猟師と僕と鹿と熊。
気づけば11月終わり、北海道はいよいよ冬へ突入しようとしている。
1日1日冬を手繰り寄せていくのが肌でわかるくらい北海道の自然ははっきりと季節を告げてくれる。
何度も書いているが僕は北海道の自然が本当に好きだ。
毎日のように、今日はどんな天気なのだろう。今日はどんな景色が見られるだろうとワクワクできるのはとっても贅沢な事だなと思う。
さて、10月はいろんな事が起きた。
良いことも悪いことも同じくらい起きて、感情が追いつかず完全にキャパオーバーになってしまった。
たくさん周りにも迷惑をかけてしまい、改めて自分のメンタルの弱さを思い知った。
そんな中でも一際大きな経験になったのは、猟師の方に約2週間、山に入りながら様々な事を教えてもらった事だった。
自然の写真を撮るためには山に入ることは避けられない。
いわゆる観光地でも撮れる写真はたくさんあるが、やはり良い写真を追い求めていくと辿り着くのは、自分と動物が対等な関係にある場所で撮らなければ本当の自然を撮ることはできないと思うからだ。
しかしただ闇雲に山に入っても下手をすると命を落としかねない。
そこで、猟師のAさんに頼んでハンティングに同行させてもらうことにした。
Aさんは大ベテランのハンターで、ヒグマの狩猟経験もある。
Aさんは山のことや動物のことはもちろん、地形の読み方や天候のことなど僕が撮影で知りたかった全てを知っている人だった。
『銃で撃つことも写真を撮ることも英語では同じShooting。最終的な行為が獲るか撮るかの違いだけで根本はきっと同じだと思うよ。』
Aさんはそう言って僕を山へ連れて行ってくれた。
『連れていくからには最悪、山で死ぬ可能性もあるよ。それをちゃんと頭に入れておいてね。死ぬ確率自体は高くないけれど普段の生活をしている時よりかはきっと確率は高い。最後は自己責任だからね。それを良く頭に入れておくように。』
事前にそんなことを言われ、もちろん僕は同意し山へ入る覚悟を決めた。
Aさんからは様々なことを教わった。
山での歩き方、歩く場所の選び方、動物の痕跡、獣道の見分け方、天候の読み方、獲物に気づかれずに距離を詰める方法、命を落とさない為に気をつけること全て。
それは僕からすれば全てが新鮮で驚きと感動の連続だった。
コール猟と言ってこの時期鹿が鳴く繁殖の声を利用し、こちらも鹿に擬態して誘き寄せ、仕留める猟法がある。
しかし笛を吹けば簡単に寄ってくるわけではなく、いかに鹿に自分たちが鹿だと思い込ませるかが鍵になる。
僕は極力Aさんの邪魔にならないように歩みを共にした。
時折Aさんが目配せで熊の痕跡を教えてくれた。
熊の糞や、爪痕、熊がアリなどを食べるために掘り起こした跡などを見ることができた。
ここは熊のフィールドだ。
そう思うと一気に緊張感が増してくる。
僕は片時も集中を切らすことはなかった。
それは単に興味があって集中していたわけではなく、気を抜けば死んでしまうかもしれないと本能的に悟っていたからだった。
いつどこで熊が来るかわからない、という恐怖は僕が山について何も知らない無知さを露骨に痛感させた。
『怖いのは知らないからだ。知らなければ余計に怖い。熊を撮りたければ熊のこと、山のことをもっと知りなさい。不必要な怖さから解放されないと熊は撮れない。ただ怖さはとても大切な感覚だ。臆病という事は生きるために重要な感情だからね。』
Aさん自身の体験から生まれてくる言葉1つ1つが僕に響いた。
僕はついていくので必死になりながらも辺りを注意深く観察していた。
すると、反対側の谷に一瞬、何かが見えた気がした。
熊だ。
僕は直感した。山の風景とは微妙に違う。
すぐにAさんにジェスチャーで知らせた。
よく目を凝らして見ると、熊が鹿を食べている所だった。
距離は大体100mくらいだろうか。草藪の隙間からかすかに熊が鹿を食べているのが見える。
そんなに大きい熊ではないようだ。
野生に生きる熊を山で見ることは、これで3回目だった。
観光で見る熊とは明らかに違う。
それはやはり自分と熊とが対等な、同じ自然の中に今存在しているという緊張感から来るものだった。
熊の存在があることで、何気ない風景が一変した。
逃げ出したい怖さと、その怖さより少しだけ優っている好奇心が僕をその場に留まらせた。
しばらく熊を観察していると、鹿の肢を空に向かって放り投げたりしている。
どうやらお腹がいっぱいで遊んでいるようだ。
すると熊の真上をオオハクチョウが編隊を組んで飛んだ。
