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映画感想 名探偵ピカチュウ

名探偵ピカチュウ 予告

 今回視聴した作品は『名探偵ピカチュウ』。なぜこの映画なのかというと……昨日視聴した『万引き家族』が忘れられなくてね……。『万引き家族』を視聴した後、本当に落ち込んじゃって翌日もずっとモヤモヤしていて、「あの後、りんはどうなるんだろうか」とかえんえん考えてしまって、この状態で重い映画なんて観るなんてできないぞ、観たら死んじゃうぞ……という気がしたので、一回気分が晴れるような映画を観たい。そこでちょうどAmazon Prime Videoでプライム会員無料配信になっていた『名探偵ピカチュウ』を観よう……とこういう経緯。

 私の『ポケモン』履歴は、ニンテンドー3DS版『オメガルビー』のみ。これも「やってみたけれども、いまいちよくわからなかった」であまり良い印象がない。楽しめなかった。というわけで、ポケモン文化についてはいまいち理解していない……という立場。
 『名探偵ピカチュウ』については、体験版のみ遊んだ。主演はたしか内田雄馬に大川透だったね。体験版のみなので、劇場版がゲーム版のストーリーをどこまで忠実になぞっているかはわからない。
 というわけで、『ポケモン』の知識についてはほとんどない立場での感想文と言うことになります。よろしく。
 では映画の感想を……。

映画の感想

名探偵ピカチュウ y_5ceddbeecdeda

 冒頭はどこかの田舎の風景から始まる。保険会社に勤めるティム・グッドマンは友人とポケモン捕獲のため郊外へと冒険していた。
 という始まりだが、まずカメラが非常に綺麗。俳優に当たる影がソフトで、輪郭線の縁に入るハイライトがキラキラしている。影の深さが表現されているのだが、しかし俳優のシルエットがくっきり見える。美しいし、非常に品の良い撮り方をしている。ファミリー向け映画特有の、“何もかもがくっきり”という平凡な撮り方ではなく、陰影で奥行きを感じさせる画になっている。
 そんな自然の風景の中を、当たり前のようにポケモン達が飛び回っている。『ポケモン』の世界観は自然界のあらゆる動物がポケモンに置き換えられ、自然現象も擬ポケモン化した世界観だ。一方、ミュウツーのようなポケモンは対応する自然を持たないので「伝説のポケモン」と呼ばれている。(ポケモン知識はない、と言いながらそれくらいの知識はあるのよ)
 『ポケモン』の世界観では人類は古くからポケモンと共存しており、その能力を活かして生活に役立てていた。それが時代が下って能力を活かす場がエンタメ化していき、「ポケモンバトル」と呼ばれるイベントが開催されるに至る。

 これはどういうことかというと、犬や馬のような“人類のお供”が大量にいる……という世界観。改めて映画の映像でそういう世界観を現実的な光景として見てみると、「ああ、いいものだな」という気がした。というのも、“人類と寄り添う友人”が一杯いる……ということだから。こんなに人類の友人が一杯いる世界観だったら、人間も寂しくならないだろう。劇中、犬のように人間と一緒にふさふさのポケモンが歩いている光景を見ると、ああいいな、これが理想の世界かも知れない……という気がした。

 それで、映画の冒頭はそのポケモン、カラカラを捕獲しよう……という場面から始まる。私のイメージは野生馬を捕まえて調教する……という感じ。『ポケモン』のゲームをやってみたけれども、タマゴを孵化させる施設はあったけれども、いわゆるペットショップが存在していない。ポケモンが店頭販売されていないということは、あえてポケモンを自然状態に置き、それを捕獲するという、昔からやっている習慣を崩さずに来ているのだろう。これも街と自然のバランスを考えると、理想的な社会作りなのかも知れない。
 さて、そのポケモンたちだが、どうにも背景から浮いている感じがしている。映像のトーンにうまく馴染めていない。ポケモンの造形自体は非常にいい。漫画的なフォルムを残しつつ、現実的にあり得るかも知れない……と思わせる造形になっている。あのバランス感覚は見事。

