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もっとゆっくり味わいたい

斜陽国に住んでいると、日々反省を促される。
生産性が低い
論理展開が弱い
意味のないことを繰り返している

毎日、しょうもないことに時間を費やしてまた1日が過ぎてしまった
隙間時間にもっと詰め込めたはず
もっと栄養を考えて食事をした方がいい
人には優しく、言葉遣いには気をつけて

SNSでは毎日そんなメッセージにさらされて、やっぱり反省をして1日を終える。

先日、新しいお茶のカフェに行った。
日本ではじめてのドラフトティを生ビールを注ぐようにジョグになみなみと淹れて飲んだ。
店内に並ぶ企画商品にもワクワクした。

でも味がしなかった。

いや正しくは、美味しいお茶だったけど、深く味わえなかった。

もっともっと新しいものを産み続けなければ、変わらなければ衰退してしまう!
そうやって進んで新しい組み合わせにワクワクを感じても、深い味わいが感じられないのだ。

これはもう私が老いているのかもしれない。

そんなときに、台湾茶のお茶を淹れてくれるという友人から写真が一枚届いた。
はっとした。
器の蓮の花もその色も、そしてうっすらとした萌黄色のようなお茶の色も、その隣に映る茶葉も器も、細部まで行き届いていて美しい。

そこにはワクワクはなく、そのような営みを繰り返してきた人間への敬愛を感じて胸の奥に光が差してきた。
美しさは、日々の営みの賜物だ。

そこで頭に浮かんでくるのが、流行りの「丁寧な暮らし」。
そんな暮らしをしている人を様々なメディアで見て、素敵だなと思うと同時に、実はぞっとすることもある。

まるで取り残された縄文人が、外界のことは我関せず、閉じた自分の世界にこもっているように見えるからだ。

美しい在り様だと讃えながら、怖いと感じてしまうのは
そんなふうに自己満足をしていたら、ますます時代に取り残されてしまうじゃないか!と焦る気持ちの投影なのだ。

自己満足の小さな世界の中で暮らしていても、あるがままを楽しもうとしても、それだけでは片手落ちのような気がしている。

やはり、わたしは人に貢献したい。役に立ちたい。
生産性を上げて仕事をしたい。

そして、そうやって、「ちょっと違うよな」「ちょっと毎日忙しすぎるな」と思いながら、人のために尽力しながら、生活に喜びをとりれてがんばろう。

だからこそときには、生産性をかえりみず、ゆったりとした時間をもってエネルギーをチャージしていきたい。
美味しいものを食べるのもよし、美術館に行くもよし、器を見に行くのもよし、古い建築物を見て回るもよし
どれも今すぐできることだけど、
この写真の台湾茶のように、自分一人では見つけられなかった美しさに出会えるのは、人とつながっているからこそ。

そして、感覚を味わうのはあくまで自分自身なのだけど、やっぱり人とシェアする時間がもっと嬉しいに違いない。

ということで、芸術サークルみたいなのをやりたいなと思い始めていて。

お茶の彼女のように詳しい分野をもっている方やオタクの方が
それぞれの好きな分野を紹介しあうみたいなのやりたいなぁと。

教室の先生にまではなっていないけど、書道がうまかったり、絵がうまかったり美味しいお茶を淹れてくれたり、何かの手仕事をしていたり、女性だったらそういう分野一つはもっているんじゃないだろうか。
それぞれの楽しみの醍醐味を、知らないわたしに教えてちょーだい。

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