摘心

 怒り狂います。わけもなくひとりでに。咲いた花をぜんぶ蹴り散らかしたくなる。しかしそんなこととてもできない、弱くて。すべての人に優しくしたい。どちらの自分も病気です。

一 春の最後

 描くのだった。
 葱を切ると、白い環状の身の重なりから水分がとめどなく溢れ出し、まな板の木目にしみこんでゆく。それは葱の血である。
 キッチンの葱の悲鳴が洋間の八帖を越えて枕元まで聞こえてくるのは、いまさっき夢のなかでiniの中指を切断し、絵を描けなくしてやったことの呵責からだった。感情の不気味な名残は心室から全身に送り出され、徐々に血液に薄まって広がりながら、現実に陰を残す。俺は残虐な人間なのでしょうか。
 二人ぶんの朝食とじぶんの弁当を作ることから同居人の朝は始まり、汁物のにおいで目を覚ますことからWTRの朝も始まる。朝のこの儀式の理由は語られないまま、三年が経った。
 同居人はWTRを努めて養育したがった。そう仕向けたつもりはないが断る理由もないから、おとなしく庇護のなか過ごしている。
 反面、笑顔で嘘を言うようになった。普段ふたりの間では使用しないゴム製品が相手の持ち物のなかに忍ばせてあるのをきのう知っても、へえと思うだけだった。半日など家を空ける用事から帰ってきたときなど、不思議なものでふたり以外のにおいがすることがあったのは、そういうことなのかとWTRなりに得心した。周到なひとだから手ぬかりでそうなっているわけではなさそうだった。かといってWTRに注がれる保護者のような愛情も、また時折物にするように突きたてられる性欲も、他の者に吸われてしまってWTRのぶんが残っていないということは一度もなかった。
 決定的な言葉を待っているという様子もない。毎朝それが喜びであるかのような顔をして飼育をはじめるこの人の気持ちは、結局WTRにはよくわからなかった。
 わからないといえば、iPhoneの黒い画面に映るじぶんの顔だった。想起しようとしたときはもとより鏡像でさえも知らない人にみえる。まるで空洞の、人間を抽象的にかたどっただけの色のない人形。このうすぼんやりとした形が他者には異なって見えるらしいことはWTRの21年間ではっきりしていたが、一体どんなふうなのかは人づてに聞くしかない。WTRにとってはいままでだれにも理解されたことのないこの感覚の答えを、悟るか諭されるかすることがこの生活に望む最終のめあてであったが、それには未だ至っていない。つまり、この関係はなに?
「おはよう。きょうは締め切りだっけ」 
上下灰色のスエットの図体がキッチンを埋め尽くしている。同居人の声は朝になるとどこか他人のようだった。昨晩、酷いことを言ったことへのあてつけかと、毅然とした態度で毛布にくるまった。
「はい」提出期限のことを締め切りと呼んでいるのが今更恥ずかしい。「今回のが先生の気に入ったら、卒業制作もこのまま通るかもしれません」
「俺にも見せてくれればな。きみ見せたがらないからね」
こんろの火をとめる音に、箸の先がフライパンの表面をなでる音が続く。
 同居人は、テレビ番組の脚本に携わっているからといってWTRの小説に口を出したがった。しかし食い扶持にしていることと審美眼を持つこととは関係がないので、
「かぼちゃが安かったので、きょうはこれ」
母親のいいつけを守って絶対に、書き途中のものを見せることはなかったし、同居人には完成したあとでも見せる気はなかった。
「それなんなんですか。よく作っていますけど」
両親の関係がよくなかった数年間、母はWTRに様々な誓いを立てさせた。
「かぼちゃと豚肉を炒めたもの」
訳知り顔の他人に小説を見せない。書くときには自分の感覚を優先する。書くことを承認されるための仕事にしない。訳知り顔の他人というのは、仏文学者である夫のことを指してそう言っていたのだが、母親のこの神経の過敏さだけがWTRには遺伝した。
「今日講義ないよね。あとでもいいから食べなよ。ずっと寝てるんじゃなくて」
あした天変地異により日本語話者が全滅し、じぶんだけがひとり残されたとしても書き続けるであろう母とは違い、WTRは惰性で書くことにすがっている。
 同居人が立ち働きながら、狭いダイニングテーブルのうえで食事をしたり、物流倉庫で死んだ大学生に関するニュースをテレビで見たり、スマートフォンできょうの仕事のことを確認したりし、その合間合間にひとつずつ布をつかまえて仕事着に着替えていくのをWTRは、洗って干したばかりの毛布のすきまから眺めた。
「きっと優秀な子は優秀なりにいろんなプレッシャーがあるんだろうな」バスケットボールのユニフォームを着た長谷川朔が真っ白な歯を見せて笑っている。倉庫の塀の外には献花台が設けられ、連日花を手向ける人が絶えないらしい。「そのぶんプライドも高くなるし。真面目すぎると死にたくもなるかもな」
「お花きれいですね」
長谷川くんはそんなことで死んだわけじゃないと思う。今のWTRにとって彼の死は重要なことだった。
 あの白髪混じりの短い髪や赤子のように産毛の生えた丸いお腹を撫でながら寝た昨日も、夢でiniの指を奪ったのを思い出し、震える。このように、人間には相手からも自分からも見えない部分があって、それはときおり夢や死といった形で顕現する。
 そんな小説を書いてみたい、怖くてできないけど。ぼくたちの暴力には理由なんてない。優しい場所を求めている。ベランダから差す春の最後のにおいがする。

