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白線の上を歩く

 自宅が小・中・高と学校に囲まれているせいで、毎日学生を見かけます。逆に言うと、僕の方も見られているわけで。寝起きのままでゴミ出しなんてしようものなら、登校中の学生に白い目で見られてしまう。自意識過剰だとわかっていても、やっぱり気になるものです。

 さておき、このご時世ですから、学生たちもみんなマスクをしています。校庭を走り回る子どもたちも、それを見守る先生たちも、少し息苦しそう。当たり前だけど、自分の頃とは全然違うんだよな。そんなことを考えながら暗い気分に浸っていると、向こうからぴょんぴょんと跳ねる子たちが。

「白いところだけ歩くの!落ちたら終わりだよ!」

 なんだ。今の子も変わらないじゃないか。マスクで曇った眼鏡越しでも、ほんのちょっとだけ、気持ちが晴れた瞬間。

 この「白線から落ちたら負け!」ゲームは、退屈な登下校を楽しい遊びに変えてしまう、子どもならではの発想だと感心します。子どもってすごい。 

 ただ大人になった今では、ひどく残酷なゲームに思えます。その理由は、白線と人生を重ねてしまうから。

 白線上の人生があるとしたら、どんなものでしょう。志望校に進学して、希望する職に就いて、理想の伴侶を得ること。家を建て、子どもを授かり、その成長を見届け、最期には、家族に看取られながら、安らかに死ぬこと。こういう人生でしょうか。

 そこまでじゃなくても、悪事には手を染めず、まじめに明るく清らかに。まっとうに生きられたら、それで充分、白線の上にいるような気がします。白線というのはきっと、光の当たる暖かい場所のこと。そこに居たいとか、「そうありたい」と思える生き方なのでしょう。

 では、これらの条件を満たせない人生はどうなのか。白線から落ちたら、負けなのか。そんなことも考えてしまうのです。

 僕の白線は、ずっと前からかすれてしまっている。そんな実感があります。もちろん僕だって、日向を歩きたい。日向がいつか日だまりになるように。暖かいところに居たいと思います。

 でも、思いどおりにならないことも多いもの。才能とか努力とか運とか、便利な言葉はあるけれど。それだけでは納得できない部分もありますから。それに「自分にとっては白線」でも「他人から白線に見えるか」どうかは、やっぱり別物ですよね。

 一人ひとりの細い白線が。「こうありたい」という願いが寄り集まって、人間社会を形作っているのかもしれません。自分の白線を歩くことも大事。でも自分のことばかり考えていたら、気づかないうちに、他の誰かの白線を塗りつぶしてしまうかも。

 誰もが自分の思う白線の上を、自由に、害されることなく歩めたのなら。そういうものが、本当に多様性のある社会なのかもしれません。


撮影ワールド:神隠シンドローム -SpiritedAway Syndrome-
/Atto_あっと さん

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