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読書感想文 少女コレクション序説 澁澤龍彦

 可憐な少女をガラス箱の中にコレクションするのは万人の夢だろう。

 『白雪姫』の小人達は毒リンゴを食べて倒れた白雪姫を、透明のガラスの棺に入れて、自分たちで交代で番をした。このガラスの棺には、金文字で姫の名前が記されていた。これでその遺体が白雪姫だと一目でわかるようになっていたのだが、しかしこれではまるで標本ではないか。ラベルにラテン語の蝶の学名を書き入れるウラジーミル・ナボコフ教授の情熱と、もしかしたら重なり合うような情熱がそこにあったのかも知れない。
 コレクションに対する情熱とは、いわば物体/オブジェに対する嗜好だ。生きている動物や鳥を集めたって、それは“コレクション”とは呼ばない。すでに体温を失い、内部に綿を詰められ、眼窩にガラスの目玉をはめこんだ複製でなければ、それはコレクションの対象にはなり得ない。昆虫でも貝殻でも、生の記憶からできるだけ遠ざかった、乾燥した標本になってはじめてコレクションの対象になりうる。物体愛こそ、ほとんどエロティックな情熱に似た、私たちの蒐集癖の心理学的な基盤をなすものとなる

 我が国にも人形のコレクションをしている人形愛好家、もしくは人形研究家といった人たちは多いが、その人たちに対する何よりの不満は、いわば人形愛の形而上学とでもいうべきものが、彼らには決定的に欠けているという点である。
 「人形愛」という新造語を初めて文章の中で使ったのはおそらく澁澤龍彦だ。澁澤龍彦の意向としては、ヨーロッパで用いられているピグマリオニズムの翻訳語のつもりだった。ピグマリオニズムは周知の通り心理学用語、性病理学用語であると同時に、この言葉の原因となったギリシア神話の主人公の野心のように、象徴的にもせよ形而上学への志向を含まなければならないものなのである。いや、それはいっそ“魔術”と呼んだ方がぴったりくるかも知れない。
 そもそも遊びや玩具の中に、魔術的ないし宗教的な意味を見いだすことができないようなものは、ほとんど一つとしてない。人形だってそうだ。人形が模倣するモデルの性質を分有すると見なされてきた。逆に考えれば、人形のモデルは、人形に対して加えられた虐待や愛撫を、そのまま我が身に感じるはずだった(つまりは類感呪法)。これが呪いの原理であって、さまざまに複雑な儀式を伴いながらも、この原理そのものは有史以前から古代や中世、いや近代に至るまでもほとんど変わることがないのである。我が国でもわら人形や形代による人形信仰は連綿と行われてきているし、ヨーロッパの魔術の歴史を通覧すれば、枚挙にいとまがないのである。

 ダイダロスはヘパイストスの真似をして、ひとりでに動く木星のウェヌス像を造ったと伝えられており、このことはアリストテレスも語っているくらいだから広く知られていたものと考えていいだろう。
 ウェヌス像は体内の水銀によって動く仕掛けになっていた。ただその人形には忌まわしき噂があり――夜な夜な台座から抜けだしては、人間や神々の像と情交するというもので、そのために夜になると人形を縛っておかなければならなかった。
 ピグマリオン伝説を思わせるエピソードだし、メリスの短編『イールのヴィーナス』の主題にも通じる。日本の『今昔物語』第17巻にもヴァリアントともいうべき物語「吉祥天女の摂像を犯し奉れる人の話」がある。これらは単にエロティックな伝説というだけではなく、またオーギュスト・コントの「神学的段階」にふさわしい、超自然現象の畏怖した当時の民衆の心を反映した、悪魔的な工匠の伝説とも見なさなければならない。
 10世紀の法王シルヴェステル2世、13世紀のスコラ哲学者アルベルトゥス・マグヌス、同じくロジャー・ベーコン、15世紀の天才レオナルド・ダ・ビンチ、17世紀のデカルト……当代一流の大知識人はいずれも自動人形制作の夢に取り憑かれていた。錬金術から人間機械論に至る西洋思想の流れは、つねに人造人間の造成を、その密かなる究極の夢として抱いていたかのごとくである。
 しかし現代において人形や玩具というものは、完全に子供の専有物となってしまった。そして人形愛の形而上学もまた久しい以前から失われてしまった。電子機械によって操作されるロボットや怪獣は、すでに純潔を失って、堕落した姿を私たちの目に晒している。