ニ 時の先端

 創った気になっているだけなのでは。自分ひとりには才能も素養もないのに、業界に滑りこんだらあとは毎日朝から晩まで高校生でもできるような雑用してるだけでクリエイティブ気取れるんだからいいですね。
 冗談交じりに好き勝手に言いあう時間が、同居人とのあいだにはあった。酒を飲むとだいたいそういうふうになった。
 それが昨夜の場合は提出物のタイトルが決まらないいらだちのせいもあって、精いっぱいの憎まれ口を叩いたつもりだった。まもなく、石川台です。しかし同居人は笑って聞いているだけで張り合いがなかった。We will soon make a brief stop at 石川台。アナウンスから数十秒後、石川台と貼られた柱のまえで車窓の景色は動画から写真に変わった。
 時間をつかみたい。常に意識されてきた主題だった。時間には先端があるのに常に伸び続けているので、そのなかを生きている人には先端を知覚できない。気づかずに生きていればただ伸びつづける時間にも点としての瞬間があるが、生まれてから死ぬまでの短い線としてしか知覚されない。それはすごく孤独でさびしいが、同時にものごとの揺るがない真実のようでもあり、無理だとわかっていながらも鋭利な時の先端を文筆によって描きとりたかった。
 ホームに降りるとアスファルトの熱さと近ごろにわかに湿りはじめた空気が肌を包む。この町に用があるのはひとりを訪ねるためだから、そのひとりがこの町のすべてを作っているかのような錯覚がある。この熱も汗もiniの指が作り出したもの。絵を描くなんて卑怯だ。

「文学少年気取りめ」冬の講評を思いだす。研究室は狭い部屋の四方が本棚となっており、倒れかかってきそうな数百の背表紙に囲まれている。WTRは文学のことも歴史のこともよく知らなかった。母親が作家だからじぶんも作家だった。「まず主人公が前半と後半で二人いるのは?」
「対比させたいからです」
教授は毎度ひどく貶した。しかし顔や口調は優しい中年で、WTRは課題のたびに変なものを提出しては怒られるのを楽しみにした。
「対比ね、そもそもふたりも主人公を使って書くほどのことかな。単純に経済的ではない。習作で選択したのはだれなの」
「樋口一葉」
一度もまともに読んだことがない。たけくらべの最初と最後の有名な場面だけを、それも現代語で読んだのみだった。
 一葉は描写が端的だよ。あなたの書くものは生活が出てない、リアリティがなく、長ったらしい。実験的な語りのつもりで内的独白というか、人称を崩すのをやってるつもりかもしれないけど、読みにくいと思うな。三人称なら三人称で書ききる力に自信を持ちなさいね。このゼミ取る人たちはすぐ村上春樹だの、カフカだの。きみはなんだっけ、コクトーとかカミュか。できる頭もないのに。まずはひとりの人間があるできごとを通して変化するさまを描く。あなたの気持ちだけなら小説にする意味はないのですよ。だれかが読んで理解し、ひとつの風景が絵として心に残ってはじめて小説です。

