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映画感想 アクアマン

アクアマン 予告編

 映画『アクアマン』は2018年公開。アメリカでの公開初週は6740万ドルを稼ぎ出し、最終的には世界興収10億9000万ドルとDC映画史上最大のヒット作となった。監督のジェームズ・ワンは『ソウ』シリーズや『死霊館』シリーズなどホラーでおなじみの人ではあるが、『ワイルドスピードSKY』や本作『アクアマン』といった明るいエンターテインメントも手がけており、しかもいずれもヒットさせている才人である。

 映画『アクアマン』は孤独な灯台守のもとにニコール・キッドマンことアトランナ女王が逃亡してくるところから始まる。アトランナ女王はうろこをイメージした柄のスーツを着ており、これはたぶん人魚のイメージをしているのだけど、ちょっとダサい。アメコミヒーローはみんなスーツ姿だから、あちらの界隈では標準的な格好なのだけど。
 灯台守とアトランナ女王はやがて恋愛関係となり子供をもうけるが、間もなく海底世界からの追っ手が来て、連れ戻されてしまう。子供はアーサーと名付けられて成長し、海洋生物と対話ができる不思議な子供として育っていった……というここでタイトル。ちょっと長かったね。

 さらに成長してアーサーはアクアマンとして活動。海賊に襲撃された潜水艦の救助にあたっていた。この時、水夫が「アクアマンだ!」と声を上げる場面があるので、ということはあの界隈ではそこそこ知られた存在なんでしょう。アクアマンは地元でもヒーロー的な存在として受け入れられていて、それなりに知られている人物らしいのだけど、新聞報道になるとシルエットだけの「?」と示され、知名度はやや微妙なところのようだ。まあメディアに出ている人でもないので、そんなものでしょう。知っている人はよく知っている……と了解すれば充分でしょう。

 一方の海底王国の世界。アクアマンの他に、水中世界で暮らしている人は一杯いるようだが、その水中風景にかなり違和感がある。水の中は濁っているはずなので、映画のように遠くまで見通すことはできないはずだ――という話をしてしまうと俳優の顔や風景が見えなくなってしまうから、そこはスルーするとしましょう。まず気になったのは彼らの泳ぎ方。時々手足を動かして泳いでいるふうな芝居はあるが、泳いでいるというより浮かんでいる、というようなシーンが多い。
 これはなんだろう……? としばらく考えたが、少年アクアマンが泳いでいるシーンを観て、ああそうか、彼らは水中を“泳いでいる”のではなく“浮遊”しているのだ、と納得した。
 ということは、アクアマンは『スーパーマン』と対照するキャラクターなんだろう。スーパーマンが空を飛ぶのに対して、アクアマンは水中を飛ぶ。スーパーマンが優等生のいい子なのに対して、アクアマンはちょっと不良っぽく。スーパーマンが遠い宇宙の彼方が古里であるのに対して、アクアマンは水中に古里がある。『スーパーマン』の設定を海中に置き換えたのが『アクアマン』というわけだな……ふむふむ。

 スーパーマンは宇宙のどこかが古里だから帰還できないのだけど、アクアマンはわりと近くだからすぐに帰還でき、しかもそちらの政治情勢に巻き込まれることもある。
 と一人で疑問を感じて一人で納得しながら映画を見続ける。
 うん、私の映画の見方っていつもこんな感じよ。
 そう考えるとDCヒーローって古里がちゃんとあるよね。マーベルヒーローはみんな根無し草のイメージがある。彼らは突然変異体でああなった……という設定だから、そこで違いが出たのかも知れない。

 間もなくアクアマンはメラ王女に導かれて、海中都市アトランティスへ向かう。
 そのアトランティスが超文明風に描かれる。これは伝承に伝えられる海中に没したアトランティスが優れた文明を持っていた、というお話から来ているもので、それをさらに現代に向けてアップデートさせたらこうなった……というものだろう。その都市描写というものが、一昔前に子供雑誌に描かれた「未来の世界はこうなる!」という未来都市の光景を連想させるものがあって、私たちの文明はあの通りのものを手にすることができなかったけど、海底世界の人たちはその通りの都市世界を築くことができたんだな……とあの風景を見て妙にしみじみ。海中都市は「ワンダー」というより、不思議と「ノスタルジック」があるんだよね。

