夫が褒められるたび、惨めな気持ちになるのはなぜなのだろう。
「夫さん、すごいよね」
育休復帰してから、幾度となく聞かされた言葉だ。
「オムツを替えられる」
「赤ちゃんをあやすのが丈夫」
「夜泣きに起きてくれるんだね」
「保育園のお迎えに行ってくれるの?」
ひとしきり褒められたあと、決まって続くのは
「夫さん、育児やってて偉いね」
の一言だ。
その場にいない夫への褒め言葉を受け取りながら、私は毎回、とても惨めな気持ちになっている。褒められるのはいつも夫ばかりで、私は取り繕って笑うしかない。
親なんだからやって当たり前なんじゃないですか。夜泣きで起きてもそのまま何もせずに寝入ったこともありましたよ。子供を望んだのは夫なのに、なぜか育児は私に丸投げするつもりだったんです、不思議ですよね。保育園のお迎えは週1でしてくれますけれど、それ以上は都合がつかないからと私が職場にお願いしてお迎えに行っています。どうして私の職場にしわ寄せが来るんでしょうね。子供ができても自分の働き方を変えるつもりはなくて、私のキャリアなんておかまいなしでしたよ、と。
言いたくなるのをグッとこらえて、「そうなんですよ、助かっています」と伝えてその場を離れるようにしている。
いつからだろう。
夫が褒められるたび、自分が損なわれるような気持ちになったのは。
何もしなくても夫は褒められる。全部しても妻は褒められない。
初めて「キツイな」と思ったのは、お宮参りの時だった。
里帰りをしていた地元で、それぞれの両親を呼んですることになった。
近くの神社でお参りをして、ホテルで会食。
ちょうど産後一ヶ月になるかならないかで、夜泣きはまだまだ続いていた。慣れない授乳や細切れ睡眠、専門医試験の勉強、高齢で認知症の祖父母からの心ない言葉に追い立てられながら、私はお宮参りの手配をした。
それぞれの両親の都合を聞き、日程を決めた。会食するレストランを調べ、予約をした。お参りの時間を決めて、当日の集合時間や駐車場の場所を確認した。自分が着る服や靴を用意し、授乳室やオムツ替えができる場所の下調べをした。雨だったらどうするか、炎天下の移動に必要なものは何か、授乳時間をどうするか。誰も知らなくて、誰も教えてくれなくて、だから自分で調べて考えるしかなかった。
そうこうして、お宮参り当日。
出発直前、息子がうんちをした。慌てて変えようとする私の隣で、ピカピカのスーツを着た夫は「スーツが汚れるからお願いしていい?」と言っていた。私のフォーマルも一張羅だよと思った。
お参りが無事に終了し、レストランで会食になった。
夫の両親から私の両親に対して、里帰りで産後にお世話になっていることのお礼が伝えられた。私の両親からは、夫がいかに上手に育児をするかということが伝えられた。
私に対する言葉は、なかった。
この時、私は怒っていいのか、悲しんでいいのかわからなかった。
確かに夫は子供を大切にしていた。抱っこもしたし、話しかけもしていた。おむつも変える。哺乳瓶でミルクもあげる。
けれど私は、それよりも遥かに多くの時間を息子に費やしていた。夜泣きする息子を一人で何時間も抱っこして、上手くいかない授乳と格闘していた。睡眠は細切れで、満足に眠れていなかった。それでも貴重な時間を捻出して専門医試験の勉強をして、合間にこの日の手配をしていた。
褒められた夫は嬉しそうに笑っていた。もしも「いやいや、妻も頑張っているんです」という一言があれば、少しは救われたかもしれない。でも夫はなにも言わなかった。
褒め言葉は、まるで流れ弾のように飛んでくる
その後、何度かの話し合いがあった。夫は、育児における当事者意識というものを急激に身につけてくれた。いつしか夫への褒め言葉を「そうですね」と笑って受け入れられるようにもなった。「でも私も頑張っているんですよ」と軽く冗談を言うかのように付け加えることもできるようになった。
それでも時々、夫への褒め言葉が流れ弾のように命中する。
それは決まって、私が一人でいる時だったりする。