 駅舎を出ると狭い道は左へ傾斜があり、その斜面を流れ落ちる水のように人々も下る。それに合流し、質素な踏切をこえてしばらくすると商店街の始まりを示す門が塗装の朽ちて殆ど読めないまま建っている。門の向こうは店店も古びており、きょうの日差しに脱色されたような顔をしているが実際には何十年ものあいだの風食のせいである。
 細い道に入っていこうと曲がったとき突然眼前に、横倒しになった手押し車と、地面に崩れじぶんの足首を抑えて途方に暮れている老婦人が現れた。ひとりの人間があるできごとを通して変化するさまとは?
「うわあ。大丈夫ですか」
「あっ、違うんです、私」老人は涼し気な白い帽子の広いつばの下からWTRを見上げ、恥ずかしそうに笑った「転んじゃったの。すみません。もともと足が悪くて。知らない道を通るのはだめね。でも大丈夫なんです、怪我はしてないから」
それから自分で立とうと勢いをつけたが、足に力が入っていないようで、すぐに尻もちをついてしまう。
「うわうわ」WTRは手押し車を立ててやりながら、皺の寄った手を握った。「立てますか」
「あら、まあ。お世話かけますね」
最終的にWTRと老婆は腰をかがめて引き合うようにしてやっと立ち上がった。そのまま両手を車の取っ手に導いてやる。
 ふたりでしばらく道を行く。その人は清潔な身なりをしていて、品のある声でしきりに歳をとっていることを謝った。WTRはただ眉を八の字にして笑うしかない。
「見て、多肉植物というのよ。知ってる?」老いた人は人家の低い塀の上に置かれた鉢を指差した。ふたり立ち止まって眺めた。「私も育ててるの。葉っぱがかわいくてね」
「はあ」小ぶりの丸い鉢から伸びた植物のその葉の分厚さは乳白色の鉱物の結晶のたたずまいをしている。「葉っぱが花のような形をしていますね」
「そうね、面白いのよ、あらこの子たちは目がつぶしてあるわね」
「めが?」
植物のめをつぶすという作業について、次の曲がり角で別れるまで説明を受けることになったWTRは、暗示的でいい言葉だと思った。
「では、本当にありがとう。あなたはかみさまでした」角を曲って別れ際、ふいに震える手を差しだされ、WTRは求められるままに握手をした。「テレビに出られてる方よね。俳優の。いつも拝見してます」
「出てません」
「冗談ですよ、あまり綺麗なお顔してるから」老婦人は手を離すと、小さく礼をして、別の道を向いて歩き出す。「きょうはいい思い出になりました」

三 自己の像

 四本の指を挿入しようとしているiniの腰に脚をまとわりつけると、拒否の合図だった。最中に意味のある言葉を喋ることを嫌うiniは、まえに一度WTRの顔面を拳でぶちながら口を利くなと命令したことがあった。それからは共寝の際まともな発話をしないように心がけている。
 どの加虐も痛みに感じないように甘かった。脊髄が麻酔されると、互いの組織は境目を失ってひとつの不随意な収縮となる。乱れた顔を見てiniは征服欲が充足されてか、WTRの頭髪を撫でては子供をあやす文言を低く唱える。律動は心音が収まるまでゆるやかに続いた。
 そういったときにだけWTRの姿は確かで、満ち足りた。iniの目のなかにこの顔かたち、身体がどのように感受されるのかが声や仕草で伝えられるたびに、鏡よりも濃い輪郭の自己の像を獲得することができた。暗い空洞の奥に放たれた色彩は体液に溶けだし、WTRを正常にした。
「俺は疲れてしまいました。寝てしまうかもしれません。いいですか」
「どうぞ」
iniは決まって、仕事で疲れているからと事前に寝の許可を取り、事後には実際すぐに寝に入った。WTRはどこがといえばiniの顔が好きで、動かない、無防備な顔を一番近くで見られることはWTRにとって得であったから、一向に構わなかった。不安が形にならないように、この顔をあまり深く見つめないようにしていた。