 ただ、引っ掛かりはあって、そのアトランティスの都市面積が、映画中の画面だと小さいように感じられた。あれだけの超文明を持った世界だったら人口もそれなりに大きいはずなのに、住宅問題はどのように解消しているのだろう? もしかするとアトランティスを首都として、その周辺に大小様々な“地方”があるんじゃないか……と想像したけど、そういう描写は特になし。お話に入れ込む必要はないけど、海底風景のあちこちに“村”を作ってほしかったね。
 それで、アトランティスでは上流階級ほど古色蒼然とした格好をしている。オーム王とか鎧甲冑姿が普段着。さらにはローマ闘技場のようなコロッセオもあったりする。
 洗練された超文明と古い文化や慣習が同居しているのはどういうことだろう? これは海底世界に文明の断絶が起きなかったから……と推測できる。我々の文明はこれまで何度も崩壊し、そのたびに文明の刷新が起きている。エジプト文明やギリシア時代やローマ時代にも優れた文明やそれにまつわっていた文化というものがあったが、中世が来て一度崩壊している。ローマ時代の娯楽……温泉や闘技場などはその時に一旦破棄され、その廃墟が現代に残されているだけである(その廃墟は今は遺産となっている)。

 どうしてかつての巨大文明が崩壊したのか、というと天然資源の枯渇。大きな文明を維持するためには相応の資源が必要だが、それを取り尽くしてしまえば自ずと文明は滅ぶ。ギリシアはかつて緑豊かな土地と伝えられているが、現在のギリシアの風景といえばどこまでも続く荒野。木が一本も生えていない山々である。
 ローマ帝国が始まった頃も、ヨーロッパには鬱蒼とした森があった。広大な密林が広がっていた。その密林も帝国時代末期には伐り尽くしていた。
 一方のアトランティスは“資源の枯渇”をずーっと経験せずに現代に至ったのだろう。なにしろ海底世界は広大。ヨーロッパは広大といえば広大だけど、それもせいぜい1018万㎢。対して海の面積はすべて合わせて3億6106万㎢。太平洋だけでも1億6620万㎢。桁が違う。しかも水棲人は地上人では採掘が難しいような海底資源にも平気で手を出すことができる。
 このあたりがアトランティスが超文明と古代文化を同居させる理由になっているのだろう。
 中世時代という断切を持たなかったから、海底世界に広がった都市というものをもっとみせて欲しかった感がある。アトランティス以外にも、小規模の街や村はきっとあったはずだろうに。この映画の見せ方だと、海底世界の文化が見えづらい。(文化を細々と見せていたら、冒険物語の展開を中断させてしまうから、難しいところだ)

 実はアトランティスも一度クライシスを経験している。それが映画中にも語られた「アトランティス水没事件」。
 でも不思議なことに、あの事件を通してでもアトランティス文明は崩壊しなかった……と説明されている。その代わりにアトランティスの人々は水中で呼吸ができるようになったり、完全にサカナっぽくなったり……とよくわからない変貌を遂げることになった。このあたりの説明はよくわからなかったです。
 映画中、偉大なる王と呼ばれるアトラン王の伝説はおよそ1000年前……と台詞の中にあった。これが初代アトランティス帝国の王というが、1000年前といったら、ローマ帝国時代より後だ。日本では平安時代で清少納言の『枕草子』、紫式部が『源氏物語』を書いた頃だ。1000年といったら、そんな途方もない過去でもないぞ。皇室の歴史は2000年もあるんだし。

 アトランティス帝国は地上に対して戦争を仕掛けたいと考えていた。なぜなら地上人は様々な汚染物を海中に流してくる。これは昔の鉄産業が、川に大量の砂を流し込んでいて、川下に住んでいた農家と仲が悪かった……みたいな話だと思えばいいのかな? それに、地上人は水棲人の存在を知らないわけだから、水棲人の漁業権を侵害しまくっているわけだし。そう考えると水棲人が地上人を嫌っている理由がなんとなくわかるように思える。
 ただ引っ掛かりに思えたのが、地上人が相変わらず水棲人の存在を知らなかったこと。オカルトの扱いになっていること。この設定は不自然に感じた。
 というのも、水棲人は私たち文明を遙かに上をいく文明・文化を築いている。海に潜れば、超巨大な海底都市が築かれているのを見ることができる。この存在を、地上人が知らないはずがない。海洋研究者だったら、絶対に存在を知っているはずだ。なのになぜ交流が一切なく、「水中世界のことを誰も知らない」ということになっているのだろう?