一人で外出したり、仕事に行ったり。そんな時、突然なんの脈絡もなく「夫さん、偉いね」と言われる。これが結構キツイ。
たぶん、こういう時の私は、とても無防備なのだ。
息子から離れて過ごす、束の間の休息。何も考えず、淡々と目の前と自分のことに集中している瞬間。だからなのか、不意に飛んでくる「夫さん偉いね砲」に構えることができない。
夫は偉い。偉いとは思う。
私が休日仕事に行けているのは、夫が仕事を休んでいるからだ。
私が朝から出勤できるのは、早朝出勤の夫が保育園の送りをしてくれているからだ。
偉い。確かに偉い。
でも私だって、となる。
私だって、ほとんど毎日息子をお迎えに行っています。寝かしつけまで一人です。食事の準備や買い出しも私の仕事です。
保育園からの呼び出しだって、すべて私がやっています。小児科の受診も、病児保育の手配も全部整えてから、夫にパスしています。
私が休日出勤できるのは月に一日。でも夫は、その何倍もの日数を勤務しています。その間、子供を見ている私のことは誰も褒めてくれません。夫はたった月一回仕事を休んで子供を見るだけで褒められるというのに。
私だって、やっています。
私だって、褒めてください。
流れ弾に当たった私は、いつも、子供のように静かに駄々をこねる。
評価されていないという感覚。そもそも、育児って誰から評価して貰えばいいのだろう。
夫が褒められることを素直に受け入れられないのは、多分、自分の評価が不当だと考えてしまうからだ。
夫と私。同じくらい、あるいは私の方が多くの時間や労力を子供に費やしているのに、なぜか夫だけが褒められる。それも私の目の前で。
そのことを不公平だと感じてしまう。
だから夫が褒められるたびに、私はもやもやするのだ。
いやいや、私の方がもっとやっていますよ、と張り合いたくなるし。
あるいは、夫は私ほどはやっていませんよ、と貶したくなる。
夫が育児をしているのは事実だし。
夫を貶めたいわけでもない。
それがわかっているから尚更、自分のモヤモヤを消化できずにいる。
そもそもなぜ私は、育児に「評価」を求めてしまうんだろ。
夫は褒められる、私は褒められない。
それは事実だけれど、「評価されている」と捉えがちだけど、そもそも「評価」ではないのかもしれない。
通りすがりの職場の上司も、同僚も、あるいは互いの両親も、育児を評価するつもりで夫を褒めているわけではない。夫を高く評価して、私を低く評価しているつもりはない。ただ夫だけを褒めて、私を褒めていないというだけ。
育児は誰かから評価されるものではない。
わかっている。わかってはいるけれど。
それでも私は、評価されることを望んでしまう。
バケツに穴は開いたままだということ。
たぶん、私はまだ、穴の空いたバケツなのだ。
心のバケツに穴が空いていて、嬉しいことや楽しいことを詰めこんでも、穴からどんどんこぼれ落ちてしまう。いつまで経ってもバケツは空っぽのままで、私は「もっともっと」と求める。無意識のうちに「誰か」からの評価を欲している。
バケツの穴を塞ぐ作業が、まだまだ必要かもしれない。
けれど、そのための方法は全然浮かんでこない。
これは修復まで、時間がかかりそうだ、と思う。
だからもし、この文章を読んでくださった方で、身近に育児をしながら働いている同僚や部下がおられたら。あるいは産後訪問している助産師さんや保健師さんがおられたとしたら。
どうか一度でいいので、あなたの目の前にいる、その人自身を褒めて欲しい。
パートナーを褒めるのはとても素敵なことだ。素敵なことだけれど、それだけになっていたとしたら、少し、寂しい。その場にいない人を褒めたら、それと同じくらいでいいから、目の前にいる本人にも温かい声をかけてほしい。身勝手なお願いかもしれないけれど、それだけでたぶん、救われる人がたくさんいると思う。
(この投稿はマガジンにまとめています)
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