「動くなって言わないのですか」
去年の春、WTRははじめて自分の姿を描かれるということをした。椅子から身を乗り出して眺める、出窓に飾られた小手毬の造形。画家が指先を摩擦した発光からこの花が作りだされるさまを想像してみる。
「生きているのだから動いていいですよ。自然にしてください」
「あ、そうですか。ずっと同じ姿勢を強いられるのかと」
iniの住む部屋は細長い特殊な形をしており、ほかの生き物の巣穴のようなその空間を三等分する間隔で壁と扉が設けられていた。扉をすべて開けておくと、大きな出窓のある最も奥の部屋から玄関までが風と光の通り道となり、生活を見渡すことができる。
 出窓の部屋にはiniが仕事以外で作った工作や絵がおかれていたが、抽象的なものばかりだった。細長い板に四角く着色を施しただけに見えるもの、三角の薄い金属を数枚重ねただけに見えるもの、親指でむにむにと押したようなくぼみがある以外に特徴のない球状の陶器。それらを愛しそうに眺めて「普段こういう遊びをしてます」と言うiniを見つめるWTRの表情が呆然としていたからか、
「じゃあ、じゃあそうですね。ちょっと自慢に付き合ってください」
iniはおもむろにデッサンをはじめたのだった。
 三時間後完成したものを見ながら、じぶんの像が四角い画用紙のなかに閉じ込められて、鉛筆だけで描かれたもののはずが青や黄などの軽やかな色が確かに見えてくるような不思議な知覚がはじめてで楽しく、そのあまり隣に並んでいたiniの指を握った。日が暮れかかっていた。
「研究会で会ったときからかわいい子だなと思っていました」あとからアプリを通じて声をかけてきたのはiniのほうだった。「描けてよかったです」
いつもこうして捕まえるのだろうか。穿った見方をしようとするよりもiniがWTRの両耳を掴んで引き寄せるのが早かった。西日に透けた虹彩の色相が相互に確認され、WTRは疑いもなく抱擁に応えた。
 それから一年も寝顔を見つめてWTRはいまやっと気づいた。iniの目尻の柔らかい部分の皮膚が生まれつき淡い桃色を帯びている。
 ああ、こんなことで終わりなんだ。窓から流入する風は汗を蒸発させながら通り抜ける。
 泣きはらしたようにも、水彩で着色したようにも見える。あるいはこの人のことだから本当に塗っちゃったのでは? 寝ているのをいいことに、指をそこにあてがって、なぞるように優しく擦ったが、消えなかった。もう一度。やはり消えない。もう一度。なんてかわいい特徴なのだろう。はじめて知った。
 体中、おなじような場所を探していく。ああ、もう終わりなんだ、永遠にしたかった。右手中指の根本にはめられた指輪にたどりつき、それについても同様に外してやろうとする。予想はしていたが、やはり外れない。予備校時代の素描の練習がためにいびつな中指の関節、その指に、一番大切な指に。
「教えてくださいよ。だれにもらったんですか」
指輪に爪をたてたとき、iniの手がふいにWTRを握りかえした。ベッドの上はあかりを灯さなくても昼の陽光でひんやりと明るい。
「そうだよ」
iniは目を閉じたままそう答えた。
 指をほどき、眠りに帰っていく。追いかけようとWTRもまたその手に頬を寄せた。窓の近くを鳥が二羽飛んでゆく。彼らは伸び続ける時間と同じ速さで離れていった。指輪を象った刺青のインクは涙に溶け出してシーツを丸く、濃紺に染めるかもしれない。もしそうなったら迷惑ですよねとひとり笑った。この人の指から伸びる糸の先をぼくは知らない。

 しっとりとした布の袋のなかに羽をぱんぱんに詰め込んだ、継ぎ目のないソファに体を沈める。ラジオはあの大学生のことを事細かに喋った。
「このひとのこと、知ってますか」浴室から出てほとんどまっすぐ隣に歩いてきたiniの全身から蒸気を感じ、距離を置く。「ちゃんと拭いたらどうですか。犬でももっと水切ってから風呂あがりますよ」
「知らなくてもいいことなのであまり知りません」iniは濡れた指のままWTRの頬の肉をつまんでちぎりとろうとする。「なぜ若くて優秀な人が死んだら、みんな悲しむのでしょうか。毎日たくさんの人が死んでいるのに」
「キャハリンマンフフィールドみはひなこほを言う」
長谷川朔には悩みなどなかったということがしきりに伝えられた。自室からは遺書が発見されたが、そのなかでも死ぬ理由は明らかにされていない。しばらくは事件現場となった倉庫の建設上の問題についてだとか、労働環境について責めるような向きもあったが、これ以上論じてもしかたないから世間はそろそろ次の事件の話題で流し、忘れる予定のようだった。
「ぼくはこの子の気持ちをわかりたいんです」
だから描かなくてはいけない。そうだ、だからこそ残さなくてはいけない。
「亘くんの目にはみんな、登場人物なんだね」
もうじき、この人を忘れなくてはいけない。相手は自分のことをもう忘れかけているのに、自分が相手のことを忘れるのはいつも出遅れる。そして次のiniを見つけるまで、前のiniの指を切断する夢を繰り返し見て、苦しむ。
「iniさんが言うならそうかもしれません。悪いことだと思いますか。俺って残虐な人間でしょうか」
長谷川くんはぼくが選ばなかった道を選んだ。もしかしたらぼくが通るべきだった道を。心のなかで毎晩、花を手向ける。
「てめえで決めなさい」
iniの手が両目を覆う。柔らかく、なにも見えない。世界と自分をつなぐ糸が、だれかと自分をつなぐ最後の糸が引きのばされて、耐えかねて切れた。しかし生きようとする別の神経は寄り集まり隆起し、新しい枝を形作り、光に向かって伸びはじめる。いま、この感覚を書かなければいけない。
 渋いにおいのシャンプー。髪を洗ったあと、同じシャンプーを一滴取ってひげまで洗うiniの癖。些細な習慣をさもふたりだけの秘密のように書きとめる。存在させる。この人の顔の忘れかたの算段をするよりも今は、閃きだった。
 あなたはあなたの像を、わたしはわたしの像を。