 でも最終的な画面を見ると、どうにも質感が浮いて見える。もうちょっと自然の風景に溶け込ませればパーフェクトだったのだが、ちょっと惜しい。
 次に音。音がやけに浮いている。映像やポケモンがリアルに描き出されているのに、音だけが妙に軽くて、映像の中から浮いて聞こえてしまう。たぶん、ゲーム版の音響を意識して作られたのだと思うが、映像自体は非常に品のあるいい画が出てきているのだから、画のほうに合わせて欲しかった。
 音楽も同じで、頻繁に入ってくるシンセサイザーの音が映像から浮きだって聞こえてしまうのが残念。やはりゲーム版のメロディーを再現したのだと思うけど、映像になじんでいない。というか、全体を俯瞰して見ると、カメラだけが上質でその他の要素が追いつけていない感じがしている。画はとにかくいいものが出ているのだから、それ以外の要素を画に寄せて作って欲しかった感がある。

 物語を見ていこう。
 冒頭のシーンを終えて、8分でライムシティへ到着する。ライムシティはポケモンをボールの中に格納せず、当たり前のように人間と一緒に歩いていいとされている街である。
 ここの映像が非常に良い。ティムが駅から出て街に入っていく。カメラはやや低めから、都市の風景を見上げる。雑踏の中に当たり前のようにポケモンがいる。奥行きが光で表現されていて、逆光になっているのだがそれぞれのシルエットが潰れず、人々とポケモンの姿がきちんと見えるように作られている。非常に美しいワンシーンだし、人とポケモンが共存する風景がこの映画でしかない個性的な画面にしている。それにポケモンの造形美がやはり良く、人間とポケモンが風景の中に共存する、とかなり奇妙な光景なのに違和感がない。

 こういう風景を見て思ったことだが、ポケモンをボールの中に格納せず、トレーナーと一緒に歩く……という光景をデフォルトにしたほうがいいんじゃないだろうか。そのほうが賑やかだし、“人間とポケモン”の友好が見た目的にも伝わりやすくなる。単純に、人間の側をモフモフのポケモンが一緒になって歩いている、という光景がなんとも愛おしかったので、こういう場面をゲームでももっと見たいと思った。
 この都市に入った辺りでポケモンが風景になじんでいないような違和感はほとんど感じられなくなった。これはどうしてだろう……。カメラのトーンとポケモンの質感がうまく一致させられている感じがする。“見る側の慣れ”ではなく、都市での風景を前提に映像を作っていたからだろうか。

 さてさて、いよいよ19分目にしてピカチュウ登場。
 あああああああ~かわいい♥♥♥♥ めちゃくちゃ可愛い♥♥♥♥
 なんだこの可愛さ。最ッ高じゃないか。あんなピカチュウがいたら、もうえんえん膝に載せてわしゃわしゃしまくるさ。どこへ行くにも抱っこして歩くさ。寝るときももちろん同衾するさ。実写ピカチュウのデザイナー最高かよ。
 もうこのピカチュウが出てきた段階で映画の評価は定まった。もう最高。見て良かった。もうこれで映画感想終わりでいいや。あとはひたすらピカチュウ可愛いしか出てこないもの。主演俳優の演技がいまいちだとか、そういうのはもういいや。スーパースターが出てきてそれが可愛かったから、もう最高の映画。

 もうこの先、あまり書くことがないというか、書く気もなくなったのだけど、もうちょっとだけ続きを。
 ピカチュウが登場してきたわけだけど、撮り方がかなり良い。というのも、ピカチュウが常に動いている。
 ピカチュウと出会って翌朝、書斎の床一杯に書類がぶちまけられ、その周囲をピカチュウが歩き回っている。ピカチュウが喋りながら机の上に乗り、次の机に移って……と立体的な動きをするのだけど、カメラの動きがぴったり付いてきている。
 こういう撮り方、どうやっているのかわからないけど、まったく違和感もないし動き続ける画面は見ていて飽きない。よくできているな……とただただ感心する。

