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腐敗したプラットフォーム問題

 アメリカで白人警官が黒人男性を過失死させたことから警察への抗議運動が始まり、すぐにそれは略奪を伴った暴動となった。
単に僕が呑気だったからだろうが、まさか2020年のアメリカでこんな状況が立ち現れてくるとは思っていなかった。
結局自分はアメリカの事なんて何も知らなかったのだと思い知らされる
(一応英文科卒なんだが・・・)。

プラットフォームが腐っている

 社会のプラットフォームがある程度健全であれば、暴力によらない平和的手段で問題の解決を図ることができるが、プラットフォームが腐りきっていれば(機能していなければ)、あらゆる平和的手段は腐敗した既得権益構造によりあっけなく潰されてしまう。
であるならば、腐ったプラットフォームから一旦脱出し外側からそれを破壊するか、あるいは内側に留まったまま破壊しきり、返り血を浴びた手で新たなプラットフォームを作っていくほかない、という主義にはそれなりの妥当性があるように思う。
少なくとも、暴力によって彩られた世界の歴史はその根拠を下支えしている。
常にそこには被害者が存在しており、新たな抑圧の種を土壌にまき散らすゆえ、当然のことながらとても手放しに賛美できるものではないのだが。

暴動とMeToo運動の共通点

 そんなことをアメリカのニュース記事を読みながら考えていたのだが、今アメリカで起きている暴動と、たとえばMeToo運動なんかは根本的に共通した特徴を持っているな、とふと思った。
両社とも、「前提となるプラットフォームが腐敗し機能していない」・「法に基づかない手段により社会の前進を目指す」という点で共通しているのだ。

黒人差別が存在しない、あるいは差別が公正かつ正当に裁かれる社会であれば、今回のような激しい暴力・略奪を伴った抗議運動は起きないだろうし、
性的搾取が存在しない、あるいは性差や地位を利用したあらゆるハラスメントが法の下で公正かつ正当に裁かれる社会であれば、性被害に遭った女性が週刊誌や自身のSNSで告発しなくてすむだろう。

彼ら・彼女らは、自身が普段から受けている理不尽や抑圧に対して、やむを得ず法の根拠に基づかない反撃に打って出る。
他に手段がない(少なくとも、そう思わないではいられない社会だ)からだ。
しかし目的はあくまで平和な世界の実現であり、暴動やMeTooが存続し続ける社会を理想としているわけではない(はずだ)。

(あくまで上記の二点において共通している、ということであって、何も性加害者を告発する行為を無実の人々からの略奪と同一だと言っているわけではない。暴動とMeToo運動とでは社会に与える影響の質・規模共にかなり異なる。念のため)

正義と法の対立

 正義と法は時に対立する。
法が法として存在するだけではマイノリティの権利は守られない。
法を行使する人間(主に権力)は万能ではあり得ず、ゆえに方も完全ではあり得ないからだ。
法が全ての問題に対応でき、あらゆる人々に幸福を約束できるのであれば、もはや人間はこの世界に必要なく、法体系を全てインストールされたコンピューターが社会を統治すれば事は足りる。
少なくとも現状はそうなっていないしなりそうにもない。
そして法の枠組みの中でお行儀よくデモをしたところで、プラットフォームが機能不全に陥った社会では既得権益層は揺るがず、弱者の陳情にはろくに耳を貸さない。
つまり、真に正義を信じそれを実行しようとするならば、時には法の外側に出ることが必要となる場合がある。

しかし、結果として暴動は町を破壊し多くの人々の平和な生活を奪いうるし、MeToo運動は時に加害者へのリンチを引き起こし社会的に抹殺してしまう。
社会変革のためにどこまで社会を破壊してもいいのか?
女性の権利を守るためにどこまで加害男性を法によらない形で裁いてもいいのか?
どうしたってこの素朴な疑問から逃げられない。

正義の基準

 要するに、正義を貫くにしても程度が問題になるということだろう。
人種差別や性差別・性的搾取の解消という目的はまさに正義と呼ぶにふさわしいと僕は考えるが、正義がその正義性ゆえにあらゆる法を超えた行いを正当化されるかと言うと、当然そんなことはない。
社会を維持していくために、どこかで歯止めが必要となる。

そこで生じる問題は、正義が行き過ぎていないかどうかを図るのに統一的かつ絶対的な尺度などはこの社会には存在せず、正義運動に参加する個々人によってそれはまるで異なるという点だ。
僕は、たとえ黒人を殺害した警官相手であろうと拷問して殺害することは行き過ぎだと考えるし、セクハラした男性が釈明することすら禁じられ社会からは抹殺され、再起する可能性を全く残されないとしたらそれは行き過ぎだと考える。
しかし他の人はまた違った基準を持っているだろうし、僕もその人も正義のこととなれば安易に妥協しないだろう。
もちろん僕自身、実際にそうした場面に自分が運動の当事者として立ち会った場合、正義にまつわる観念が大きく揺らぐ可能性もある。

0と1の間で議論したい

 どれだけ考えてみても、アメリカの暴動やMeToo運動に対しては「いいとか悪いとか一概に言えない」と、答えになっていない答えしか出すことができない。
それに、アメリカの暴動にしろMeToo運動にしろ、もはやそれは単純な善悪で語れない次元の問題も孕んでいるし、それはほとんど哲学が扱うような領域だろう。
社会科学的な論理で最終的な答えを出そうとすること自体、無謀かつあまり意味がないのではないか(検討する一つの手段としては必要だ)。

「うーんよく分からないんだよね」みたいな結論になってしまったが、上に書いたようなことを延々と昨日から考えていた。
思うに、僕たちはもっとこういう簡単に答えの出ない問題に取り組むべきではないか。
日本では町を破壊するような抗議運動は基本的に起こらないし、セクハラを告発した被害者がむしろ叩かれるケースが散見される。
「正当な手段(法に基づく手段)で訴えるべきだ」という意見はもっともであるけれど、この世界にはそんなごもっともな正論では解決できない問題というのも確かに存在しているのだ。

僕たちは抽象的な概念を発明し、それを見ることができる(比喩として)し、抽象の世界を道具としてここまで高度な社会を発展させてきた。
そんな我々が、世界が直面する(これまでも直面してきた)、現実に人々が痛みを覚えている問題について、善か悪か、0か1かみたいな議論しかできないのだとしたら、それはとても哀しいことではないか。
暴動やMeToo運動について、安易に全否定することなく、また全肯定することもない、本質的な議論が日本でももっと起きてほしい。
僕はそんな議論には積極的に加わりたい。

こんな思いを込めて、このnoteを書いた。
読んでくれた方には伝われば幸いだ。

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