四 おしまい

 早朝の白光はやにの染みついた窓ガラスを貫通して部屋に差し、朽ちた畳に茶色く堆積する。窓枠にハンガーで吊られたままの喪服だけがあり、反対の壁までべったりと陰をつくる。その陰のなかに足を投げだし柱に背をもたせかけ、ぐらついた臼歯の一本を舌先で遊ぶのとたばこの煙を吐くのを繰りかえしてみる。小島信人の朝は窓の日差しをにらむことに始まる。
 まばたきを絶つ。光線に眼球が焼けていくのを楽しむ。しかしやがて両まぶたはひとりでに震えはじめ、意に反し深く噛み合った。目頭から涙液が滲みだす。
 まぶしい。照らされた顔全体が熱を持つ。まぶたに流れている血も赤い。
「おしまいです」それから医者は紫外線治療に用いる機器のスイッチを落とした。青い光を照射するための円状の器具が顔前から外されると、その向こう側でただ立ってみていた母親と目が合う。「あとは塗り薬を出しますから塗ってあげてください」
子供は椅子から立ち上がり、母親の腰にまとわりつく。これはなにをなおすきかいなの? 五歳の信人にも、四十歳の信人にもわからないままだった。
 それから数年間は、治療の効果なのか、それとも治療とは全く関係のないことなのかはわからないが、どうともない時期を経た。しかし思春期をまえにして信人の顔面によくない病変が現れ、徐々に広がっていった。その病変というのは命に障るものではなく、ひとから不浄がられる程度のものだった。
 歯を磨きながら、母が顔面の病の治療を強く勧めてきた理由はなんだったろうかと考える。焼き場では親戚からの目を始終逃げ続けた。かたん。
 シンクに石の粒が落ちるような音がして目を向ける。炎症する歯茎から押し出されるように排泄された臼歯の一本だった。