 神聖や恐怖の感情が有効性を失っている現代において、人形の純血種を保証するものは、もはやエロティシズムのみではないかとさえ思える。ハンス・ベルメールの人形がこの事情を雄弁に語っているだろう。
 ダダイストやシュルレアリストの多くが、人体模型やマネキン人形に異常な執着ぶりを見せたのも、人形愛の形而上学の最後の燃焼ともいうべき不毛なエロティシズムを、そこに敏感に感じ取ったに他あるまい。不毛なエロティシズム――しかしそれは、ダイダロスのような、ピグマリオンのような昔ながらの工匠あるいは芸術家の比喩だったのである。

「少女とは人間の中でもっとも(あからさまに)性的でない存在であり、性をいちばん安全な場所にしまっておける存在であるが、一切の性的なるものを、そのような少女のなかに封じ込めてしまいたいという願望こそ、ドジソンが少女に惹かれる大きな動機をなしていた」
 これは英国の批評家ウィリアム・エンプソン(「牧羊としての子供」高橋康也訳)による一節である。
 『アリス』の作者であるルイス・キャロルの精神を、こうも白日のもとに晒してみせた評言は他にあるまい。
 アリスは独身者の願望から生まれた美しいモンスターの一種である。その点でアリスは、ウンディーネやメリュジーヌのような妖精的、自然的な女の系譜に属するものというより、むしろ明らかにリラダンの想像したような人工美女の系譜に繋がるものである。
 エプソンはさらにこう書いている。
「ドジソンは、ある意味では自分を少女(性的に安全性をもった)になぞらえ、ある意味では少女の父(性的なものを包含しつくすことによって少女が父となる)になぞらえ、ある意味では少女の愛人(つまりは少女の母であることになる)になぞらえている」
 澁澤龍彦はこういう男性の心理を、たわむれに「デカルト・コンプレックス」と名付けたことがある。17世紀の哲学者デカルトは、その娘の死を深く悲しんで、精巧な自動人形を作らせ、これを「わが娘フランシーヌ」と呼んで愛撫し、どこへいくにも連れて行った……という伝説から名付けた。
 こういった人形愛を語る場合、必ずしも男は現実に父親である必要はない。デカルトは父親であったが、ドジソンには娘などいなかった。むしろ現実に父親になることを好まない、狂気じみた一種の幼児退行者的ナルシストが自ら現実の父親たる立場を拒否しながら、架空の父親に自己を擬するメカニズムを、「デカルト・コンプレックス」と呼んだわけである。

 「猥褻とは何か」
 澁澤龍彦はサド裁判の被告となったとき、何度も似たような質問に答えることを要求された。
 猥褻とは大変結構なものであって、これがなければ人類はとっくの昔に滅びていたのではないかとさえ思われる。犬や猫の世界に猥褻はない。人類だけが性的欲望を洗練させて、エロティシズムの世界を確立したのである。
 それではエロティシズムと猥褻は何が違いうのか? これは簡単なことで、いわゆる良風美俗に反するような、強烈なエロティシズムを便宜上、社会が猥褻と呼んで卑しめているだけの話である。
 今日のように良風美俗の基準がはっきりしない社会では、猥褻の基準も曖昧にならざるを得ない。いや良風美俗を敵としなければならない文学者でも、時と場合によっては猥褻と手を結ぶようなことが必要とされるのである。
 それはともかくとして、現在の私にとって気がかりなのは、今の若い人たちは果たして猥褻というものを理解しているだろうか、ということである。
 今の若者が中年に達したとき、彼らは果たしてセーラー服の女学生に猥褻感を覚えるであろうか。もしセーラー服の少女にそそられないとしたら、これは重大問題である。
 ところで問題となっている『四畳半襖の下張』であるが、これは今となっては猥褻なものではなくなっている。少なくともセーラー服よりかは猥褻ではない。
 この作品の最後に、袖子が「おつかれ筋なのね」と言ってフェラチオするシーンがあるが、こういうものはもはや猥褻ではない。現代ではフェラチオが一般化して、その技術も進んだ。かつてはフェラチオと書くだけで良風美俗に抵触するような趣があったが、現代はフィクションでもノンフィクションでもフェラチオが溢れすぎている。もはやフェラチオという一文だけに猥褻感を求めるのは難しい時代となった。

