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【小説】性愛と情愛

『性愛と情愛』


 あたたかい太ももが足の先に触れて、自分の指がひどく冷えていることを知る。
 上半身を起こして隣を見ると、素性の知らない男が裸で眠っていた。安心しきった顔で、無防備に枕によだれを垂らして。

 ああ、今日もまたコレだ。

 二日酔いで痛む頭に手をあてて、記憶の糸を手繰り寄せる。けど、何も覚えていない。何も覚えていないけど、自分の胸につけられた唇の痕と、ベッドの上に散らかった下着と、裸の自分がすべてを物語っていた。

 静かに布団をめくり、服を着て荷物をまとめてラブホの外に出た。
 朝日が優しく肌を焼きつけてくる。道路を走る車の排気ガスと一緒に、朝の湿った臭いを嗅いだ。やっぱり朝は嫌いだ。

 そのままとぼとぼと歩いてアパートに帰ってくると、一番に顔を洗った。めんどくさいから、クレンジングは使わないでぬるま湯で顔を擦った。タオルで拭うと、白い布の表面に肌色の染みができた。

「寂しいだけじゃん、そんなの」

 鏡に映る、クマのできたみすぼらしい自分を見てこの前透子から言われた言葉を思い出した。

 鏡をにらみつけて、タオルをぽい、と洗濯機に放り込んだ。シャカシャカ。どこかの部屋から知らない音楽が壁を貫いて微かに聞こえてくる。隣人の怒鳴り声は今日はまだ聞こえてこない。今日は休日だから、みんな心に余裕があるんだろう。耳にイヤホンをはめ込んで、ベッドに転がった。

 高校を卒業してそのまま就職して得られたのは、安定した未来じゃなくて目を背けられない僻みの毎日だった。あの頃のクラスメイトたちは、私が小さな会社のビルで事務作業を繰り返している間に、大学のキャンパスで友達とぺちゃくちゃ喋って、腰をのけぞらせて笑って、遊んで、花火して、とにかくわいわいやっていた。
 それを一人暮らしの小さなアパートで、それもインスタの小さな画面で見る自分はきっと滑稽で、繋がっていたくてやっているものなのに、完全に分岐してしまった気がした。

 それを言い訳に素性の知らない男と寝る意味がわからないと、この前透子とご飯に行った時、そう言われた。それから、あんたは親があんなだったからその代わりの愛情を求めてるだけなんだよと、陳腐な攻撃を食らった。透子もまた、同じ高校を卒業して私とは別の会社に就職した社会人仲間だった。 
 
 意味?そんなの、寂しさを埋めるために決まってるじゃん、悪いか、と強気で返したら、でも私だって一人暮らしで彼氏もいない孤独な生活だけど、そんなことしてないよ、とドヤ顔で返された。
 違う。そういうことじゃないの。その言葉を飲み込んで代わりにチューハイを頼んだら、未成年飲酒は会社にばれたら痛い目見るよ、と止められた。透子の正論にげんなりした私はオレンジジュースを頼んで、あとは適当に会社の愚痴を言い合って、八時前にはアパートに帰った。
 やけくそになってマッチングアプリを開くと、画面いっぱいにメッセージが届いていた。スクロールしていく指に力がこもる。誰かが私を求めて、私は求められている。

 つめたい温もりと荒い呼吸の繰り返し。上下運動でつくられる時間。誰かのペニスにぶら下がる私は好きだった。



 若塚先生と再会したのは、観測史上最大の降水量だとニュースで騒がれていた、梅雨のある日のことだった。どしゃぶりの雨の中、仕事用のリュックを背負って右手に傘をさして、左手にスーパーの袋を持って帰っている途中、私は片足の靴紐がほどけていることに気づいた。両手がふさがっているこの状態とこんな雨では、止まって結び治す気力はとても湧かなかった。
 踏みだすごとにぷらぷら揺れる紐に苛立ちながら歩いていると、ふいに後ろから、

「あの、靴紐ほどけちゃってますよ」

 と声をかけられた。あーちくしょう、わかってるよ、とぶすっとした顔で振り向くと、懐かしい顔があった。

「若塚先生!」

 びっくりして傘を放り投げそうになる。中学の時、私のクラスの担任をしていた若塚先生だった。

「あれっ、杉野さん?」

 眼鏡のフレームをつまんで目を細めて私の顔を覗いてくる若塚先生の姿に、あの頃の面影を感じる。懐かしいけど、細めた目の周りにできた少しのシワが、時間の経過をたしかに表していた。