クアークアーという鳴き声と共に頭上を飛ぶオオハクチョウを熊はぼんやりした表情で見上げ、空を仰いだ。
一連の熊の仕草から熊が比較的若い熊だということが僕にも理解できた。
好奇心が多く、遊び心があった。
それはどことなく犬に通ずる部分もあった。行動や仕草が何となく若いのだ。
こんな所でドッグトレーナーの経験が役に立つのだなと、人生の点と点が線になった実感を得た。
Aさんは安全を確認し、観察を止めると指を山の奥の方に向けてさらに奥へと歩みを進めた。
熊を観察している間にも、鹿の繁殖の声は森中に響き渡っていた。
この時期はどの鹿も子孫を残そうと大忙しだ。
時折、雄同士が角を突き合わせているのか、カツンカツンという乾いた音が遠くからも聞こえていた。
森をよく観察していると、一見静かな森にも様々な生き物たちがフィールドを共有していることに気づく。
コゲラは頻繁に木を突き、狐が谷底を歩き、オオワシが空高く舞っている。
クマゲラの声や鹿の声が森に響き、カラスはどこにでもいた。
まるで会話をするかのように風が葉を揺らし、森全体が1つの生命体のような感覚だった。
豊かさとはこういうことなのかもしれないな、と漠然と思った。
何かを得ようと、何者かになろうと必死にもがいていた時期は目の前の豊かさに、ありがたさに気がつかなった。
もしかしたら豊かさとは、得るものではなく気づくものなのかもしれない。
森には生きていくための全てがあった。体を温める日差しも、火を起こせる薪も、休息する葉っぱのソファも、食べる獲物や木の実も全部山にあった。
僕は生きている事の豊かさ、ありがたさを全身で感じていた。
今、僕は生きて、歩いている。
たったそれだけの感覚が、とても大きな意味を持って全身に巡っていた。
社会のシステムや経済活動から完全に外れ、熊や鹿などの生き物と同じ地球に生きる生き物として存在している感覚は今の時代とても贅沢なものだった。
そして多くの人が忘れてしまっている自然への畏怖がそこにはあるような気がした。
自分の力ではどうあっても抗うことのできない絶対的な自然が目の前にはあった。
昔の人たちはきっとそうやって自然との距離を保ってきたのだろう。
現代人が忘れている感覚だと思った。
自然への畏怖を全ての人が持つことができたら、きっと今のような環境破壊は起きていないのではないかと思う。
話を戻そう。
しばらく進むと僕の胸元くらいまである大きな笹藪へ入っていった。
雄鹿の声はこの藪のさらに奥から響いている。
熊を十分に警戒しながら僕たちは進んでいった。
Aさんは慣れているのかどんどん前に進んでいく。僕はついていくので必死だった。
1歩1歩と大股で追いつこうと進んでいた時、ふと目を横にやった。
黒いものが動き、それが一瞬で熊だと分かった。
大きな黒い、胸に白い毛がある熊だった。ツキノワのような見た目だったが明らかに大きい。
50m〜70mほど前の木にまるで人間のようにもたれかかりながら立ち上がってこちらを見ていた。
先程の熊とは大きさが違う。185cmある僕よりは確実に大きかったと思う。
心臓が高鳴る。想像以上に近い。すぐに熊スプレーのロックを外した。
Aさんはまだ気づいていなかったので、すぐAさんに追いつき伝える。
『熊です。かなり大きい』
そう伝えたときにはもう熊の姿はなく、藪が風で揺れる不気味な音だけが辺りを包んだ。
胸元まで笹藪があり、熊がいたところはさらに藪が深くなっていたので全く見えない。
すぐ目の前に切り株があった。
僕はAさんに音を立てずに乗っていいかジェスチャーで聞いた。
辺りをゆっくりを見渡したAさんが小さく頷く。
僕はそっと切り株に乗った。
熊は確実に僕たちに気づいているはずだ。
藪に隠れてしまったか、もしくは逃げたかはわからない。
注意深く辺りを見渡したが熊の気配はない。
ハンターさん達が良く熊の事を話すときに『彼らは猫のようだ』と話す。
あの巨大な体躯からは想像もできないほどしなやかで歩みが静かなのだ。
1度別の機会に出会った熊が僕に気付き、驚いて逃げていった時があった。
僕の背丈ほどある藪で僕はバッサバッサ藪を揺らしながら進んでいたのにも関わらず、熊が走った時には『ササササア』と微かな音しか出さずに走って逃げたのを見た時には心底鳥肌がたった。あれほどの巨体が藪の中を大きな音を立てずに走り去ったのだ。
また熊は20cmの茂みがあれば大きさにもよるが姿を完全に隠すことができるらしい。