 信人が倉庫での仕事に向かうときには必ずマスクとニット帽を着けた。新興住宅地のなか古いままで残っているアパートをあとにすると駅に歩く。細い道を二度曲がると、駅前のロータリーに続く通りに出る。
 タクシーのりばの横に、人員を拾って倉庫まで走るためのバスが来る。10分ほどは遅れることもあったが、今日はまともな時間に到着している。愉快だ。最後部の座席までぴょんぴょん飛ぶように乗り込む。車体が少し左右に揺れた。車内の人々はみな頭をがっくりと垂れて携帯の画面を見ている。走り出したバスの弾むのに合わせて鼻歌が漏れた。
 青く爽やかな朝にはいつも花屋が見えた。銀行の隣にある小さな花屋である。さくちゃんが家の手伝いで、さくちゃんのところはもっと大きい花屋らしいけど、店に立つときはどんなふうだろう。想像する。
「いらっしゃいませ」
さくちゃんが笑顔でお客さんを迎えている。緑の前掛けが小さく見える。咲いて並んだ花に負けないくらいさくちゃんの笑顔は魔法だ。すぐに客の懐に入り込んでしまう。
「五千円くらいで花束を作ってほしいんですけど」
「はい、ありがとうございます。どのようなご用途でしょうか」
「会社の人の異動に」
その日はじめて来店した若い女性客。頬に手をあてながら、花を物色するふりをしている。しかし本当は目の前の若い店員にどきまぎしているのだ。
「色はなにか、ありますか、どれがいいとか」
「ううんどうしよう、黄色かなあ」
「大きさはどうでしょうか」
「あんまり大きいと邪魔かもしれないので」
「そうしましたら、黄色いバラとミモザを使って、小さめにしましょうか」
作業台に包装紙を広げる。手際よく花を集めてはそのうえに寝かせていくさくちゃん。けれども急に手順がわからなくなっちゃって、おろおろしはじめる。首を伸ばして階段の上にいる父親を呼ぶ。
「とうちゃーん、ちょっと来て」
彼は父ちゃんと呼ぶのだ父親のことを!
 薫風は剥離した黄薔薇の花弁を夢の外まで運び、房総往還を塗り替える。バスは海辺の工業団地を通り過ぎると、人為的に緑化された細い道へと入った。並木の葉に散り散りに反射する朝焼けの粒を摘みとり、香る空想をする。梱包の二時間を終えたらさくちゃんと会えるんだ、がんばるね。
 バスは三棟の倉庫の前に停まる。倉庫の屋根を開けて上から見てみると中はそれぞれが四区画に割られており、一区画のなかがさらに間仕切りされて、部屋の体をなしている。
 部屋は天井まである棚にずらりと商品を保管してあるものがほとんどだが、梱包や加工のために作業台が設置されたり、小規模なベルトコンベアが敷いてある部屋もある。それぞれの部屋を指すときは階層とアルファベットを合わせて呼ぶこととし、たとえば信人は朝六時からあたるのは、B3での加工と梱包である。
「あの人あしたからどうするんでしょうね、こんな仕事でも解雇ってほんとにあるんですね」
「しっ、聞こえるよ」
反対側の角でセーターを畳んで袋詰めしている女たちが、信人には聞こえないと思って話している。加工、梱包の作業に当たっている五人は信人を除いては全員女だった。
「噂だけど、わたしが入る前だから、もう十何年もこれやってるらしいよ」
「あの歳になるまで?」
「たまにこっち見てて、気持ち悪いのよ」
「やだね。このあいだ更衣室の泥棒って……」
「そう、そうなんじゃないかって私、言ったのよ前田さんに。あんまり調べてくれなかったけど」

