【断片】日々、気付き、しばらく考えては、消えていくこと その149

善人というのは毒のない人じゃなくて毒がもう抜けた人だよ。
だから善人はみな元悪人なのだ。

この三日毎日数時間歩いている。多分三日で20時間ぐらい歩いた。歩いてる間はずっと考えごとをしている。
昔は悩みながら考えたが今は考えるが悩まない。考えれば考えるほど言葉が出てこなくなる。頭の中には言葉があるのだけど口から先に出てこない。

他人が気がついてTwitterで140文字以内で一所懸命説明していることが、ことわざや古事成語の一言で済むことがあるけれど、指摘してよいのかどうか迷うよね。

GWは出勤日以外ずっと散歩で歩き続けたなあ。1人で何時間も住宅街を歩き続ける。歩きながら寂しくなる。特に昔住んでいた下井草や西永福のあたりを歩いてると自分は他人からすると何の用もない人間だなと思う。また自分自身が随分無駄なことに時間を使ってしまったなあと。過ぎた時間は戻らないけど。
最近セカンドライフについて考える。私は若い頃から大した才能もないのに上昇志向ばかりが強かった。結果的にいつも上と先ばかり見ていて、目の前のものが視界に入らなかった。今になって思えば若い頃にしかできないことも多かったのだけど。特に友好関係では失敗が多かったな。
これからのセカンドライフではこれまでとは違った生き方をしよう。目の前にあるものについて体験しよう。もう先のことを考えるのはやめよう。過ぎて行った人たちは今何をしているのだろう。もう会うこともないのだろうけど。

大義というものはいわば傭兵のように仲間を雇って一緒に担ぐものではない。背負いたい人だけが背負うものだ。大義をともに担いでくれる人に差し上げられるものはまさにその大義だけだ。

最近の貧困のニュースを聞いているとやはり手に職を身につけるのは大事だなと思う。今なら特に在宅ワークができる仕事。そういう意味ではITエンジニアはとても助かるよね。

大学時代に福祉サークルで施設の子に勉強を教えていたことがあったんだけど、あれいまの自分でもう一度やってみたいな。大学時代の自分より教えてあげられることがたくさんあるな。とりあえずコンピュータ関係はあれこれ教えられるし、ついでに技術文書が読める程度の英語は教えたい。数学もね。
時々感じるのだけど、実はいいところの生まれで本人も努力して超一流の研究者になった人よりも私のように田舎の何もないところから独学でラボのエンジニアになった人の方が数が少ないんじゃないだろうか。
で同じような立場の子供達にせめてある程度以上の能力と知見を授けようと思ったら前者よりも後者の方が向いてるんじゃないかしら。
私には、私より優秀な人は世の中にたくさんいるけど、若い頃に私より無駄な試行錯誤をした人はあまりいないんじゃないかという妙な自負があるのだ。
私よりもずっと優秀なエンジニアや研究者はいくらでもいるけれど、彼らがかつての私のような田舎の貧困層の子どもたちの前で、いかにして自分が優秀になったかを説明しても子どもたちにはなんの参考にもならないだろう。それは絵に描いた餅でしかないだろう。
学ぶことは真似することに他ならないのだから真似できない例しか提示できないのであれば、たとえどんなに優秀であったとしても彼らのお手本になることはできないだろう。

今日歩きながらずっと考えていたこと。何故私は他人と関わりがないのか。これは以前から気にしていること。
今日誹謗中傷についてたくさんのツイートが流れてくるけれども、私自身はTwitterを10年やっていてまだ誰もブロックしたことがない。ミュートもしない。不思議な無風状態。
能天気だと思われるかもしれないが、要するに私の意見には賛否両論が起きないのですよ。
問題のある人を見つけると私はその問題の背景にあるものを考える。そこを問うてみると不思議と賛否両論が起こらない。我田引水な建前を聞いても仕方がないと思っている。それよりもその人の心根が気になる。
私は片耳で耳が遠い。でも聞こえなくないから他人が遠慮なく捲し立てることがある。私は聞き取れないから相手の表情を見る。すると大抵の場合相手の主張を無視しても相手が理解できることがわかる。相手が言いたいことは相手が言ってることじゃないんだ。
先日自由が丘で白人男性に絡まれた。ガラガラの電車に乗ろうとしたら夕日の逆光で降りようとしている白人に気がつかなかった。窓が開いて彼と鉢合わせしたら彼が堰を切ったように捲し立てた。どうも私を、降りようとする彼を押しのけて乗り込もうとした無礼者のように思ったらしい。私は笑ってしまった。
賛否両論が起きないということは私に賛同してくれる人もいないということだ。私は私の思うことを言う。聴いた人はなんの反応もなく通り過ぎていく。私には彼らの考えがわからず、彼らには私の考えがわからない。
80年代に今でいうヘイトスピーチやSNS上の誹謗中傷のようなものを仮想的に考えてどう対処していけばよいかについてよく考えていた。当時周囲にそう言ったものに関心を持つ人がおらず話し相手がいなかった。おそらくは在日だった母が1人で日本人社会に入ってきて周囲で私しか関心がなかったからだろう。
今になって思えば周囲の人たちの私への返事を要約すれば「だからそれがなんなの、そんなことはどうでもいいじゃない、気にしなければいいじゃない、スルーすればいいじゃない」ということだった。こういう人が今の日本の世論を支えているのだろう。結局善悪の問題ではなく価値観の問題だと気がついた。

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