「あなたはどうして子供を作らないのですか?」
 澁澤龍彦はこう尋ねられると、このように答えるようにしていたそうだ。
「もし事情が許せば、私は娘と近親相姦の罪を犯すことにもなりかねないからです」
 と冗談めかして答えるが、実は決して冗談ではなく、これこそが偽らざる本心であった。
 澁澤龍彦はユートピアについて論じるとき、「ユートピアなるものは、なるべく私たち自身の手の届かない永遠の未来に、突き放しておくべきものであって、安直に手に入るようなテクノクラシーのユートピアは、真のユートピアとは似て非なるものだ」と述べるが、そのユートピアとはまさに「娘」のことなのである。それはこの世に存在してはならないのである。存在するとしたら日常の秩序から離脱したユートピアにおいてのみであり、このユートピアにおいては、無論、近親相姦の甘美な夢をいかほど放恣に満足させようとも、なんんら障害も起こりえないものであることは言うまでもない。
 もっとはっきり言うならば、娘という存在は、近親相姦の対象にするためにのみ存在価値を有するのものであって、近親相姦の禁じられている現実の世界では娘を持つことの意味は全くないのである。娘を持ちつつ近親相姦を行わないということは、自動車を持ちながらガレージにしまいっぱなしにしておいて、自分ではまったくこれに乗らない、ということに等しいのである。

 ジョイ・アプダイクは、ウラジミール・ナボコフを論じた文章の中において「強姦は下層階級の、姦通は中産階級の、近親相姦は貴族階級の性的罪悪である」と述べているが、それは環境の違いから説明されているに違いない。無論、彼らが自分たち一族の血を何よりも誇りに思っていたということが、彼らをしてこうした行為に赴かしめる心理学的な原因ではあっただろう。
 しかし貴族のシャトー(城館)こそ、禁じられた快楽を世間の目から隠す、格好の防壁だったわけである。16世紀のイタリアチェンチ一族、ローマのボルジア家、リミニのマラテスタ家、史家ブルクハルトによれば、近親相姦は頻々と行われていたという。
 またロマン主義詩人の過剰な想像力からも、ユートピアとしての近親相姦の概念の胚胎する必然性もあるらしかった。詩人バイロンとその姉オーガスタ、ワーズワスとその妹ドロシー、シャトーブリアンとその姉リュシール、哲学者ニーチェとその妹エリザベート……兄妹あるいは姉弟の相姦的な関係は、天下周知の事実と言ってよい。そして彼らはいずれも精神的な貴族であったのである。

