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(4)芝生

 日が暮れはじめて、あたりがぼやけたオレンジになってくると、駅のほうから帰宅する人たちの群。住宅地のすみの三角の土地を、ひそかに切り取った公園の、錆びたベンチに腰かけて、道を通り過ぎる靴音を聞いていた。ふりかえってみれば、せわしなく歩くスーツ姿の女たちは、若くも、老いても見えなかった。地味だったり、派手だったりした。しかし、奈津子以外のだれにも、滑り台で遊ぶ奈津子の息子とそのともだちの声は、聞こえていないみたいだった。かつて奈津子だってかかとの高い靴を履いていた。
 雄大、もう帰ろう。ママ、これからご飯作らなくちゃ。
 雄大とさやかは滑り台で鬼ごっこをしていた。逃げる方向も決まっているし二人しかいないから鬼は交代するだけで特に進展はないのに、二人とも額に汗をたくさんかいて、滑り台にのぼって、すべりおりて、ぐるりとまわってまたのぼるのを、繰り返していた。からくり。だれにも奈津子の声は聞こえていないみたいだった。奈津子はひとりだった。急に夕焼けが気味悪く、ぬめるように感じた。
「雄大くん、速い」
「だってさやかちゃん追いかけないと逃げるから」
「じゃあ、逃げない」
立ち止まったさやかを、雄大が後ろから抱きしめた。カラスの鳴き声がすぐそばで聞こえた。奈津子が立ち上がって二人の子供のところに近づくと、二人はとたんに離れた。
「雄大、もうおしまい。さやちゃんにばいばいってして」
奈津子の腰にまとわりついた雄大はかっかと発熱していた。
「ばいばい」
「ばいばい、さやちゃん。ひとりで帰れる?」
さやかのほうを見ると、突然知らない人を見るような目になって、ぎこちなくうなずいていた。自分のものをとられたときの表情だった。奈津子は、口元だけ笑って、さやかに手を振りながら、雄大と手をつないで、公園をあとにした。さやかは見えなくなるまで、微動だにしなかった。
 家に帰ると雄大は静かになった。幼稚園の帽子を壁にかけると、あとはひたすらリビングで椅子に腰かけて食卓に頬杖をついて、足をぶらぶらさせるだけだった。奈津子は台所に立って、なにかを考えるような顔をしている雄大をたまにこっそり見るのが好きだった。
雄大は端正な顔をしている。三歳までは女の子とよく間違われた。四歳から急に、言葉やしぐさが父親に似て、男の子らしくなった。頭がいいような気がした、運動もよくできるようだった、けれど奈津子は、どの親も自分の子が一番だと思っているのを知っていたので、雄大のことはあまりほめないことにしていた。
 夕食の準備ができると、かならず雄大は、「パパ、遅いね」という。ドラマのシーンでよくあるので、それのまねをしているのだとおもわれたが、どうやら本気で言っているのだと、奈津子はつい最近気づき、それから同時に、いつもきまって、マンションを買うのを親に反対されたのを思い出す。子供を産むのを反対しているようなきこえだった。
 夫の帰りはこのごろおそかった。奈津子が子供を産んで会社をやめてから、少しずつ遅くなって、仕事が忙しくなったといいながら、なんとなく、意図的に忙しくしている様子だった。幼稚園にいれてからはさらに遅くなった。奈津子に理解できなかったのは、奈津子の手に負うものが大きくなればなるほど夫が助けにならなくなることだった。
「パパ、きょうもいそがしいんだって。さき に食べちゃおう」
「でも……」
「いいよ、さきに食べよう。ママおなかすいた。いただきます」
雄大はしばらくはしに手を伸ばさなかったが、しばらくして、ゆっくり、はしを握った。
 ねかしつけたあと、いちど夫に電話した。出なかった。風呂に入ってから、また電話したが、出なかった。聞こえるはずのない喧噪とか、たばこのけむりとかが見えた。髪を乾かして、自分のことがおわったあと、時計を見ると、十一時を回っていた。そういえば、ぼうっとしている時間が長かった。テーブルのうえの皿にかけてあったラップをとって、肉と野菜のいためたものを一口食べた。さめて、おいしくなかったので、捨てた。それから洗い物をした。
 夫は酒を飲んで陽気なわけでも、疲弊しているわけでもなさそうだった。
「ただいま。ごめん、電話でれなかった」
奈津子はなにもいわなかった。奈津子がなにもいわなければ、夫もなにも言わなかった。
 風呂を出てスエットを着てから、ソファに座ってテレビをつけた夫の、となりに座ると、奈津子は目をかたく閉じた。公園でのさやかの表情と、カラスの鳴き声だけがなんども繰り返し襲ってきた。一度息を整えた。
「わたし、働きたいんだけど」
夫は笑った。
「まだ早いでしょ」
「違うの。そういうことを言ってるんじゃないんだけど」
「じゃ、なに」
「どうして最近遅いの」
人ににらみ返されるようなことを口走った自分がいやで、奈津子はまた目を閉じた。しずかにして、なつこちゃん。
「ひとりでがんばってるもんね、奈津子は」
夫はいつも皮肉めいたことを皮肉らしくなく言葉にする。雄大はそれを遺伝している。奈津子だけが他人だった。顔を覆った。さやかの表情が自分に乗り移ったみたいに感じた。
「おれ、さみしいんだけど。奈津子は子供につきっきりだし、雄大は俺にあんまりなつかないから」
「でも、よく似てる」
「ねえ、なぐさめてよ」
胸にもたれかかってきた夫のあたまを、重さを溶かしたくて、奈津子はただなでていることしかできなかった。短い髪の毛が指のあいだをすべる。人工芝。

 朝、雄大をバス停まで連れていくとき、つないでいた手がふと、離れた。雄大はまじめな顔をして、奈津子を見上げていた。
「ママ、言い忘れてたんだけど、おれ、さやかちゃんと結婚することにした」
奈津子は笑いながら、また手を握りなおした。できれば二度と離さないように、強く握った。
「はるかちゃんは? それに、のんちゃんも雄大のこと好きなんだよ。どうするの?」
雄大はなにもいわなかった。前を向いて歩く横顔が夫に似ていたので、奈津子はその日も幸せだった。

五本指ハムスター✌🏻🐹✌🏻