 ピカチュウは基本的にオッサン声。声優はライアン・レイノルズ……つまりデッドプールだ。『名探偵ピカチュウ』の中では一番有名かも知れない俳優を、むしろ顔を出させない、という判断がなかなか好印象。ピカチュウのようななんともいえない可愛いキャラクターにオッサン声、しかも頻繁に眉間に皺を作って……とギャップが多いのだけど、ピカチュウの可愛らしさは少しも崩れていない。ピカチュウのデザインの良さを物語っている。
 素のピカチュウの声は英語版でも大谷育江さんが務めているが、もはや名人芸。「ピカピカ」と言っていることは相当馬鹿げているのに、違和感がまったくないし、感情が伝わってくる。声優としての実力がいかに高いかがわかる。

 話はちょっと飛んで、35分ほどのところでバリヤードというポケモンが登場する。ここでのやり取りがお気に入りの場面。パントマイムを続けるポケモンに対して、パントマイムでやり返す。このワンシーンが非常にユニークだし、笑える一場面になっている。
 ゲームの『ポケモン』だとどうしても特殊能力を使った殴り合い……という単調さに陥りがちだけど、アドベンチャーとしてそれぞれのポケモンのやり取りを詳細に描き込んでいくとこうなるのか……と新たな発見がある一場面。バリヤードとの戦いは、実際はああいうものなのかも知れない。そう思うと次に『ポケモン』で遊ぶときに笑えるものになっているかも知れない。

 そのバリヤードとのやり取りを終えた後が、一般的に知られている形の「ポケモンバトル」が出てくる(といっても違法闘技場)。対戦相手はおなじみリザードン。ピカチュウと並んで皆勤賞の彼。劇場版でもちゃんと登場する。
 ここでのバトルもやはり見物で、ピカチュウが勢い込んで闘技場に入っていくのだけど、ようやく特殊能力が使えないことに気付く。そこから展開するしっちゃかめっちゃか。かなり愉快な一場面となっている。
 バリヤードとのポケモン……バトル? みたいな展開の後に本物のバトルが続きとして出てくる、という展開のうまさがあるし、おなじみのはずのポケモンバトルが崩壊して、色んなものを巻き込んでいく……という展開が楽しい。
 ただし引っ掛かりもあって、デジタルキャラクターのアクションと人間のアクションがいまいち馴染めていない。ポケモン達は派手に自由に動き回っているのに対して、人間のアクションが地味。あの勢いでポケモンがぶつかっているのだから、人間はもっと跳ねなければならないのでは……と感じる場面があった。
 それに周りで大騒ぎしている野次馬たちにしても、もっと力強く騒いでほしい。どうにも薄さを感じてしまう。

 ポケモン達が自由に動き回っているのに対して人間の動きが地味……というのはこの手の映画ではよくあること。デジタルキャラクターはあらゆる制約を無視して、好き放題にアクションができてしまうけど、人間は身体能力や重力の制限を受けてしまう。デジタルキャラクターと共存するような映画のアクションを見ると、どうにも人間の動きに不自由さを感じる。
 デジタルキャラクターはあんなに自由で軽やかに飛び回っているのに、人間達はどうして地味な立ち回りばかりなんだろう……という気がしてしまう。
 『名探偵ピカチュウ』でもそれは感じるところで、クライマックス、ピカチュウが巨大バルーンの上を軽やかに飛び移り、さらに鳥ポケモン・ピジョット(かな?違うかも)に飛び乗って……とアクロバティックなアクションを繰り広げているのだけど、ティムは地味な対話をやっているだけ。
 まあ仕方ないと言えば仕方ないのだけど。デジタルキャラクターの力強さの前に、人間の俳優がどんどん置いてけぼりになるな……。