 近親相姦なるものは、おそらく人類にとって望ましく、また甘美なものであるからあれほど遠い昔から、禁じられてきたのではあるまいか。ロマン主義的な性情の詩人が、特にこれを純化されたイメージとして捉えるとはいえ、おそらく誰の心にも多かれ少なかれ、このようなユートピアは萌芽として存在していたに違いないのである。そうでなければ、近親相姦はあえてタブーとはされなかっただろう。私たちは常に望ましいものを禁止とする。アフリカの原始社会からヨーロッパ、東方、日本に至るまで、この世界でもっとも広く行われているタブーこそが近親相姦である。
 しかしいったいなぜ近親相姦が禁止にされなければならないのか、まだ決定的な解釈は見いだしていない。現代人は近親姦が優生学の見地から悪い結果をもたらす、ということを知識として知っている。しかしその常識は最近の研究の結果知られたことであって、その以前の人々が知るわけがない。
 レヴィ=ストロースが『親族の基本構造』で示したように、「禁止」はそれだけ切り離しては説明不可能であり、常に「特権」と結びつけて考察しなければ片手落ちなのだ。古代エジプトやインカ帝国の王族たちは、純血を保つために兄妹婚を行っていたというが、これは神聖な「特権」行為ではなかっただろうか。農耕民族の神話や伝説でも、しばしば神や英雄が兄妹相姦や母子相姦を行うが、これも同じような文脈から説明することはできないだろうか。
 この「禁止」と「特権」の関係は精神分析学における夢や神話の解釈とも共通するものがあって、非常に興味深い。潜在意識に沈んでいた欲望が、夢や神話の中に現れるように、近親相姦の強迫観念も、どうやら人類の意識化に普遍的に存在しているらしいのである。そもそも普遍的に存在しないものを禁止にする必要はまったくないだろう。その意味で、近親相姦に対する私たちの感情は、猥褻感とか羞恥心とかいうものと極めて似ているような気がする。

本書の感想

 澁澤龍彦のエッセー集……というべきものなのか。途中「このエッセー」と書いている箇所がいくつかあるし、全体を俯瞰してもまとまった一つの議論に終始しているわけでもないし、もともとはそういうものだったのだろう。澁澤龍彦の書籍といえばなんとなく迂遠で、読んでいるとしんどい、という本は多いのだが、この本は肩の力を抜いてさらっと書かれた印象があるから、かなり読みやすい。
 「肩の力を抜いてさらっと」とは言ったものの、やはり教養人の書いたものだから、次から次へと引用が出てくる。参照文献が一杯出てきて、引用を援護射撃させて自身の思考を補強していく。こうして作られた文章としての力強さはやはりかなわないものがある。

 澁澤龍彦は一貫してタブーに挑戦した作家・評論家という言い方もできる。本書でも「近親相姦」や「ロリータコンプレックス」を正面から語り、むしろそれこそが万人が心の奥底に飼っている悪魔である……と指摘している。
 私がこの本を手に取った理由は……なんだったかな? いつの間にかAmazonのほしいものリストに入れてあったからとりあえず買っておくか、というのが「買った切っ掛け」であって、「ほしいものリスト」の放り込んだときの動機はよく覚えていない。もしかすると表紙が球体関節人形だから、そちらの繋がりかも知れない。
 それで読んでいる最中から思ったのは、時代がはっきり違うから澁澤龍彦はそのように指摘していないが、これは「アニメ評論」の本だ、ということ。例えば上に挙げた『アリス』の評論について、主語を「アリス」から「美少女」あるいは「萌キャラ」といった言葉に置き換えてみよう。すると不思議なくらい、現代の美少女アニメについて語った文章に様変わりする。もしも現代に澁澤龍彦がまだ生きていて、夢中になってアニメを見るようになったら、ここに書いたようなことをそっくりそのまま、アニメを評論した文章として発表したことだろう。

