【断片】日々、気付き、しばらく考えては、消えていくこと その63

永遠とは何かという議論において、以下の2つがしばしば言い争われる。

1.「未来永劫続くもの」

2.「無時間性」

しかし、世間の人たちにとって、それらはどうでもよいものである。

世間の人たちが求める永遠とは、以下のものである。

「(私にとって)自分の寿命よりも長持ちするもの」

しかし、これは正確には「永遠」というよりは、「半永遠(=半永久)」である。

世間の多くの人たちが真の永遠について思い至らないのは、自分の周りを半永久的なもので取り囲んでいるからだろう。

彼らは、自分が生きている間はそれで事足りていると思っているのだ。

宗教に求められる3つの条件:

1.ノーブランドであること

2.フリーソフトウェアであること

3.上限があること、卒業し得ること

(上限があるのは健全。むしろ、上限がないかのように喧伝しないこと。)

世間を世界としてみた場合の話:

はじめにうわさ話があった。

うわさ話は世間と共にあった。

うわさ話は世間であった。

このうわさ話は、初めに世間と共にあった。

万物はうわさ話によって成った。

私たちは、このうわさ話を出て、言葉(ロゴス)に至らなければならない。

生まれ変わりを期待する人たちへ:

生まれ変わりを期待するのは止めて、次の代に託したらどうだろうか。

あなたが滅んでも、あなたのよい影響を受けた後世の人たちがよろしくやってくれるのならば、それでよいではないか。

生まれ変わりを期待するということは、人間を車に例えて言えば、

「ある年式の車が何十年かの後にそのままの形で復刻されることを願う」

ようなものではないか。

(車が日々進化し、昔の型に戻らないように、人間も日々進化し、昔の型には戻らない。)

「個人」は「個性」によって特徴付けられるものだが、その個性はその時代、その場所においてしか、成り立たない。

つまり、仮に「死後の世界」なるものがあるにしても、そこにおいて魂は一度、いわば「リセット」されるのではないか。

(個性は量産されないものであり、あなたそのものが復刻される必要はない。)

もっと想像を働かせて言えば、死後の世界において、精神は、全体の中に、いわば「プール」されるのではないか。

若洲で思ったこと:

風力発電は風を止めてしまうわけだから、大気に影響はないのだろうか。

(以下、同じようなことの繰り返しではあるが)

幸福になるためには、幸運との区別を付けること。

幸福と幸運の違いは万人にいきわたるかどうか。

幸運は不運と表裏一体である。

あなたが幸運を掴むとき、誰かが不運を掴んでいる。

(だから、あなたにとって不要な幸運はつかまないこと。)

それに対して、幸福と不幸は何の因果関係もない。

すべての人が幸運であることはありえないが、

すべての人が幸福であることはありえる。

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