「うわぁ、ずいぶん大人になったね。一瞬誰かと思ったよ」
「若塚先生こそ、すっかりおじさんになっちゃいましたね!」
 私は興奮した口調になって笑った。自分のことをちゃんと覚えてくれているとは思わなかった。
「ひどいなー。杉野さんは、今大学生?」
「いや、高校卒業して、就職したんです。実家も出て、今は一人暮らしで。アパートがこの近くにあるんです」
「そうなんだ、奇遇だね。俺の住んでるところもこの近くなんだ」
「え、そうなんですか?」

 ここじゃ雨のせいで声が聞き取りづらいからと、若塚先生と私はそのまま近くの喫茶店に入った。


 中学時代、私は若塚先生に密かに憧れていた。その憧れが恋と同じものだと断定できるわけではなかったけど、とにかく私は、若塚先生が大好きだった。クラスの女子が隣の組の誰々がかっこいいと騒いでいる時も、私は若塚先生のところへ行って数学を教えてもらっていた。放課後、手元の教科書に切れ長の鋭い目を落としながら、落ち着いた低い声で問題を一つ一つ丁寧に教えてくれる姿は、普段の授業で声を高くして席と席の間を歩き回る姿とは違って、特別な感じがした。そのギャップみたいなものがたまらなくて、本当は得意だった数学をできないふりして、毎日のように若塚先生のもとに通い詰めた。今振り返ると、健気な中坊だったと思う。本当、今とは大違い。

「それ、恋の始まりだよ」

 コーヒーに入れたミルクをぐるぐるとスプーンでかき混ぜながら、透子がにやっと笑った。

「あはは、そういうの好きだよね、透子」
「だってそんな夢中だった人と喫茶店入って何時間も話して、連絡先も交換したんでしょ? しかも近所に住んでるって、もう運命じゃん。がんばりなよ」
「えーだってもうおじさんだよ? ありえないって」
「おじさんっていっても、あんたが中学の時新卒で来たなら、まだ三十前半くらいでしょ? いけるって」
 透子はなんとしても若塚先生と私を結びつけて、私を更生させたいみたいだった。
「でもさ、たしかに先週若塚先生に再会してから、アプリの奴とかと一回もヤッてないんだよね」
「ほらぁ、やっぱなんか、期待してるんだって。しかも体じゃなくて、ちゃんとした心の期待! ほら、心だよ心!」
「あはは、やばぁ」
スプーンを持つ手とは逆の手で自分の胸をどんどんと叩く透子の姿がゴリラみたいで、思わず吹き出してしまう。
「でもちょっと安心したかも。あんたにもそんな純粋に誰かを追いかけてる時期があったのね。よかった。だって高校の時から色んな男に目移りしてたじゃん。さすがに体の関係まではいってなかったけど」
「そうだよ、私だって乙女だもん。純粋な気持ちくらい持ってまーす」
「じゃあ、今すぐマッチングアプリ消しな」
「それはまだムリー!」
「そういうとこだぞ」
 あはは、と店内に私と透子の笑い声が響く。いつものような、私がアプリで出会った男の汚い話の時とは違って、学生時代に戻ったような空気が心地よかった。体じゃなくて心の繋がりを期待することは、たしかに清々しいことらしかった。


 それから若塚先生と頻繁に連絡を取り合って、時々近所の喫茶店でお茶をするようになってから、私は次第にマッチングアプリを開く回数が減っていることに気づいた。透子はそれをおもしろがって、「心の繋がり取り戻し現象」と名づけた。

「杉野さん、高校では文理選択どうしたの?」
「もちろん、理系のほうに進みました!」
「数学、あんなに頑張ってたもんな。偉いね」

 若塚先生との会話はくすぐったくて、数学を教えてもらっていたあの時の純粋な憧れの気持ちがよみがえる気がした。微笑むとさらに細くなる切れ長の目はもう教科書じゃなくて、私の目を見てくれるんだと思うと、心がキュッとしまる。
 仕事の昼休み中、十二時半を指す時計を見ながら、今頃中学校は給食の時間だな、と思うようになった。帰り道、若塚先生も同じ電車に乗っていないか、偶然を期待するようになった。会話を弾ませたくて、休日は近くの本屋に行って、数学に関する本を立ち読みするようになった。
 普段の生活に若塚先生を取り込むだけで、心が寂しさを包み込んで燃えていく。アプリで単調な会話を繰り返して、ラブホに行ってすぐにセックスに及んでいた生活が、今ではバカバカしく思えた。

