マウンティングの作法

とかく人は人に優越性を誇示せずに生きていくのは難しい世の中であります。いやむしろ時勢に原因があるわけではなく、それこそが人間存在の本質だと言えるかもしれません。その行為を近ごろは「マウンティング」と呼ぶらしいですが、これはもともと霊長類の行動から意味が転じたものであるようです。わたくしはしばしば、「この行為には作法が必要である」と喧伝して憚らないのでありますが、ではなぜ作法が求められるのか、述べていきたいのであります。

世間にはいろんな「マウント=山」があります。社会人であれば年収、学歴。学生ならば勉学やスポーツの成績。子どもの通う学校や配偶者の勤める会社などですら、山となりえます。すなわち、われわれは唯一の山ではなく、複数の山をあちらこちらにそびえさせ、自己の優位性を他者に示し続けるのであります。これを「マウンティング」と呼称するのは言い得て妙であります。われわれは「同じ山」の何合目に自分が立っているのかを見定めて、その山腹からみずからよりも低い位置にいる人間を文字通り見下しているのです。ではなぜ人はマウントを取らずにいられないのか。

簡潔に申せば、いわゆる自己肯定感を高めるためでありましょう。絶対的な偉業を打ち立てるよりも、相対的に劣る他者の存在を視認する方が手っ取り早く、自己が優れた人であることを確認できるのです。むしろ前者は成し遂げようとしても、人一人の一生のうちで達成できることの方が少ないかもしれないのであります。ですから、より即時的に充足可能な、インスタントな快楽を求めるのです。、わたくしは、この生き方から解放されるがよろしいと常々思っております。なぜといって、上には上がいるからであります。ビルゲイツやジョブベゾスだって、パーフェクトな人間たりえません。「資産山」ではそのピークに立っているかもしれませんが、「容姿山」「若さ山」「趣味山」などでは、さらに優れた誰彼が存在します。しかし、なかなかその自己解放ができない。仕方がありません。人間なのですから。

ですからわたくしは「作法」が必要だと述べております。マウンティングのすべてを放擲するのは非常に難しい。ならば「自分山」をそびえさせてみてはどうでしょうか?

「自分山」にはわたくし以外、人っこ一人いません。つまり尺度は自分で決め放題だということです。あらゆるしがらみを統一して、自分の納得のいく尺度に収斂させていく。「結果はこうだったけど、ここまでがんばった。」それを積み重ねて仙人のように「自分山」に籠るのです。少し疲れて気が弱くなったら、双眼鏡で遠くの山を見ればよい。なんか蟻のように小さい人間が必死で山を登っては他者を見下している様がご覧になれます。あなたの目にはなんと滑稽に映ることでしょう。

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