もしも村上春樹が小便を漏らしたら

「別に僕だって漏らしたいわけじゃない。ただ膀胱が限界を迎えているだけなんだ。雨が降り続く季節に、放水をしなければ、どんなダムだっていつかは溢れる。僕が言いたいのはそういう話だよ」
僕がそう伝えると、彼女はため息をついた。
ある種の洞窟から吹き上げてくる生温かい風のような、どこにもいかないため息だった。僕はどうやら、自分がまずいことを言ったらしいと気が付いた。

「あのね、私はちゃんと家を出る前にトイレに行くべきだと言ったわ。今日はひどく寒いし、おまけにあなたは私が化粧している間、ずっとビールを飲んでいたじゃない。どうして、出かける前にトイレに行こうっていう発想にならないわけ?」
「ちゃんとトイレに行ったよ。もちろん」
「その、”もちろん”、っていうの、言われたほうは頭にくるわよ。それもいつも言ってるわよね」

彼女の言葉を無視して、僕は空を見上げた。
冬の澄んだ光はいつの間にか厚い雲に隠れていて、おまけにひどい北風が吹いていた。
ゴム靴に踏まれた落ち葉が、床に落としたクラッカーのように音を立てた。そのたびに、僕の膀胱に柔らかな振動が加わった。
自分の体の中で、水面が静かに揺れるのを感じた。やれやれ。一体こんなときに何を言うべきだというのだろう?
なにしろ、駅まではまだ1km近くあるのだ。それに、今から家に戻っていたら、映画の上映時間には間に合わない。
この調子で言い合いをするくらいなら、その力で尿道を締め上げた方がまだマシというものだ。

「いいかい、僕は君の言われた通り、ちゃんとトイレにいった。いつものように。便座に座って、飛沫が散らないように心がけた。終わったあとに、床に置いていた君の陰毛を捨てさえもした。たしかに、”もちろん”と言ったことは謝る。でも、僕だってベストを尽くしたんだよ。それでも、尿意はやってくるんだよ。雪が解ければ春がやってくるようにね」
「どうしてビールなんか飲んだのよ」
「君の好きなチェーホフが言ってただろう。物語に銃が出てきたら打たれなければならない。それと同じことさ。ビールが冷蔵庫に入っていれば、それは飲まれることをただ待っているんだ」

交差点の向こう側に、コンビニエンス・ストアが見えてきた。本当なら駆け寄りたいところだが、これ以上の振動に膀胱が耐えられる自信が無い。そう思っているうちに、目の前の信号が赤に変わってしまった。
「私が好きなのはトルストイよ。それに、『チェーホフの銃』の例を安易に使うことはトレンディではないわ」
「どちらも同じロシア人だよ。雪は解けないし、春はやってこない。それに、今は尿意の話をしているんだ。銃はある意味で、”尿意”に関連すると思わない?」
彼女は再び深いため息をついた。やれやれ。僕だってため息をやめてくれ、と何度も彼女に言っているのだ。

「もうたくさんだわ。そんなにトイレに行きたいなら、目の前のコンビニエンス・ストアで借りればいいじゃない」
「もちろん、そのつもりだよ。君だって僕が漏らす姿を見たいわけじゃないだろう」

信号が青に変わった。右折待ちをしていたひどく長いトレーラーが、僕らの目の前を横切っていった。エンジンの振動で道路が鈍く揺れて、性器の先から尿がわずかに染み出るのを感じた。もしも市議会議員になる機会があれば、まずはこの交差点の道路を再整備したほうがいいかもしれない。
横断歩道を渡ったあと、彼女はコンビニエンス・ストアのドアの前で再びため息をついた。店内を見渡すと、ビールの冷蔵庫の奥のほうに、トイレを示す貼り紙が貼ってあった。チェーホフの時代から貼られていたような、薄汚い手書きの貼り紙だ。僕はその貼り紙を見て、ようやく安堵した。

もちろん、コンビニエンス・ストアのトイレは使用中だった。
やれやれ。僕は漏らした。


//はてなブックマークオープンチャットの返信用に、20分程度で書き上げたなにか。一部修正。
//細かいところで春樹感が欠けているので、いつか直したい

有料部分では書いた文章が全然村上春樹っぽくない、っていう愚痴と、村上春樹っぽい文章を書くために意識しているコツを書く。

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