 多分、これが恋だ。いや、これこそが恋だ。こんなベタなものはないくらいの恋だ。すっかり盲目になったね、と茶化してくる透子にも満面の笑みでまあね、と返すくらいにはベタベタのベタだった。

 それに若塚先生もきっと、私と何らかの心の繋がりを求めてくれている気がした。この前お茶した時に左手の薬指も確認したけど、指輪はついていなかった。だから余計に、期待してしまう。
 そんなに頻繁にやり取りしてお茶までしてる時点で脈ありでしょ、と肘でつついてくる透子にも、まあね、と笑った。
 もしかしたら若塚先生も、私のことを好きになってくれるかもしれない――そう期待するようになって、登録していたマッチングアプリをすべてアンインストールした。
 透子にそのことを伝えると、「淫らな生活の終止符宣言」だと言って喜んで、小さな花束まで渡してきた。それも、「いつか危ない目に遭わないかってずっと心配してたんだよ。本当によかった。これからは自分の体、もっと大切にするんだよ」と書かれたメッセージカードを添えて。


 今なら、透子が私の乱れた生活を忌み嫌っていた気持ちがわかる。もはや私も、そういう生活を嫌う側になっていた。体はその時の寂しさと渇きをその時だけは満たしてくれるけど、朝になって布団から出たら、一瞬で冷えてしまう。いつまで経ってもキリがない。その寂しさを忘れさせて別の何かを与えてくれるのは、やっぱりたしかな心の繋がりしかないと思った。アプリの中にいた、寂しさを体で埋めようとする人たちにも、それに気づいてほしいな。
 
 そう呟くようになった私に感動して透子が泣き出したってことは、言うまでもない。


 駅前の並木道がイチョウで黄金色に染まり始める頃には、若塚先生と私は近くの喫茶店以外のところへも出かけるようになっていた。クラゲが好きという話をしたら水族館へ連れて行ってくれたし、大学生の女子の間では最近クリームソーダが流行っているらしい、と教えたら、クリームソーダが看板商品のおしゃれなカフェに連れて行ってくれた。会えるのは月に数回くらいだけど、確実に心の距離は近くなってきている気はしていた。

「こんなおじさんでよければさ、お付き合いしてくれない?」

 そう告げられたのは、いつもの喫茶店でゆったりとくつろいでいた時だった。
「え、あっ……えっ」 
 ロイヤルミルクティーの中に、手元の角砂糖がポトンと落っこちていく。あまりにも突然で、声が裏返った。若塚先生はすぐに目を逸らして、恥ずかしそうに俯く。
「杉野さんと話していると自分も若返ったみたいで楽しいし、何より一緒にいて落ち着くんだ。歳の差はちょっとあるけど、大切にするから、その、考えてみてほしい」
 俯いたまま話し続ける若塚先生の姿が、涙でぼやけていく。今までマッチングアプリで出会ってきた男には、こんなこと言われたことがなかった。この後空いているかとか、ちょっとだけ休憩しないかとか、そんなことばかりだった。こんなに自分としての存在が認められるような言葉を、もらったことがなかった。

「私なんかでよければ、よろしくお願いします」

 若塚先生となら、汚れていたものをすべて取り払って、二人の過ごす時間に温もりを生み出すことができる気がした。

「えぇ、本当?」 
 顔をこちらに上げた若塚先生の目が輝いた。それに応えるように頷くと、いつもの鋭い目が途端に垂れて、
「ありがとう」
と、優しく微笑んだ。中学生の時の私には向けてくれなかったもっと特別な笑顔が、今自分に向けられている。心が熱く溶けだしていきそう。これからこの笑顔をたくさん見れるんだ。私もこれ以上ないほどの笑顔になる。

「これからよろしくな」

 すると、言葉とともに、若塚先生の手がテーブルの向かいから伸びてきて、私の両手を握りしめた。ドクン。心臓が大きく飛び跳ねて、私は思わず息をのんでしまった。握られた両手に、視線が釘付けになる。