 いきなり戦争を仕掛けよう……という考え方もちょっと疑問だ。まず地上に上がって、交流を持ち、汚染物質を水中に流すな、漁業権を侵害するな……と権利を主張する、というところから始めるのが筋ではないだろうか。いきなり洪水を起こして大量虐殺、というのは洗練した文化を持った人々のすることとは思えない。水棲人による大洪水は地上の人々からしてみれば突然の空襲のようなもので、それを受けたのに関わらず、地上人の政府が水棲人の存在を把握せず、水棲人のほうも声明文を出さず、報復の話が出てこないのはなぜだろう?
 地上人との戦争を望むオーム王が、どういうわけか水棲人同士の大戦争に矛先を変え、オーシャンマスターになろう……という展開にしても「どうしてそうなった?」という感がある。水棲人を統一して、地上人との戦争に備えよう……みたいな感じだったのだと思うけど、そうするとずいぶん迂遠なことを……という気がしてしまう。
 ここはもうちょっと設定を修正して、地上人との文化交流を描いて、政治対立、それから戦争……という段階を踏んで描いたほうが、真実味が出たんじゃないだろうか。

 よくわからかったのは、地上人の潜水艦が水棲人の会談場面を襲撃するシーンがあること。どうして突然襲撃した? これは地上人が水棲人の存在を知っていて襲撃したか、あるいは海中で発見した未知の何かを敵軍の基地と勘違いして攻撃したのか。それがよりにもよって王族の会談の場面だから、なにかしらあるのかと思った。
 地上人がもしも水棲人の存在を知っていて襲撃をかけたとしたら、理由は考えられる。海中の天然資源だ。海中には地上人には手が出せない資源が一杯ある。その利益を得るため……。
 とか考えたのだけど、実際のところどうなのかよくわからない。

 水棲人たちの能力について、水棲人はみんな水中を“飛ぶ”ことができるようだ。おそらく王族に限った話だが、この上にさらに特殊能力も付与される。
 主人公アクアマンことアーサーは怪力と海洋生物とのコンタクト。水棲人はどうやらフィジカルの面でも相当に優れている……というのがデフォルトらしく、オーム王も相当強かった。それでもアクアマンの怪力はどこか規格外のものがある。
(水棲人はいわば「海中のクリプトン人だ」と思えば、怪力にも納得がいく)
 おそらく王族のみの技能というものがあって、それがあの世界観における王族たる由縁なのだろう。でも疑問が一つあって、あの能力はどうやって与えられるものなのだろうか。先天的なものなのか、後天的に学んで獲得するものなのか。

 主人公アーサーは地上人である灯台守との間に生まれた子供である。地上人との混血があの怪力をもたらした……という理由なら、水棲人は定期的に地上人を迎えて、婚姻などをするはずだ。ひょっとするとそれが各地に残る人魚伝説なのかも知れないが……でも、そうではないようだ。
 Wikipediaを見ていて気付いたが、原作設定ではアトランナ女王と魔術師アトランの間に生まれ、それで水生生物とテレパシーができるようになった……と説明されている。灯台守は単に育ての親だった。だから王族の能力は先天的なもので、親から部分的に継承されるものらしい。
 私がちょっと考えていたのは、誕生の時に神様からランダムで能力が付与されるのかな……と。だから運悪くカスみたいな能力が与えられたりするのかな……とか考えていた。どうやらそうではないようだ。

 アクアマンは怪力の持ち主だがその格闘スタイルはあくまでも我流。オーム王のようにきちんと鍛えられた武人の腕前には及ばず、敗北してしまう。
 ここからアクアマンとメラ王女の冒険が始まる。世界各所を巡る大冒険がここから始まるが、残念ながら全てのシーンでセット撮影となっている。背景と光の感触が合っていないし、いまいち奥行き感も感じられない画になっている。このあたりは予算との兼ね合い。提示された予算内でいかに画を作るか、というのが映画制作の基本だから、仕方ないところだろう。
 砂漠のシーンから古代都市に入っていく場面、長い滑り台を滑り落ちていくのだが、80年代の子供向け冒険映画でよくあったやつだ。今時代にまた見るとは思わなかった。楽しそうだなぁ……。
 次に出てくるのがシチリアだが、このシーンもセットだが、かなり広大に作られている。よくここまで作ったなぁ……と感心するレベル。追跡シーンはワンカットでえんえん長く続くシーンが多かったのだが、それでもほとんど破綻を起こさずシーンが繋がって見えるから、相当な作り込みだ。

 シチリアの場面で登場してくるのは宿敵ブラックマンタ! ……うわっ! ダッセ! いきなり東映ヒーローが出てきちゃったよ。テロリストが何か間違って変な名前を名乗りはじめる。
 ブラックマンタは一応の中ボスの扱い。冒頭の潜水艦のシーンで印象的な登場の仕方をしていた(きちんと物語を持っていたキャラな)のに中ボス止まり……というのはちょっと物足りないが、しかし貴種流離譚であるアクアマンサーガの大ボスにするには噛み合わないものがある。中途半端なキャラクターにとどまっている感があって残念なところだ。
 次回作にも登場するような含みを残して終わるが、果たして彼は念願のラスボスになれるだろうか。
 ……まずブラックマンタという名前を変えないとね。