 アニメ――ここでこう語る場合、「アニメーション全般」の話ではなく、日本のアニメに限定する。国際的には「ANIME」といえば日本制作のアニメを指し、「カートゥーン」や「ディズニー」などと違うジャンルを指している――について語るとき、性的、エロティシズムを抜きにして語るわけにはいかない。なにしろアニメのキャラクターは4頭身のデフォルメされたキャラクターであっても、なんともいえないエロスがここに込められている。だいたいアニメなんてものは“リアル”とは縁遠い姿形をしている。にも関わらず、そこには溢れるばかりの――それこそ実在人物の少女よりもはるかに過剰な性のエネルギーがそこに注がれている。
 エロスといえばなにもオッパイとか性器を露出しているものだけを指すだけではない。むしろそういうものにしかエロス/猥褻を感じないとすれば、甚だ問題だ。感性に欠陥がある、と言うしかない。むしろそういうものを隠しながらも、いかにして美少女キャラクターのエロスを感じさせることができるか、つまりは1枚のキャラ絵だけで欲情させられるか、描き手達は間違いなくこの一点に腐心し続けている。
 なぜそうなるかというと、美少女キャラクターには描き手の性的願望が最大値で注がれているから。そうしたキャラクターが人気を得るのは、描き手と受け手の両者の間に“共犯”の関係性が内面の深いところで結びつけられるからである。むしろそういう性の願望が透けて見えないキャラクターは、人気が出ない、とはっきり言ってしまったほうがいい。
(オリジナルの作り手はキャラ絵を一枚だけ描き、それを受け取った2次創作の絵描きがエロを描く。オリジナルがあえて書かなかったものを2次創作作家が描く。この構図が漫画・アニメの業界普遍的にある)
 美少女キャラクターのデフォルメはそういうエロスを感じやすいように、意図してデザインされている……と言っても良いだろう。
 しかしそうやって象徴化され、全身がツルツルで2色か3色に塗り分けられた“キャラクター”に似たものとは一体何であろうか? 実在の人間? いやそうではあるまい。“人形”だ。美少女キャラクターへの性的な嗜好は、人形に対する性的な嗜好によく似ている。だから美少女キャラクターに性的な思いを注ぎ続けている人々は、ピグマリオンコンプレクスの人々と通じあうものが必ずあるはずなのだ。

 最近はアニメの業界で隆盛しているものといえば“異世界転生もの”だ。この異世界転生ものについて説明するときに、よく「西洋中世風の世界観」と呼ぶが、あんなものが西洋中世なわけないだろう。あれを西洋中世と言ってしまう人は、教養がないか、あるいは教養のない人に向けてしかたなく説明している場合かのどちらかだろう。
 異世界転生もので死した主人公が飛ばされる場所とは、どう見たってあれは“アニメの世界”だ。アニメで構築された虚構世界に飛ばされたのだ。
 転生していく場所が異世界である――そう言ってしまうことにどんな利点があるのか? それは堂々と嘘をつけることである。
 最近のアニメはリアリティに傾きすぎるところがある。舞台は実在するどこそこをロケハンして作られているし、その上に立つキャラクターはあまり突飛な格好をさせるわけにはいかない。現実の流行に則ってファッションを選ばなくてはならないし、そのキャラクターが持っている身の回りのものを含めて、実在のものを配置していかなければならない。日常系アニメなのに、いきなり乗っている車が変身合体してしまってはその作品が持っているリアリティラインを崩すという問題が起きてしまう。
 ところが異世界転生ものであれば、「ファンタジーですから」となんでもござい、ということになる。現実ではあり得ない髪色にファッションに、不思議な現象が起きても「魔法です。ファンタジーですから」ということになる。
 するとキャラクターも好き放題自由にデザインできる。“リアリティ”という最近のアニメにかせられた制約も失う。作り手にとってはいくらでも自分な好きなもの、フェティシズムをそこに注ぎ放題になる。だからこそ異世界転生ものは人気あるジャンルになるし、そこから派生したキャラクターに人気が出てくるのも必然であるといえる。
 そうした願望の世界である、という本音を隠しつつ嘘と願望を描くことができる。異世界転生ものはある意味、“アニメの本懐”を成し遂げられるジャンルであるということも言える。