 そろそろまとめ。
 『名探偵ピカチュウ』は総合的には楽しい映画。ポケモン達の造形が素晴らしく、都市の光景と混じっていても違和感がない。私には人間とポケモンが共存する都市風景が、理想世界に見えた。あと何度も書くが、ピカチュウ可愛い♥
(後で気になったが、外でポケモン達が粗相をした場合の対処はどうするのだろう? 犬の散歩の時は糞を回収するための袋を用意するものだけど、この映画のトレーナー達はそんなものを持ち歩いていない。この辺りの習慣はどうしているのだろう?)
 画が非常に美しく、この手のファミリー映画にあってかなり上品な画面を作っている。ただ、それに対して個々のイメージが貧相なのが惜しい。音楽、サウンドが変に浮きだっているし、登場人物も漫画的なルックスに振る舞いも大袈裟にやりがちになってしまっている。このミスマッチをうまく埋められていないところが、見ていると引っ掛かりを感じる部分になっている。画作りはいいのだから、個々の要素を画を基準に寄せて欲しかったところだ。
 展開は常に対話を途切らせることなく、次へ次へと繋げていくし、その間、動き回るピカチュウが画面を楽しくしてくれている。ピカチュウの動きを追いかけていくだけで映画が成立するようにできている。

 ただ後半に入り、研究所に潜入したところで引っ掛かりがある。侵入がいとも簡単に成功してしまうし、潜入するにしても登場人物達がカメラを警戒しなさすぎ。研究所で重要な証拠を発見する過程もあまりにも簡単すぎてご都合主義的に感じるし、その後パーティの離散も感情の動きが自然に感じられない。
 でもそれはさて置きとして、「楽しい映画だった」といえる。やはり素晴らしかったのはピカチュウの描写。よく映画は「女優をいかに美しく撮るか」、で決まる……という言い方がある。ストーリーが平凡でも、女優さえ美しく撮れていれば、それは映画として成立するんだ、と。この言い回しはどういうことかというと、その映画の“主役”がなんであるかの見極めができていて、それが魅力的に撮れているかどうか、という話だ。例えば『かもめ食堂』という私の好きな映画があるのだが、あの映画に出てくる食事は最高に美味そうに見える。たかがおにぎりでも、これは私の知らないおにぎりではないか……という気すらしてしまう。それは作り手側が『かもめ食堂』の主役はご飯だ、と見定めてそこに集中しているから。そして間違いなく美味そうに見えるから、あの映画はいい映画だといえる。

 『名探偵ピカチュウ』は徹頭徹尾ピカチュウが魅力的だった……に尽きる。この映画の主役はピカチュウで、そのピカチュウが最高に可愛かった。もうこれ以上に語ることがないくらい。ピカチュウがこれだけ可愛く見えるのだから、もうこの映画はそれだけの価値を持った作品だ、ということが言えてしまう。細かく引っ掛かりはあるけど、「ピカチュウが最高にかわいかった! 以上!」でもう話を終わりにしてもいい。そういう価値を持った作品だ。

 おまけとしてこんな話。
 もう色んなところで語られている話で聞いたこともあるかと思うが、どうして『名探偵ピカチュウ』はこんな高いクオリティで作品が成立したのか。実写映画特有の、「原作無視の監督のエゴが出まくり映画」に陥らず、原作に忠実で、なおかつそれをリッチな実写世界へと正しくアップデートされている。これはどういうことなのか。
 それは映画冒頭のロゴを見ればわかる。最初に参加会社のロゴが映し出されるが、そこに「東宝」と「ポケモンカンパニー」のロゴが出てくる。東宝は日本におけるポケモン映画の配給をずっとし続けている会社で、今回の『名探偵ピカチュウ』も日本では東宝が配給を担当している。どうしてここが大事なのかというと、東宝とポケモン社がともに映画に対して出資していた……という意味である。
(日本での配給を東宝に委ねる……というのも凄い話で、これは「商売のシマを他に委ねた」ということ。ここを譲歩する……ということで信頼関係を見て取れる)

 かつての大惨事映画、『スーパーマリオ 魔界帝国の女神』や『ドラゴンボール エボリューション』などは日本側は出資していない。どうして出資しなかったかというと、ハリウッドにも村社会的なところがあり、よそ者の出資を受け付けなかったから……というのがある。後に元ジャンプ編集長だった嶋鳥和彦が語るところによると、相当ふっかけられたようである。それこそ「払えるか」という金額を。
 ハリウッドにおいて一番発言力のある奴、というのは金を出した奴だ。原作者かなんだかわからないが、金を出さない奴の意見は聞かない。作り手に原作へのリスペクトがあったとしても、出資者が「こうしろ」と言ったら受け入れなければならない。……それでおかしな“実写版映画”が次々と作られるようになった。

