなればいいと思っているわけでもありません。ただ、界隈というある種の「場」が持っている非人称の圧力のようなものには抵抗したいと思いますし、僕の活動の個別性は保持していきたいと思います。

つづく。

いつか。

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