 さて、近親相姦である。
 漫画・アニメについて話をすると避けては通れない、あまりにも豊富なエロスの世界がある。知らないとは言わせない。私だってFANZAに一杯お金を注いで、PC内にエロ漫画コレクションを作っている。エロから出世していく漫画家やイラストレーターは今時ではなくずっとある傾向だ。いっそ、エロこそ漫画家やイラストレーターの本懐が発露する場所だといっていい。
 そうした中で多いジャンルの一角である近親相姦。なぜ彼らは近親相姦を求めるのか。実際の母や姉や妹に性的願望を持っていたのか――。いやきっとそうではあるまい。あくまでも虚構の中の近親相姦は“幻想”であるのだ。“幻想”であるからこそ、そこに情熱を注ぐことができる。頭の中にしかないユートピアがそこに生まれるのだ。
 こういう言い方は人によっては迂遠に感じるかも知れない。性とは現実的な生物学的なセックスが全てではない。そういうものははっきり言ってしまえば“動物的”なものであって何一つ興味惹かれるものでもなければ、猥褻でもエロスでもない。ただの男の裸、女の裸にエロスなどはないのである。脳内で作り出され、現実と隔離されたもの、あるいは虚構の中で演じられるもの、こうしたものの中にエロスは宿る。そうした幻想は実写のビデオグラムの中にも描かれるが、しかし実在人物が演じたものは“完全体”になり得ない。漫画、つまり所詮は絵に書かれたものに過ぎない、そういうものにこそ、幻想の性が本来的な姿となって現れる。触れることも声を聞くこともできず、体温すら感じられない、どころか存在すら感じられない完全な端境――そうした境界の向こう側にこそ性のユートピアは出現する。そしてその性のユートピアとはタブーの向こう側にあるもの。ここに近親相姦が出てくる。近親相姦は性のタブーの局地であるから、なんともいえない興奮と恍惚がそこにあるのである。
 したがって本当にエロいものとは、実在し得ないもの、実現し得ないもの。妄想の中でしかなく、その妄想をぬけぬけと絵にして表現できるメディアはエロ漫画のみということになる。
 そういった幻想は澁澤龍彦が語るようなロマン派の詩人の幻想とどこか一致しているものを感じさせる。一致していたものだということを、この本を読み通すことで理解し得る。エロ漫画は現代日本において突如出現した特殊なものというわけではなく、人類と文明が持っていた深層心理をあぶり出したものだった、といえる。

 澁澤龍彦は四谷シモンの少女人形とともに暮らしていたそうだ。羨ましい。私はかつて、人間と暮らしたいと思わない、猫とロボットと一緒に暮らしたいと語っていて、その思いは今も変わっていない。たった一人の夢想空間。私個人の美意識が込められた閉鎖した空間を現実に作りたいと思っている。その中に他人が入り込むと、この世界が壊れてしまうような気がしている。
 そんな中に、人形を娘としてお迎えして暮らす。きっと彩りある暮らしだろう。
 人形であるから、ある種の本懐……つまりセックスすることはできない。ラブドールならできる? いやいやできない。なぜなら人形は生身の人間ではない。人形をどんなに触れても、声をかけても、そのものは端境の向こう側。成長もしなければ穢れることもない。他人でもなければ、別の何かでもなく、人形でしかない。なにをしても独り言で、自慰でしかない。絵に描かれた美少女キャラクターに向けて精液を放つようなものである。
 人形という幻想の使者と生活をともにする。幻想を完成させるためにも、人形との暮らしはありかも知れない。

 ……いや、夜中に見ると怖いから、人形はやめておこうか。

 アニメは近代の産物、最新の流行を反映し、牽引するもの、と多くの人が思われているが、その内面に描かれているものは実は日本人、いやもっといえば人類が普遍的にもっている内面や呪術思考の具現化が描かれている。人類がもっとも奥深くに抱えているものに知らず知らずのうちに触れているからこそ、魅了される文化なのである。そういうものを、ここ最近でしか起きていない訳のわからない理屈で“規制”などして縛り付けてはならない。
 明らかにいってそのように書かれた本ではないが、しかし今の観念で読むと不思議の現代のアニメ読本に読めてしまう一冊。アニメを分解して見るためにも、この1冊を読んでみてはいかがだろうか。


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