 あれから時代は変わり、ハリウッドも不況。かつて出資していた会社が潰れたり、あまりにも高額になりすぎた映画事業から手を引いたりするようになった。その象徴となるのがコミック映画の隆盛。どうしてヒーロー映画があんなに一杯作られるようになったのか、というと技術の革新があったから、というのもあるが、マーベルがハリウッドの重要出資者になったから。金を出すようになったから、言うことを聞くようになった……というわけ。
 昔と違ってハリウッドは金不足で、いろんなところに門戸を開くようになった。かつてのような村社会的な対応をやめて、お金を出してくれるなら受け入れる……と方針を変えた。
 『名探偵ピカチュウ』も同じように東宝とポケモン社の出資を受け入れ、ハリウッドはお金を出した奴の意見は聞く、の世界だから、ポケモン社のつきっきりの監修も受け入れた。スタッフが世代的にみんなポケモンを通ってきた……というのも間違いなく大きい。こういう流れがあって、『名探偵ピカチュウ』はオリジナルに忠実でありながら、理想的な実写映画として成立した。

 そういうわけで、いま任天堂は『スーパーマリオ』のアニメ映画をイルミネーションとコラボレーションで制作しているが、私は内容についてまったく心配していない。というのも制作資金の大部分を任天堂側が出す……と報道にあったからだ。経緯を話すとかつて野球経営に回していた資金を映画制作に回す……ということだが、ということは任天堂側が制作そのものに出資している、ということだ。
 任天堂が出資しているはずだがから、内容についての発言権がしっかりあるはずで、制作側はそれを聞かねばならないという立場だから、おかしな映画ができるわけがない。
(これでつまらない映画ができてしまったら、単にスタッフの力量不足)
 それにCGキャラクターとしてのマリオのイメージはすでにゲームの段階ほうで確立されているわけだから、余程のことがない限りおかしなことにはならないでしょう。


 日本制作の漫画の実写化には否定的な理由は、単純に制作レベルの低さ。原作に忠実であっても、スタッフの力量不足が見えてしまう。もっときちんと画としてまとめられる監督が日本にいてくれたらなぁ……。

 この映画を見ての私の個人的な心象だが、私は『ポケモン オメガルビー』でしかポケモンを触れておらず、それもいまいち面白さがわからなかった。引っ掛かりを感じた理由は、ポケモン達があまり可愛いとは思えなかったから。グラフィックに対する不満や、ゲームの仕組みに対する不満とかいろいろあるのだけど。どうにもポケモン達がのっぺりした看板にしか思えず、生きている存在に、生命感を持った愛らしさを感じられずにいた。
 それが『名探偵ピカチュウ』では一人一人のポケモンが生きているように感じられた。さらに人間と一緒になって歩いている姿が、上にも描いたけれども理想郷のように感じられた。ポケモン達が愛らしく感じられたんだ。どうしてそう感じられたかというと、存在感や生命感があるように思えたから。
 ゲームのポケモンは質感がアニメ調だからのっぺりしているし、動きも単調。それにプレイヤーができることは攻撃にまつわるコマンドのみで、ポケモンを戦闘の道具としてしか扱えない。これがどうにもポケモン達が記号的に感じられる理由で、生命感を持った生き物には感じられなかった。
 それが映画では改めてポケモン達が生きているし、体温のある存在なんだ……という感覚を得ることができた。だからどのポケモンを見ても愛らしく感じられてくる。これで私は、やっと「ポケモンが可愛い」という感慨を得ることができた。ゲームのポケモンを一度やってみて「私にはポケモンは無理」と思っていたのだが、映画を経て「私でもポケモン行けるぞ」と意見を変えることができた。そういう意味で、私にとって『名探偵ピカチュウ』は貴重な体験をもたらしてくれた一作になった。


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