 若塚先生に再会してからこの数か月間、一度も体のどこかが触れ合ったことはなかった。いつも一定の距離をとって歩いていたから手があたることもなかったし、肩を叩いて呼ぶことも、たまたまぶつかってしまうことも、一度もなかった。何より若塚先生本人が、そこらへんは気を使っていてくれたのだろうと思っていた。

 今、私の両手には、その若塚先生の手がしっかりと覆い被さっている。私よりも大きくて、骨ばっていて、少しざらざらした感触がして――生あたたかった。

 告白よりも突然の出来事に、全身が熱くなっていく。両手へと流れる血脈の動きがいつもより激しい。緊張しながら若塚先生のほうを見ると、同じように緊張しているのか、顔が赤かった。

 そっか。もう恋人どうしだから、こうやって触れ合うこともするようになっていくんだ。

 そう思った瞬間、ガンガンに固まった氷をぶつけられたみたいな衝撃が走った。パキン。それまで熱くなって動いていた心臓がその衝撃で大きく冷やされて、またその衝撃で破裂しそうになる。小さな稲妻が走るような、ツンとした痛みが頭を襲う。

 なにこれ。なんだこれ。

 唐突に、握られた両手の違和感が体に流れ込んでいく。汗が冷えて、体温が体から抜けていった。

「じゃあ、今日はもう帰ろうか」

 私が照れて何も言えずに固まっていると思ったのか、若塚先生は私からパッと手を離すと、会計に向かった。我に返った私は、ぬるくなったミルクティーを飲み干して、慌てて後を追った。




「で? それでまだ、手繋ぐところまでしかいってないの?」

 先生と付き合い始めてから、あっという間に二か月が経った。窓の外にちらほらと舞う雪を見るだけで寒くなって、カーテンを閉める。電話の向こうからは、不服そうな透子の声が聞こえてきた。

「そうなの。なんかさ。手繋ぐのでもう、精一杯っていうか」
「あんたいつからそんなマジの乙女になったの? アプリのわけわからない男と寝まくってた頃の自分、忘れたの?」
「それは言わないでよー」

 あの日、先生に握りしめられた両手に感じた違和感は勘違いなんかじゃなかった。あれからも先生と体のどこかが触れるたびに、妙な負荷が体中を苦しめるようになっていた。もちろんそんな私の内情は本人には伝わっていないと思うし、伝わらないように私も頑張ってふるまっている。どうしてああなってしまうのかはわからない。理由を考えようとして、でも考えたらなんだかわかってしまう気がして、それが嫌で、しばらくやりきれない毎日を過ごして、それで結局先生とは手を繋いで歩くところまでしか進んでいない。

「ねぇ、そもそも進むって何さぁ?」
「そんなあほみたいな声出さないでよ。小学生じゃないんだからさ、立派な大人の恋人どうしだったら普通、もうセックスくらいまで進んでてもおかしくないでしょ」
「ひえ、透子の口からセックスって言葉出た、やば、げひーん!」
「あんたには言われたくないわ、マジで」
 あははごめんね、と言って笑って、電話を切った。透子の声が聞こえなくなって静かになった瞬間、当然のように真顔になる。

 先生のことを好きな気持ちに変化はない、はずだった。なのに、体が先生を受けつけない。恋に恋していただけだったんじゃないかとか、そういうわけでもなさそうだった。私はたしかに、恋と呼んでもいいような感情を先生に抱いていた。

 わからなかった。心の繋がりを求めて恋をして、心が通じ合えばそれでいいはずなのに。恋人になっても結局たどり着くのは、セフレと同じ、体の繋がり。

 あの日、先生が私の手を握って触れてきたのはどうしてなんだろう。 好きだから、触れたいと思った? でも触れたいと思ったなら、その気持ち自体は立派な性欲だった? 恋をして辿り着いた先が、結局これ?