 アクアマンとメラ王女はアトランタ王が残した暗号を解き、隠された海域へ行き着くことができる。そこにいたのが母親! 生きてたんかい!
 そうえいばかーちゃん、滅茶苦茶強かったね。隠された海域はまだ恐竜が生きている世界(『キングコング』の髑髏島みたいなところ)。あの世界の中を、20年間サバイバルして生存してきたんだろう。かーちゃんは凄い人だった。
(このあたりのエピソード、スピンオフにしない? 『ニコール・キッドマンの絶体絶命!恐竜島サバイバル!』というタイトルで)
 それで滝壺の裏に、秘密の空間があり、そこに三叉の矛トライデントが置かれている。そのトライデントは選ばれし者しか手にすることができないという。
 ああ、そこで「アーサー」なのか。ブルフィンチ版『アーサー王』が原モチーフだったわけね。
 ところで、トライデントの制作方法についてだけど、私は槍の制作方法について詳しくないのだけど、映画中で描かれたような方法で鉄を鍛えることってできるのだろうか? 型に溶かした金属を流し込んだだけだったら簡単に折れそうだし、大量生産できそうな感じがあるのだが……。

 さてもさても物語は水棲人同士の大戦争へと発展する。なんだか展開が強引だなぁという気もしないでもないが、このあたりのシーンはかなり凄い。こういった物量のシーンは「いかに作り手が頑張るか」に全てがかかっている。実際のシーンは相当に作り込まれているのが見ていてわかるから、それだけ頑張って(犠牲者出しながら)作ったのがよくわかる。
 細かいエフェクトにはちょっと引っ掛かりがある。水棲人の飛び道具は基本的にレーザー光線だが、それが映像的にも音響的にもどうにも安っぽさが出てしまう。スターウォーズの水中版みたいな趣が出てしまう。いや、ひょっとするとそういうふうに作ったのかも知れないけど。もうちょっと泥臭い兵器が出てきたほうが、リアリティは出たかも知れない……と思いながら、しかし作り込み自体は本当によくできている。

 最終的には一度は王族の立場を追われた主人公が、幾多の冒険をくぐり抜け、マジックアイテムを獲得して、本来の地位を取り戻していく。純粋たる貴種流離譚の物語であることがわかってくる。それをなんと2時間半にわたってどっしりと語る。この気前の良さ。
 普通のエンターテインメント映画にするなら、もうちょっと切って2時間以内に収めるところだけど、あえて2時間半という少し長めの尺で。アクアマンの誕生から、敗北、逃走、大冒険の末に王族としての証を得て頂点へと上り詰める。この過程がきちんと描かれている。ここまでしっかり描いたからこそ支持された理由に繋がったのだろう。
 そのうらぶれた王族の役を、マッチョ俳優のジェイソン・モモアが演じる。『コナン・ザ・バーバリアン』に出演したマッチョだ。どう見ても脇役に収まらない体格に風貌をしているジェイソン・モモアが上半身裸のスーパーヒーローを演じる。その立ち振る舞い方がそれらしく、ナイフを突き立てられても筋肉で跳ね返してしまう……普通に考えてあり得ないが、そうかも知れないと一瞬思わせるだけの見事な筋肉。伝統あるハリウッドのマッチョ俳優の系譜を受け継ぐマッチョスターとして、相応しい存在感だ。

 聞きかじりの話だけど、映画版の『アクアマン』は原作と人種が違うらしい。この頃は「人種が原作と違う」、ということがやかましく言われる時代である。声優でもキャラクターと同じ人種でないと、排除されてしまう時代だ。しかし『アクアマン』ではそういう批判はあまり聞かれない。といのもジェイソン・モモアは生い立ちが複雑で、ドイツ、アイルランド、アメリカ先住民の血を引き、ハワイで生まれ育ったという。ダイバーシティ時代を象徴するような背景を持った人物だ。だからこそ、原作と人種は違えど人々に受け入れられるキャラクターとなった……という話を聞いた。
 それに、やはり本人のチャーミングな一面が人々を魅了しているのだろう。人気あるマッチョ俳優に共通する特徴(と私は考える)だが、「笑顔が可愛い」のだ。ここ、誰も指摘しないけど。
 そうしたジェイソン・モモアがちょっと悪ぶったヒーローを演じて、それが苦難の末に王として舞い戻ってくる。この姿にみんな共感したのだ。ここが私がこの作品を良いと思ったところで、なににおいてもジェイソン・モモアの存在感。ジェイソン・モモアがハリウッドスタートしてのし上がっていく過程の物語……のようにも見えてしまう。
 そうした映画の外の色んなものとのリンクが感じられるからこそ、『アクアマン』は輝く作品になったのだろう。


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