『乙女こーらす』と乙女考察

初出:図書の家の「この漫画を今日は読もう」/『漫画の手帖』61号 2011.8.5発行 

 2月28日に発売された『コーラス』4月号別冊付録の『乙女こーらす』は何とも素敵な一冊でした。表裏の両面を高橋真琴の少女画で装った百ページの小冊子には、10人の作家が登場。短い漫画と「乙女とわたし」というテーマで描かれた1ページ、そして高橋真琴とくらもちふさこの「乙女対談」という構成です。私もこのスペシャルな対談が目当てで、久しぶりに『コーラス』を買いに走りました。

 それであらためて知ったことは、くらもち先生はデビュー後すぐの73年、真琴絵表紙の『デラックスマーガレット』に作品を発表しているんですね。真琴先生との間に、そんなつながりがあったとは。対談では技法や創作時の思いほか、さまざまな話題がありましたが、印象的だったのは、真琴先生が対談前に『くらもちふさこWORKS』(※1)にも目を通され、そして最近作『駅まで5分』のコミックス2巻表紙に描かれた「楼良」が好きだと言われたこと。それを受けてくらもち先生が、楼良はまさに真琴先生のお姫様の絵のような気持ちや雰囲気をめざしたキャラなのだと嬉しそうに説明するさまは、日頃から「少女漫画に大事なものは乙女心」(※2)と語っている「くらもちふさこ」ならではですね(大好きです)。

 しかし、この『乙女こーらす』のしっかりした存在感には本当に驚きました。どこをつまみ読みしても、かなりの満足があったんです。これって最近の雑誌ではあまり味わえない、私にとっては異様な感覚なので、その満足感はいったいどこから来ているのだろうと考えてみました。

 漫画はいずれも10〜24ページという小作品。しかし短くても、どれもきちんと物語が立っています。

 小沢真理が川端康成の少女小説をコミカライズした「薔薇の家」は、薔薇に囲まれた洋館に引越してきた女教師を主人公に、乙女たちの秘密めいた友情を美しく描いたもの。この小品には、なんて上手なんだ小沢先生!と心から感嘆しました。また、松苗あけみ「ひな菊を乙女の髪にも心にも」は、松苗ならではの永遠の乙女な老女キャラや乙女系男子も登場する、完成度高いコメディ。谷川史子「春の前日」は気負わずに等身大の切なさを描いて、これが私の乙女心と宣言するかの如くに真っ向勝負していると感じたし、やまじえびねの耽美な懐古的女学生ストーリー「ダフネの祈り」はしみじみと味わい深くて。上森優は『ザ・マーガレット』などで活躍する若手さんで(私は今回初めて読みましたが)まさにタイトル通り「可愛い人」な初々しさがあふれていました。いずれも確かに乙女漫画で粒ぞろいでしたよホント。

 また、その間にはさまれている「乙女とわたし」1ページ劇場(?)も、勝田文のレトロモダンな情景(本誌表紙もすごく良かった)や、釣巻和のいかにも愛らしい1枚絵のほか、花津ハナヨのレトロ少女漫画趣味を告白する自虐エッセイには笑いましたし、締めにはくらもちふさこの意表をつく人形愛語り、そのひとつずつに感想やら共感やらを語り出したらきりがない。

 そんななかに、岩館真理子が少女イラストに短文を添えて参加していたのですが、これだけがかなり意味深で、ちょっとだけ異質で、ひっかかったのです。岩館は「乙女を前提に 絵を描くというのは かなり気恥ずかしいこと」から始め、乙女というものを彼女がどう定義づけているかを語り、「描くなら語らない方がいい。無意識が一番いい。」と結びます。

 ここで、うーん、乙女っていったい何だっけ??と、最初に立ち戻ってしまったんですよね。

 そもそも『乙女こーらす』は、全てが正統派な、説明のいらない、いわゆる「乙女感覚」でつくられていたから安心して浸れたのであり。こういった女学生的な、あくまでも綺麗な世界観を今でも提示してもいいんだなあ、ちゃんと心に届くもんだなあ、というのが大きな感慨だったのです。しかしその「乙女」というものを、意識して見直してみると。

 『大辞林』やウィキペディアなどで調べると「乙女」は「年若い女性のこと」なんていう大きな意味しか出ていません(勝田文先生も今回、辞書をひいたそうです)。しかし、それが「少女」とどう違うのかと考えたとき、「少女」は外から影響を受けたり、自ら変化し成長して大人になるけれど、「乙女」は違うのではないかと思いました。「乙女」というのは、ある一定の状態で、外部からの影響を受けたりしない。それは絶対的に守られているものであって、万が一、外からの影響を受けてこわれたら、もう戻ってこないものなのではないか?

 そんなことを考えながら「一生乙女っていう感じの人もいるよね〜」とか話していたら、聞いてくれていた友人が「それって深窓の華族の令嬢で、おばあさんになっても子どもみたいでねぇ…みたいなイメージ」とか言って。それってまさに、松苗あけみの描く、見た目は醜悪だけど実は超チャーミングな「乙女婆さん」ですよね? 更に友人は「ここからはいってこないでよー、と机の間に下敷き立ててる、頑なな感じ」なんていう、秀逸な例まであげてくれましたけど、なるほどそれはすごく乙女的かも。

 最初に私が「乙女」って女学生だよね、ともやもやと思ったのは、明治から昭和初期の少女たちが自由に「乙女心」を抱いていられたのは、嫁に行くまでの猶予期間である女学生時代だけだったろうな、という理由によります。でも、現代の「乙女」の定義って、かなりサブカル的というか、おたく的方向にも変質している様子ですよね。

 例えば、池袋の乙女ロードとか乙女ゲームとか乙女系男子とか、太田出版の雑誌『Otome continue』とか。『Otome continue』は5月発売のvol.6では、「山岸凉子×萩尾望都初対談」(※3)も掲載されたりして、ますますクロスオーバーな「乙女」向け雑誌になってきていたのに、まさかの休刊宣言で誠に残念。

 それにしても、いわゆる〈24年組〉の中で誰が一番乙女的なのか、それはなぜとか、70年代後半の「乙女ちっく」現象ってとか、女おたくと乙女は重なるのか否か、みたいな話には、まったくたどりつけませんでした。しかし、「乙女」の本質って何だろう、なぜ今でも正統的乙女表現が色あせずに魅力的なんだろう、と、まとめられないままにも考えるのは、やっぱりかなり面白いということだけはわかりました。では、また。(2011.6.15)

※1 2009年集英社発行。パソコンでの作画技術解説を含んだイラスト画集

※2 2008年に川崎市市民ミュージアム他を巡回した『少女マンガパワー!』展 図録出品作家インタビュー内容より

※3 聞き手・文はヤマダトモコさん。付属のクロス年表作成は小西+編集部


引用図版:

すてきなお嬢さんの別冊ふろく『乙女こーらす』表紙(画:高橋真琴)

小沢真理「薔薇の家」(原作:川端康成)P7

小沢真理「薔薇の家」(原作:川端康成)P6から

本誌でもレトロモダンな乙女世界を展開した勝田文の表紙画(『コーラス』2011年4月号)

くらもちふさこのお姫様キャラ「楼良」(『駅まで5分』QC2巻)



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