見出し画像

運命の人

unahara bakuさんの『愛ってなあに?』という記事を読んで私なりに考えた事。

人は誰も、いや人に限らず、犬小屋から顔を覗かせている犬だって、路地裏を徘徊する野良猫だって、一輪の薔薇だって、深海のプランクトンだってみんな愛を求めている。

孤独だから惹かれ合って、孤独だから表現して、孤独だから何かを求めて生き続ける。

白昼のプレゼンも、深夜の深酒も、PCに向かい見知らぬ人に何かを発信し続けるこの時間も、元を正せば誰かに自分を認めてもらいたいという名の「愛の渇望」かもしれない。

人の心は単純だから、あんなに「好きだ、この人しかいない」と思っていた人も、自分を傷付ける対象だと思った途端に、その感情は憎しみにすり替わったりする。

誰だって一番可愛いのは自分だ。でも自己愛だけでは、人は満足して生きられない欲張りな生き物だ。

神の愛と違って、人の愛は不安定で繊細で、常に愛と憎しみは諸刃の矢のように背中合わせになっている。

駆け引きなんてしているうちは「愛」ではないし、ミステリアスな未知なる存在に人は「愛」を感じない。

この人なら心から信頼できる、どんなことがあっても自分の味方になってくれるという直感が、年月が、経験が、絆が教えてくれた時に、人は初めて愛着といってもいいような唯一無二の愛情を相手に感じるのではないだろうか。

少なくとも、私はそうだ。

だから家族以外の他人(ひと)に真の愛を感じるのはとても難しい。

夏目漱石の「こころ」から以前引用したこの言葉は、愛の最も足る告白だと私は思う。

私は死ぬ前にたった一人で好いから、 他人(ひと)を信用して死にたいと思っている。 あなたはそのたった一人になれますか。 なってくれますか。

そう、愛し愛される対象は世界にたった一人でもいい。

その愛が、私たちをこの世界において価値ある存在だと確信させてくれるから。

辛い恋や片思いに身を焦がすのもそれはそれで素敵だけれど、それに飽いたら、心からそう思わせてくれる人を選べばいい。

そう思わせてくれる人に出会うには、ただそのままの自分でいること。そして自分も相手に心を開くこと。

「運命の人」とはある日突然、出会うわけではない。相手を大切にしながら過ごした時間だけが、少しずつ相手を「運命の人」にしていくのだと私は思う。

「きみのバラをかけがえのないものにしたのは、 きみが、バラのために費やした時間だったんだ」「ぼくが、バラのために費やした時間・・・」 忘れないでいるために、王子さまはくり返した。

      『星の王子さま』サン・テグジュペリ

ご訪問ありがとうございます。この投稿を面白いと思った方は、スキ、コメント、SNSへのシェア、サポートetcして頂けると大変励みになります。よろしくお願い致します。