五 おもいで

 誠に申し訳ないが、今の社長が機械化と外国人実習生の受け入れに積極的で、今回こういうことになりました。これは小島さんだけでなくて、他のパートさんたちも同じです。組合で一応次の就業のお手伝いというか、斡旋みたいなこともさせてもらってますが、小島さんっていまおいくつ……。
「いや、それは別にどうでもいいんです」
あのとき信人は無意識にそう言った。
 倉庫の中央は吹き抜けになっていて、信人のいる衣料品の保管されている三階から塵紙や洗剤のおかれた一階までが見下ろせた。休憩には休憩所に集まる者もあったが、持ち場を離れるのが面倒だからこの吹き抜けに向かって鉄柵を肘かけのようにしながら電子煙草を吹かす者もあった。火器は持ち込み禁止である。
 下で重い荷物の集品を担当している者のうちのひとりが昇降機を使って上がってくるのが見えた。昇降機に人が乗るときは操作盤の鍵を首から下げている信人のようなリーダーが見ているときにしか許されなかった。そのゆっくりと上昇してくる鉄の構造に向かって信人が手の平を見せると、その中央にぽつんと乗った男も、手のひらをこちらに見せた。日焼けをしているのでその手だけが白く浮かび上がった。
 ふたりはにらみ合ったまま、会話を始める距離に来るまではお互いに表情ひとつ変えなかった。
「のぶさん、トイレ行きましたか」
「いいえ」
「備品発注はのぶさんの担当でしょうか」
「いいえ、社員だよ」
「トイレットペーパーがなにか、前とは違うのです」
「そうなんだ」
神妙な面持ちで話す男の姿形を直視できないほどだったり、自分の醜さがいやになったりする信人だったが、今日はまっすぐに目を見て話すことができた。その理由はまだわからなかった。
「ケツ切れます。繊維が逆立っている。コピー用紙のほうがマシ」
「ぼくは外でうんこしないんだよね。なんか落ち着かなくて。さくちゃんはする派なんだ」
「うんこって意志ではなくないですか」
「おしっこより我慢できるじゃんか」
兄の喪服姿を思い出す。久しぶりに見たので老けたなあと思った。ひとことも会話することを許されず、嫁や息子にはどう説明しているのかは知らないが、信人は空気のようにされた。息子は、信人の甥にあたるが、たしかさくちゃんと同じ歳だったなあ。甥っ子とも、もし話をしたら、こんなふうなのかな。
「のぶさん、今日どこか行きませんか、これ終わったら」
信人は朔の顔を見るときには背丈の都合、見上げる形となった。
「えっいいけど。またラーメンいこうか」
仕事終わりにラーメンを食いに行ったことがいままでに三度ほどあった。毎度朔が誘い、信人が快諾した。
「いえ、そういうことではなく……ここのあたりにどこか遊ぶところはないですか」
長谷川は東京から大学に通うために千葉に来ているために土地を理解していないようだった。
「遊ぶって、きみは女には困らないでしょ」
「普段行けないところがいいのです」
最後のおもいでに。朔が微笑んで言うのを信人は「ああそうか、ありがとう」と平然と聞くふりをしたが、実は頭に血がのぼって視界がぐらぐらと揺れるほど取り乱していた。
「でも普段行けないって、なんだ……」
「そうだ、ぼくは行きたいところがあったのです」
蘇我駅の近くの云々というのを聞くに、どうやら大型の公衆浴場を指しているのだとわかったとき、つい
「エッ、いいの!?」と声をあげてしまう信人であった。「いや、なんか、さくちゃん忙しいのにいいのかなって」
信人は朔の次の言葉を待ったり、朔の裸を想像してどきどきしていたが、朔はというと吹き抜けの下を身を乗り出して眺めているだけだった。
「ここからの眺めは好きです」
さくちゃんにはたまにそういうところがある。そこも好きだ。猫みたいでいい。誰にでも優しいのに、たまに人の目とかどうでもよくなって、どこかへ歩いていってしまう。
 たとえばさくちゃんのところには女が寄ってくる。
「テルマアンドルイーズ見たよ、なんだか最後は悲しい気持ちになっちゃった」
更衣室を出て倉庫の脇の通用口からバス停まで歩くあいだ、眼鏡をかけた大学生の女が朔のとなりにぴったりくっついて、なにか信人の知らない話をしていた。こんなとき朔は尊大である
「そうですか、じゃあ今度はデスプルーフと、イージーライダーも見てくださいね。お疲れ様でした」
「それでね、長谷川くんにおすすめの作家さんがいてね、中村文則っていう人なんだけど」
「すみません、また今度」
「あ、ウン……またね」
信人と朔がバスに乗り込んでゆくのをその女はしばらくぼうっと見ていたが、リュックのなかに本をしまって、駐輪場のほうへ歩き出す。
 座席から伝わるエンジンの震えからか、肩の触れる位置に朔を置いていることに緊張してか、「話は済んだの?」か細い声で尋ねた。
「こんなこと言いたくありませんけど、あいつはまえにのぶさんのことを酷く言っていました。俺は許していません」
「そう」
窓枠に頬杖をつく。発進の振動が頭蓋に響き、こそばゆい。窓に反射して見える自分の醜怪を新緑が吹き抜ける。
「さくちゃんは優しいね」
分け隔てなく。かすかに他人の汗を感じる。聞き間違えたかというような驚いた顔をしている朔の目を、信人は見つめ返せなかった。
「分け隔ててるのです」