 ぐるぐると考えを巡らせていると、吐くものも何もないのに吐き気がしてきた。綺麗ごとのように心の繋がりだなんだと言っといて、恋人になったとたん体の繋がりを勧めてくる透子にも腹が立ってきた。テンプレートのように、恋人どうしのステップを踏もうと手を繋ぎ始めた先生にも、嫌気がさした。 恋を神格化しすぎたんだ。



「そろそろ、いいかな」

 透子との電話から一週間くらい経って、先生の家のリビングで毛布にくるまってスマホを見ている時だった。いつもよりさらに低く強ばった先生の声が部屋に響いて、私はスマホを置いた。

「何……何がですか?」

 先生を見ると、暖房の設定温度を下げながら、テーブルから立ち上がってこちらに近づいてきていた。私は、毛布の裾を強く握りしめた。背中を冷汗が滑り落ちていく。

「俺、ずっと考えてたんだ。一応教師なわけだし、いい歳したおっさんだし、傷つけないように大切に付き合っていこうって」

 一瞬、別れ話かとも思った。でもそれは、近づいてくる先生の腕が、私の腰に伸びてきたところで違う、と察した。

 これは、そういう雰囲気なんだ。アプリで出会った男と寝る時も、今みたいな独特の雰囲気があった。いつ切れてもおかしくないような透明な糸が空気中にピン、と張り巡らされて、それを自分たちでゆっくりと、一本ずつほぐしていく。そしてそのままベッドに転がって、体でつくられた温もりだけを求め合っていく。

「いいかな」

 はっきりしない口調とともに、先生の腕が腰にしっかりと巻きついた。

「はい」

 自分の声が掠れていた。でもそんなのもおかまいなしに、次の瞬間には先生の唇が、私の唇に触れていた。

 冷たい汗が、体中を滑り落ちていく。もう何度もこんなことしているはずなのに、体が異常に冷えきっていた。先生の唇は燃えそうなくらい熱いのに、自分の唇は、唇がついていることも忘れそうなほど冷たく、乾いていた。凍りついていく意識の中で、自分の服が脱がされて、毛布と一緒に放り出されるのが視界に入った。

 一度唇が離れると、先生は服を脱いで裸になった。生々しい胸板が覆い被さってくる。腰に巻きついていた手が、だらしなく開いた私の股に触れる。久しぶりの感覚だった。でもその感覚が、どんどん自分の体のものではなくなっていく。それなのに、股は濡れる。不思議だった。自分の体のはずが、こうして誰かの手でなぞられたら、当たり前のように濡れていく。ジュースを注いだコップの表面に水滴がついて、不便だと思った日をぼんやりと思い出す。しばらくして先生は股から手を放して、自分の腰を押しつけてきた。

 ああこれで、心も体も支配される――そう目を瞑ろうとした瞬間、逆にカッと目が見開いた。


 そこにはまぎれもなく、男がいた。


 だけど今、目の前にいるその男は私の恋人で、心を許した人だった。それが心底正しくて、不快だった。いつの間にか照明が消されて薄暗くなったリビング。床に落ちているコンドームの袋。私の中に入ろうとしてくる、先生の生殖器。視界に入るすべてのものが、私を支配しようとしていた。

 ずぶりと入り込む直前、体が動いた。そして押し倒す先生の手を払いのけて、私は勢いよく立ち上がった。

「え?」

 呆気にとられた先生を無視して、脱がされた服の中から丈の長いロンティーだけを着て、荷物を持って先生の家を出る。追いかけてこないように、道路を夢中で駆け抜けて走り去った。

 空の色は真冬の黒だった。その下をロンティー一枚で走るのは、無防備にもほどがあった。涙と鼻水が凍りそうになる。通り越していく他人の視線が冷たい。今度は寒さのせいで体の感覚がない。でも、真っ白なものを濁った白でぐちゃぐちゃに塗り潰されるほうが恐ろしかった。それならはじめから、汚い泥に浸っていたほうがいっそ清々しい。私の寂しさは、どちらかで埋められればそれで十分だった。

 しばらく走って、駅前のコンビニのトイレに逃げ込んだ。生足がかたかたと小さく震えて、最高に冷え切っている。

 便器に座ってスマホを開いて、マッチングアプリを再インストールした。ホーム画面に、安っぽいピンク色のアイコンが戻ってくる。それを起動して、近くにいる登録者を手慣れた指で探し始める。

 これでいい。私はこれでいい。息を整えながら、呪文のように心の中でそう呟く。化けの皮を被った性欲が恋なら、私は最初からこれでいい。

 数分ほどスクロールして、めぼしい男を三人くらい見つけると、全員にメッセージを送った。
 

寒いので、あっためてほしいです笑
コンビニでくつろいでるので、拾ってくれたら嬉しいな笑