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大河「いだてん」の分析【第44話の感想】 やり遂げきれずに舞台を降りる主人公たちの“最後のあがき”

いだてん全話の感想ブログです。今回は第44話『ぼくたちの失敗』についてまとめます。
田畑政治や金栗四三は、なにを失敗したのか?

〜あらすじ〜
1962年アジア大会。開催国インドネシアが台湾とイスラエルの参加を拒んだことが国際問題に発展。ボイコットする国も出る中、田畑(阿部サダヲ)率いる日本選手団は参加を強行、帰国後に猛烈なバッシングを浴びる。川島(浅野忠信)は田畑の事務総長解任に動く。脳出血で半身まひを患った志ん生(ビートたけし)は高座復帰を目指しリハビリに励む。五りん(神木隆之介)との落語二人会を企画し、それを目標とするのだが──。

1、田畑の辞任会見の一字一句

少し前に、脚本の宮藤官九郎が週刊文春の自分の連載コラムで「時代が昭和になってくると、会議とか会見で発した言葉についてはもう議事録として一字一句残っているので」と書いていた。つまり今回の田畑の辞任会見ももちろん一字一句史実がベースだろう。そうなると本来“史実にしばられて”物語がうまく運べなくなるというようなことも起こりそうなものだが、ここがまた“事実は小説よりも奇なり”といった感じで、田畑は公の場で「辞めたくない。続けたいんだ。」と未練がましくめそめそ泣きながら訴えるのだった。隣でしゃべる上司の言葉をさえぎって、マイクを奪ってまで。すごい記者会見だ。現実だったら気が狂ってる。現実なのだが。
しかしドラマをずっと観てきたぼくらは、そのめちゃくちゃな会見を見ながら泣く。泣ける。この日までの田畑の長年の執着と努力を知っているから、共感できてしまう。もしその歴史を視聴者として見届けていなければ、我々も志ん生宅の今松みたいに「なんだコイツ、頭おかしいのか、辞めさせろよ」とかお菓子を食べながら気軽に突っ込んだりするんだろうな。そう、今松は正しい。まーちゃんは、めちゃくちゃなのだ。

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思い込んだら一直線で、がむしゃらで、情熱的。声がでかくて饒舌で、猪突猛進で、破天荒。だけどみんなが慕って集まってきて支えてくれる。それは田畑が他の人じゃやれないことをやるし、人が手を出さない夢をみるからだ。めちゃくちゃなんだけど、キュートな魅力があって、いつも輪の中心にいる人だった。会議場から連れ出されるシーンも悲しかった。

2、メディアの歴史と、いだてんの歴史

事の発端は、1962年インドネシアでのアジア競技大会の「ボイコットの是非」だったのだが、世間のバッシングは途中から、実はその本題はあまり重要でなくなっていったのだろうと推察できる。
途中から、バッシングの矛先は「田畑政治個人」に向けられていくのである。
このシーン、大河いだてんが陰ながらにこれまで描いてきた“マスコミの歴史”というテーマにとって重要な場面だと僕は思うのでとりあげておく。

長らくの間、国民に広く情報を行き渡らせる方法は「新聞」しかなかった。金栗四三が1912年に初めてオリンピックに出た日なんて、試合当日に、何も大会経過は見れはしないくせに応援会の酒席がひらかれはするものの、勝敗結果が届くのは数日後の「新聞」を待つしか手はなかった。そして第二の主人公田畑は、1924年、まさにその新聞に就職をする。当ブログの24話の分析で「いだてんと新聞の関係性」をまとめているのでリンクする。

次が「ラジオ」だ。1923年の震災後にはラジオが育ち始め、日本中には街頭ラジオが普及し、1932年ロサンゼルスオリンピックの放送では“実感放送”が実践され、そして1945年終戦日にも玉音放送は「ラジオ」を通じて国民に伝えられる。
「ラジオといだてんの歴史」については下記、第30話でまとめている。