 湯けむりのなかで信人は、若い肉の起伏をながれる水の、秩序のある通り筋をただ観察する機械になった。

六 ひかる

 煙草をあながちに口に差されたとき、まず舌の先に触れたフィルターから紙の味がした。そのまま吸ってごらん。帯電した空気が肺胞に満ち、見つめられたり撫でられたりすることの快さに心臓が痺れ、5歳の信人はむせた。
「ふいに、永遠にひとりなのだと気づくときがあるんです」
いろんな風呂を一通りまわったら、ぼくたちは疲れて休憩。涼むための場所がある。たまに浴衣で通り過ぎるのは大体カップルか家族連れ、ぼくたちすこしアウェイ。さくちゃんはしきりになにか難しい話をした。学のない自分にはよくわからなくて笑うしかない。
「おじさんのと、のぶくんの、違うね」
男の手が5歳の信人のペニスと自身のものを近づけて比べた。それが他者から伝えられた体温の、唯一の記憶であった。近所に住むその初老は間もなく、知的障害を持つ息子への猥褻行為が明らかになり逮捕された。
「のぶさんは、自分が何者かわからなくなったとき、どのようにしますか」
わからないことは、どうしてさくちゃんはこんなにぼくに優しくしてくれるのかということ。奇形のおじさんに哲学の話をして、わからないのを馬鹿にしているのだろうか。
「自分のことわからなくなったこと、ないもの。花屋の三代目とかって肩書きもなければ、学校行ってないからよく知らないけどさ、公立の大学に通ってるみたいな、可能性もないもの」
「なるほど」
五歳の信人はこの先数十年を覚悟した。煙草の煙を口移しされたり、様々なものを口に含まされたとき、噛み砕かれた食物を母の口移しで食べたときのことを思い浮かべていた。これが唯一の愛なのだと覚悟した。この先に続く道で獲得するものはなにもなく、ただ、いま浴びている愛が失われていくだけの孤独があるのだと、無意識のうちに予想した。
「きみはだって、国をつくる人にもなれるよ。法律がわかるんだろ。英語もわかるんだろ。俺は同じものばかりつくって、死ぬよ」
あははと笑う。瓶のビールはなぜかうまい。酔ってよくわからないことを言ったつもりだったのに、さくちゃんはすべてをわかったような顔をした。
 花だって法律だって、同じことの繰り返しですよ。そんなようなことをさくちゃんが言ったのを最後に、ぼくたちは黙った。

 暗路を一人歩く、左右の街灯が交互に目を焼き、裸体を想起させる。突然に、あるいは突然ではなく生まれたときから必然的に決まっていたかのように、死の文字が、家々の屋根に切り取られた黒い空に浮かび上がった。
 そっか、おれってずっと死にたかったのかなあ。さくちゃんはおれにとって、さいごの思い出なのかな。
 体の形に黄ばんだ敷布団の上で夜通し、記憶のなかの屈強な肢体を愛撫した。夢では信人の顔も体も左右対称で、朔と真っ当に抱きしめあった。死んだら、おとうにもおかあにも会えるのだろうか。奥歯の痛みも次第に忘れられていった。
 そういうことなのかな、さくちゃん。

 翌日の昼、駅前のロータリーで信人は倉庫行きのバスを待って立っていた。朔に会って話すことがあった。しかし、なにを話したらよいか、具体的なことはなにも思いつかない。早く伝えなくてはいけない。バスはこういう日に限って時間通りに着かない。がちゃん。
 金属製のものが地面に落ちる音がしてその方向を見ると、浮かんで横に空回りする車輪が目に入った。交番と駐輪場の歩道のうえで車椅子が横転している。そのそばに、座っていたであろう老いた女が、転んだ拍子に足を痛めたような体勢でうずくまっている。
 信人はしばらく遠くから見ていたが、他に誰も手を貸す人がいないようだったので、きょろきょろしながらその人に近づいた。
「大丈夫ですか」
その人は下肢に手を当ててイタイイタイとうめいていたが、ふと顔をあげる。信人を見るなり短く悲鳴をあげた。気持ち悪い!
「えっ」
信人は打たれ、動けないまま見ていた。
 数秒後、老人の息子かと思われる者がスーパーから出てきて、ああと声を上げた。
「ほらだめじゃんか動いたら」
息子は信人には気づいていないのか、車椅子を立て直し、母親をそこに座らせた。すぐに、その人は信人を指差した。
「この人が倒してきたのよ! 捕まえて!」
信人はなにも言い返せず、ただ立っていた。息子は信人に謝罪の表情で頭を下げ、「ちょっとあれなんです」と言って、車椅子を押して去っていった。見えなくなるまで信人のほうを振り返りなにか叫ぶ老人と、その息子の背中。
 静かにそこを離れ、到着したバスに乗り込んだ。老婆の声を聞きつけて交番から警察官が出てくるのが遠くに見えた。できごとを見ていた人が信人の乗っているバスを指しながら、警察官になにかを話している。バスは走り出し、景色は後ろに伸びて消えた。

 窓枠に頬杖をつく。白い日差しをにらむ。
「さくちゃんは優しいね」
太陽はエンジンの唸りとともに青空の中心で震えている。まぶしい。やはりまぶたはひとりでに落ちたが、信人は暗闇のなかでも満足だった。角膜から心に向かい、新しい神経が蔓となって体中に伸びてゆく。胸郭までたどり着いた蔓の先では転生した花たちが太陽を向いて咲き、ひかる。それからの信人はひとりではなかった。 

五本指ハムスター✌🏻🐹✌🏻