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おとろしいカード

 朝の通勤の路上、コンビニエンスストアの前の敷地と歩道の間の縁石のあたりに、カードが一枚落ちていた。整然とそこにあったので、置かれていたという表現が正しいかもしれない。カードは伏せて置かれていて、青味の強い紫色のダイヤ格子の絵柄を見せていた。周囲に白く縁取りがなされていることから、よくあるトランプの図柄だと思った。

 わたしは、意味ありげに置かれているそれを、地面から拾い上げて自分の手でめくってみる様子を想像した。どういうわけだか、裏返したあとにあらわれる絵柄がジョーカーではないかと思えた。そしてその先に奇妙な出来事が次々に発生するという妄想までをもたくましくして、ぞっと震えた。君子、危うきに近寄らず。めくることはしなかった。

 地道に積み上げて生きることを旨としているわたしにとって、ギャンブルなどという言葉はもっとも自分の生き方からかけ離れている。賭け事は創作物の中に限られた話である。創作の世界で、敗北を積み重ねる登場人物への同情と、約束された勝利の予兆、溜めに溜めていよいよその大勝利がやってきた際の、その痛快さを楽しむためにある。好んで人と競い合う性格でもないが、かといって勝負事が嫌いなわけでもない。やるからには勝ちたいという人並みの欲望があるので、運任せにしてしまうことに抵抗感があるだけである。であるから、占いも本来は頼りにしない。

 なのに、好奇心は強い。やけにそのカードが頭に引っかかる。勤務時間中も、普段から頭に入らない職場の会議や上司のおしゃべりが、さらに雑音となって頭に入らない。終日のっぺりと過ごしてしまった。だんだんと心が募る。夜の帰宅の折にまだカードはそこにあるだろうか。まさかあるわけがない。しかし、万が一、もしそこにそのカードが残っていたら、そうしたら、わたしは屈んで、ためらわずそれをめくってしまうだろう。

 帰り道、同じ場所に、同じ模様の伏せられたカードは、やはりなかった。さすがに誰かが片づけたのだろうとほっと一息ついて、その場を立ち去ろうとした。視線を帰宅方面に移して歩き始めた。と、その刹那、2メートルほど先に、同じくらいの大きさの同じ質感のカード大のものが見えた。暗がりの中に薄く光りを放っていた。白い面が上になっており、もしそれが朝に見たものと同じカードだとしたら、何者かにめくられた形で、そこにあった。

 それは予想に反し、トランプの数字札でも絵札でもなかった。暗がりで、はっきりとしないまでも、見たことのない記号あるいは文字のようなものが羅列されていることがわかった。それは八文字×三行くらいの文字列のようだったが、その文字か記号かわからないものが二十三個書かれていて、最後の一文字の個所だけがブランクになっていた。そのきちんと埋まっていない文字列に不穏なものを嗅ぎ取り、わたしはそれを見ても触れてもならぬもののように思った。夏の暑さに由来するものとは違う種類の汗を首筋に感じ、その正体を判別しないままに立ち去った。

 その夜、わたしは酩酊した。疲れ切ったところにアルコールを摂取したために、したたかに酔っぱらい、夢を見た。このような時に見る夢は、かさついた、嫌な夢に決まっている。
 実家に帰省している。台所に父と母とわたしがいる。わたしと父だけが食卓で話している。いつも進んで話に割り込む母が、その時は入らず、明らかにいじけながら食事の準備をする。わたしは申し訳なさから母を手伝おうと思うが、父はまったく意に介さずわたしに話しかけるので、席を立てない。やがて食事の準備ができると、母はわたしに食事を出しながら、食べるように促す。わたしがそれに口をつけるや否や、母はわたしの精神の未熟を難詰して説教する。母は寂しさを怒りとしてしか表現できない。怒りを怒りとしてしか理解できない父は、いつの間にかいなくなっている。わたしが介在して両親のコミュニケーションが不全となる。家族の摩擦を引き起こす。一対一でしか意思疎通ができない自分のせいで、第三者の疎外が起こる。ひとりで外れていることはつらい。自分が存在しているためのいろいろの厄介は苦しい。人間関係が恐ろしい。そんなものを超越して、別の存在になりたい。

 そんな脈絡のない夢うつつ、「鬼頭碑」というでたらめな言葉が、まどろみをかき分けて頭に浮かんできた。例のカードの、最後の一文字分の空白はなにを意味するのか。あのカードが忌まわしい碑文であり、意味不明の記号のひとつひとつが鬼の首を意味していたとしたら。そうであれば、あとひとつ首が足りなかったのは、なぜか。最後のひとつを埋めるべき鬼が、そこに並ばぬように、今なおどこかを逃げているのではないか。自分がそのカードを拾い上げた瞬間、逃げた鬼が後ろから忍び寄り、身代わりとして、わたしの首を最後の欠けた部分に埋めこんでしまうのではないか。わたしは夢の中で後ろを振り返り、鬼を確認する。何者もあらわれない。鬼への復讐を題材にした国民的な人気アニメがあるが、自分はそれをかたくなに見ていないのである。

 ふいに父方の祖母が口癖のように言っていた「おっとろしいな」という言葉が口をついて出る。普段全く意識もしていない、極めてローカルな方言。「おとろしい」は、おそらく「恐ろしい」が訛ったもので、一般的にはそのまま「恐ろしい」の意味で用いられる。しかし、祖母が使う場合はもっぱら、「面倒くさい、煩わしい」という意味であった。恐ろしいことはもっぱら煩わしいのである。煩わしさは、人をそのことから遠ざける。遠ざけられたそのことは、さらに恐ろしいものと認識される。人間関係も、鬼の首も、ぜんぶおとろしいのだ。正体不明のカードによってもたらされたここまでの夢と妄想も、正気に戻りつつある今となっては、夏の盛りの倦怠で、実におとろしいものだったと感じられる。

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