そして「テレビ」。初めてオリンピックに「テレビ」がテストされたのは1936年、ヒトラー政権下のベルリンであった。日本でテレビの放送が始まるのは戦後、1953年の事である。

“ラジオの持つ速報性”と“新聞の持つビジュアル性”との両方の特徴を併せ持つメディア、すなわち「テレビ放送」が民間に広がっていくのは、ここからまだ20年先、1953年、NHKがテレビジョン放送を開始してからである。

新聞を知り尽くした田畑政治が、テレビに映り、バッシングされる。田畑は前時代の人なのだ。一番違うのは「再現性と速報性が高く、撮影したそのままが情報化される」という事だ。つまりそのせいで「テレビでしゃべってるところを見ると、高圧的でセッカチで口が汚くて印象が悪いな」ということなのである。

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メディアにはメディアにあったコンテンツの特性がある。同世代でも、実は古今亭志ん生はテレビ寄席をやり始めてからぐっと人気に勢いがついたという。同じ破天荒でも特性があるのである。田畑はテレビ向きではなかった。
スポーツの臨場感をより伝えるために、ラジオでは“実感放送”を推し進めたり、新聞に足りないビジュアル感のために写真の多用を意識したり、“メディアの有効な伝達方法”を実践してきた本人なのに、皮肉なものだ。

3、走れないレールと誤ったコース

私も他の多く人と同様、大河いだてんがはじまるまで田畑政治という人物を知らなかった。いだてんを通じながら、その存在と実績を知り、人となりや情熱に愛着を重ねてきたのだが、1964年の東京オリンピック前にその牽引役の大役をまさか降ろされるとは、今日の今日まで知らなかった。
1年前にいだてんが放送開始された当時からオープニングムービーでは毎回、田畑が1964年の東京オリンピックであろう競技場で嬉しそうにしている表情が映されてきたし、大河の主人公に選ばれたほどの人物なのだから東京開催のキーマンとして活躍したのだろうと思い込んでいた。

まさか、辞任に追い込まれるとは。

田畑は「どこだ?」とつぶやく。
「どこで間違った?」と自問自答をはじめる。
「どこで道を誤ったのか」と考えに考え、高橋是清にたどりつく。あそこだったんじゃないか、と。あそこでコースを見誤ったのでは、と。

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それはまだ1927年の出来事である。1962年に辞任した田畑は64歳だが、それはまだ29歳の時のこと。いだてんでいうと、第26話の頃である。
わたしはその出来事について、当ブログでこう書き残している。

第2章の主人公、田畑政治は単身、大蔵大臣高橋是清に交渉に出向き、現在の貨幣価値換算だと4億円のオリンピック予算を持ち帰ってくる。(アンビリバボー、と可児さんが絶句する。)
お金に悩んできた体協(日本オリンピック協会)からしたら、奇跡的な大金星、どんでん返しである。
(中略)
田畑政治は、オリンピック予算を集めてきた救世主であると同時に、スポーツの世界に“政治や戦争”を引き寄せてきた悪魔でもある。
救世主か、悪魔か。どちらにころぶのか。
扉は開かれたのである。


一番大事な場面で、舞台から降ろされる。
いだてんのふたりの主人公はふたりとも、一番成し遂げたかったことをやり遂げられない
田畑は「いいかい」と切り出し辞任会見でこう語る「誰がこのレールを敷いたんだ。私なんだ。だがそのレールを走れない。最後まで走りきることができないのが、甚だ残念でならない」。レール。レールからはみ出してしまう。
金栗四三にとってそれはコースだ。1912年、最後の最後の分岐点でコースを間違えてしまう。
レール。そしてコース。
大切な分岐点で“道に迷ってしまうふたり”だが、ふたりとも、まだ、ゲームをあきらめてはいない。小綺麗な有終の美である必要はない。いだてんらしく、足掻く様を見せつけて欲しい。

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(おわり)
※他の回の感想分析はこちら↓


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