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大河「いだてん」の分析【第41話】 代々木にこだわる理由は“夢の原点 ロサンゼルスの記憶”

大河ドラマいだてんの全話の感想ブログです。
第41話は1960年前後。選手村、競技種目、競技場、公式映画、交通網、聖火リレー、等々。まもなくはじまる東京オリンピックの準備に奔走する。

〜あらすじ 第41話「おれについてこい!」〜
平沢和重(星野 源)の名スピーチで1964年の東京オリンピックが開催決定。田畑(阿部サダヲ)を事務総長に組織委員会が発足する。顧問として大物政治家の川島正次郎(浅野忠信)が参加。川島は東 龍太郎(松重 豊)が当選した都知事選で田畑と対立した因縁があった。メダルを獲れる競技を正式種目に取り入れようと考えた田畑は、河西昌枝(安藤サクラ)キャプテンが率いる大阪の女子バレーボールチームに注目する。


1、夢の原点、1932年ロサンゼルスの教え

1960年。国を挙げての東京オリンピックの準備は着実に進むが、田畑は選手村に納得していない。朝霞に決まったが、田畑はまだ代々木にこだわっている。

「なぜそこまで代々木にこだわるんです?」
平沢和重にそう質問されて、田畑は選手村の重要性の持論を語る。
書き起こそう。

選手村はスタジアムの興奮が冷めない距離でないとだめなんだ。ロスは最高だった。
さっきまで戦ってた選手同士が芝生に寝っ転がって、レコードかけて踊って、オレンジ食い過ぎて腹壊して、嘉納さんに白人がぶん投げられて。
みんなヘラヘラ笑ってたよ。カオスだよ。

選手の記憶に刻まれるのは選手村で過ごした時間なんだ。

共産主義、資本主義、先進国、途上国、黒人、白人、黄色人種。
ぐちゃぐちゃに混ざり合ってさ、純粋にスポーツだけで勝負するんだ。
終わったら選手村でたたえ合うんだよ!
そういうオリンピックを東京でやりたい。

名もなき予選で敗退する選手ですら、生涯自慢できる大会にしたい。

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この思想の背景には、若き田畑自身の1932年ロサンゼルスオリンピックの記憶がある。
いだてんでいうと第29回がそれに当たる象徴的な回だ。
当ブログの文章から振り返ろう。

田畑にとってロサンゼルスオリンピックは、初めて自分自身も現地入りを体験できたオリンピックとなった。若くして日本水泳チームの総監督としての参加。初めてのオリンピック、そして初めてのアメリカに、田畑は興奮する。

このオリンピックから初めて“選手村”がつくられるようになる。広く広大で美しい選手村に、練習会場。カルフォルニアの過ごしやすい気候と、自由でカジュアルな風土。そこで繰り広げられる各国選手団との異文化交流や、切磋琢磨する練習風景に、田畑は魅了される。

田畑にとってロサンゼルスは“夢の原点”になったのだと思う。
田畑にとって、この1932年のオリンピックが“忘れられない大会”となったことが想像できる。
「あのオリンピックをもう一度」と思い描く時の原点が、ロサンゼルスなのではないか。
田畑が自国開催の東京オリンピックを経験するのは、結果的には65歳。30年後。
“日本国民に再び、笑顔と希望と明るさを。”
1932年の成功体験が、のちに田畑たちの東京オリンピック誘致の原動力へと育っていく。


そして、ついに、その思いが結実する時がきた。
1932年には黒人や移民の人種差別もみてきた。スポーツがそれを乗り越えていくのも見た。
30年、ずっと考えてきた事だから、あれもこれも、やりたい事だらけだ。


2、代々木の米軍住居地区「ワシントンハイツ」について

さて、田畑がこだわった「代々木」の土地について、触れておこう。

代々木には戦後から1964年まで、およそ20年ほど米軍占領住宅区域「ワシントンハイツ」があった。

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日本オリンピック協会サイトのコラムに、その経緯が書かれていたので引用する。

代々木選手村は、当時在日アメリカ軍の居住用宿舎が建てられていた地域で、ワシントンハイツと呼ばれていた。当初は選手村の候補地として、埼玉県朝霞に駐屯するアメリカ軍・キャンプドレイクの南側地域も考えられていた。 しかしワシントンハイツ、キャンプドレイクのいずれに選手村が開村されるにしろ、アメリカとの土地の返還交渉という難題が待ち構えていた。
返還交渉の中でアメリカが提示してきた諸条件は、キャンプドレイクについて、全面返還には応じられないが、オリンピック開催期間中の一時使用は認める。しかし大会の終了後は即刻アメリカに引き渡す。
 またワシントンハイツについては全面返還を認めるが、移転費用については日本が全面的に負担する。 というものだった。

もともとはどちらの土地も大日本帝国の軍用地で、それが接収されて米軍基地になったエリアだ。
連合国による日本占領期間は実質1952年までだが、アメリカにとって、朝鮮戦争やベトナム戦争など対アジアの拠点として日本の地政学的な位置は重要な役割を果たし、米軍基地は今もいくつか残る。

そんな重要なワシントンハイツをなぜアメリカは手放す判断をしたのだろう。
下記ブログの説明がわかりやすかったので引用する。

突然、アメリカ側が「ワシントンハイツを全面返還したい」と言って来た。(中略)
背景には、前年に盛り上がった日米安保闘争があった。60年安保の担い手は戦争を知っている世代が中心だった。岸信介総理が新安保条約締結を機にまた戦争を始めるのではないか。若者を中心に反政府感情が高ぶった。そんな機運の中、東京の中心にワシントンハイツがあるのは危険だ。反米感情を強めかねない。アメリカはそう判断したのだった。
かくして、ワシントンハイツは全面返還された。明治神宮の鳥居から山手通りへ向かう道路が日本人に開放されたのはこの時が初めて。

田畑が、テレビのニュースの安保報道を見ながら、「オリンピック全然盛り上がってないじゃんね、安保安保ばっかり」と嘆くシーンがあったが、皮肉な事に、この安保運動があったからこそ代々木返還が実現したわけだ。

約20年も都心近くにあったワシントンハイツは、原宿・表参道というエリアへの文化的貢献面もある。
自分のツイッターから引用するが、
ここでアメリカ文化に浸ったジャニー喜多川がジャニーズを立ち上げたり、


表参道通りのキディランドやオリエンタルバザーといった外国人向け店舗が華やかに人々を集客したりもした。

(おわり)
※他の回の感想や分析はこちら↓


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