その事を知っていたので、どこに熊がいるかわからずとても怖かった。
しばらく見渡しても熊はいなかった。
Aさんは別のポジションに移動し始めていた。僕は周囲を警戒しながらも後をついていった。
するとその時、藪から雄鹿が顔を出した。
すぐに僕たちに気づき、逃げ出す。すぐさまAさんが鹿笛を吹いた。
すると逃げ出したはずの鹿がこちらに振り向き、ゆっくりと藪から出てきた。雌鹿の声を出したので確認しにきたようだ。
一瞬だった。
『ドーン』
ものすごい銃声が山に響く。
鹿は一瞬浮き上がり、すぐに走り出した。が、すぐに横になってしまった。
Aさんが僕に待ってろと合図を送り、ゆっくりと鹿へ近づく。
『ドーン』
2度目の銃声が響く。
鹿の体が地面にへばりついた。
しばらくして完全に鹿が事きれたことを確認し、Aさんが手招きした。
僕はゆっくりと鹿に近づく。
叫び出したいような気持ちを抑えながら僕は鹿の横に立った。
命が尽きる瞬間を見た。
確かにすぐ直前まで森に生き、生を全うしていた鹿が死んだ。
なんの因果があったのだろう。
僕らが起きた時から今に至るまで、何か1つでもズレていたなら。
僕が何かを忘れて1度家に戻っていたなら。
途中熊を観察する時間があと1分短かったら。
もし僕らが違う道を進んでいたら。
この鹿が今目の前に倒れることはなかっただろう。
人間の一生も同じことなのかもしれないな、と思う。
何か1つ歯車がずれただけで、結果は大きく変わってくる。
この鹿は3〜5歳くらいだろうか。
若さの中にもこの厳しい土地を何年も生き抜いた強さが命が尽きた後も尚、僕に訴えかけていた。
この鹿がこの森に生を受けた時、僕はまだ千葉にいた。
千葉で生活をし、この鹿のことなど全く意識もしたこともなく、日々を過ごした。
鹿も数年後、僕たちに撃たれるとは夢にも思わなかっただろう。
運命というものを感じざるを得ない。
人も、同じだ。
出会う人、出会うタイミング、別れる人、別れるタイミング。死んでしまう時、この世に生を受けた時。
全てが運命だ。そう思うと日々の暮らしがどれだけ奇跡に溢れたものなのかがわかる。
今いる人たち、出会った人たち、事柄。全てに感謝が溢れてくる。
頭上をトンビが飛んでいった。僕はふと空を見上げた。
『余計な事をするな。目の前の鹿が死んだかだけ考えろ』
Aさんは少し強めの口調で僕に言った。
後で聞いたら、事きれたと思っていた鹿が突然動き出すこともあるそうだ。
もし鹿が動き、角がどこかに刺さりでもしたら、命に関わる。
山での怪我は命取りになる。
ここはそういう場所なんだ。そういうことをきっと伝えたかったのだと思う。
僕は倒れた鹿をただ見つめていた。
真上でコゲラが木を突いている。
すぐ近くでまた鹿が鳴いている。
まるで銃声など聞こえなかったのかのように。
まるで鹿が死んでしまったことなど無かったことのように。
森はまた普段の様相に戻っていた。
『死』とは一体なんなのだろう。
命は1つ。命は戻ってこない。命を大切に。
そんな事を子供の頃から何度も聞かされてきた。
何度も教科書でも習ってきた。
しかしながら、それは1つの考えに過ぎないのではないかと思う。
鹿の命は驚くほど早く銃声と共に溶けていった。
そして自然はそれでも尚そこに残酷さを残さなかった。
生きることの原始を見ている気がした。
それは綺麗事を抜きにした、他者を犠牲にして生きるというこの世界の約束事のような気がした。
死とは生の裏側にあるのではない。生のすぐ隣、ほんの繊細な紙一重で存在していた。
僕たちは日常でどれほどその事を意識できるだろう。
『死』が特別なものとして捉えられ、まるで自分が死ぬことなど想像もできない中で生きている事がほとんどだろう。
かくいう僕もそうだ。
自分が明日死ぬか、大袈裟に言えば5分後に死ぬかなんて思っていない。
永遠はないと分かっていながらも、明日がやってくることを疑っていないのだ。
そんなに特別なことなど滅多に起きるわけがない。僕たちはそう思って生きている。
だからこそ死が目の前にきた時に、特別な感情に陥る。
でも、ここでは違う。森では、自然の中では、死は当たり前のことだった。
それは僕たちが今生きているのと同じくらい当たり前のことだった。
頭上で木を突くコゲラや山の生き物達はそれを知っているようだった。
だからこそ彼らは目の前で鹿が死んでも普通なのだ。
なんと儚いことだろう。なんと尊いことだろう。
死を当たり前のように感じ、受け入れている彼らの生き方に感服する。
それに比べ僕たちは何と弱い生き物なのだろう。
どこで大切なことを見失ったのだろう。
そんなことが頭の中でずっとグルグル回っていた。
その後、僕たちはやっとのことで鹿を山から下ろし、解体した。
1本のナイフで綺麗に腹が裂かれていく。内臓を取り出し骨を外し、あっという間に解体されていく。
その光景を少しも飽きることなく見ていた。
その時に僕はずっと美味しそうとしか思わなかった。
不謹慎かもしれないが、そう心から思った。
血の匂い、肉の匂いに無意識に腹が鳴った。
中学生の頃、犬の去勢手術を見て気絶した男が、鹿の解体を飽きることなく見つめている。
世界の約束事から目を離したくなかった。
すっかり日が落ちてしまい、車のライトを照らしながら作業は進んだ。
冷たい北海道の寒空の中、鹿から立ち昇る湯気が、鹿の命をより一層強く感じさせた。
まだ温かいのだ。冷え切った手も鹿の腹に突っ込めばゆっくりと感覚を取り戻していく。
途中、Aさんとたくさん話をした。
僕が感じたこと全てをAさんに話した。
するとAさんはこう言った。
『みんな色々理由をつけたがる。命は大事だ。そんなことは分かっている。
でも何故僕らは鹿を撃つのか。それはただ食べたいからだ。僕と鹿の関係はそれ以上でも以下でもないんだ。
ただ僕は鹿を食べたい。鹿は獲物。それだけ。高尚な理由なんて必要ないんだ。』
それは『命』を見つめ続けた人が辿り着く境地なのかと思った。
Aさんはもっともっと原始的なところまで回帰していた。
『だからね、自然に生かされているとか。自然は美しいとか、時折言う人がいるけど全部綺麗事に聞こえてしまうんだ。
自然はいつだって僕らを殺しにきているよ。僕らはただ、それに抗わず、適応して生きていくしかないんだ。
感謝とはその中でしか生まれてこないんだよ』
Aさんの言葉が僕の浅い思考に深く刺さった。
解体を全て終えて、取り立ての心臓と肝臓をスープで煮込み、犬達に与えた。
犬たちは夢中になって食べ切った。
彼らに残酷さなど、存在しなかった。
彼らにとって鹿の肉はただ食べるもの。それ以上でも以下でも無かった。
Aさんの思考と重なった。
生きるとは、僕らが思っているよりずっとシンプルで簡単なことなのかもしれない。
世界も生も死も複雑なことはない。
それを感じれたことが今回の1番の収穫だったように思う。
もちろん人それぞれ価値観が違えば考え方も違う。
今回の僕の記事を見て、不快に思う方もいるだろう。
僕が悪魔に見える人もいるかもしれない。
僕は一時期、ヴィーガンをしていた。
完全菜食主義の生活を半年ほど続けていた。
その僕が今度は鹿を殺す現場に立ち合い、鹿を解体し、食べている。
一見矛盾しているように見えるかもしれないが、僕にとっては何1つ矛盾していない。
どちらも同じ『命』と向き合った結果だったからだ。
だから僕はヴィーガンを悪だとも思わないし、狩猟を悪だとも思わない。
どちらも命と真剣に向き合っているのだ。
僕はそう思う。
今後この考えは変わるかもしれない。
けど今の僕はそんなことを思っている。
また今後撮る写真が変わる気がする。
また1つ自然のことを学べた気がする。
こうやって少しずつ経験して、感じて、発信して、また経験して、感じて、その繰り返し。
北海道へ来て、自分の感性が開いていくのを感じている。
今僕は誰が何と言おうと幸せだ。
どんどんこの土地と人たちが好きになる。
解体を終えたAさんが最後に僕にこう言った。
『人生はどう生きたか、だからさ。死ぬ時にああ良い人生だったって思いたい。そう思って僕は生きているよ。』
僕も、そうだった。
自分で自分の人生は選べるのだと知った時から、僕の本当の意味での人生が動き出したような気がする。
外でまた雄鹿が鳴いている。
今日もまた僕は、北海道の壮大な自然のリズムに身を置いて犬たちと生きている。
いつまでもこの大きな自然の中で、謙虚に生きていきたい。
自然の中の人間の位置を、忘れずにいたい。
そしていつの日か、僕もゆっくりと自然の中で死んでいきたい。
死ぬ時に自分、よくやったよ。って言える人生をこれからも生きていきたいです。
長くなってしまいました。
最後まで読んでくださった方、いつも応援してくださる方には本当に感謝しかありません。
今後もマイペース更新ですが、続けていきますのでよろしくお願い致します。
みんな大好きです。
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