ある盗聴 上演台本

登場人物

村上慶子

村上明       慶子の夫

村上樹生(みきお) 明の弟

近藤紗良      明の部下


プロローグ

慶子 プロローグ。

夢に出て来たのは、初めてだった。

すぐに彼だとわかった。

私はようやく彼の顔を見る。

彼は目の前に座り、優しい表情で、少し戸惑ったように私を見返した。

満ち足りた時。

彼が、口を開いた……。

タイトル

紗良 劇団競泳水着

樹生 「ある盗聴」

慶子 1:村上慶子。

主人が死んだ。恐らく、私が殺した。

そのことは誰にも気づかれずに、通夜と葬式がとりおこなわれ、ある種の熱狂、振り返ってみて、ああ、まるでお祭りのようだった、と感じる数日が終わって、祭りの名残の線香の香りを鼻の奥に残したまま、私は社会復帰をした。

職場の人たちは、憐れみ7割、好奇心3割、の視線と共に私を迎え入れてくれた。

「大変だと思うけど、頑張ってね。」

「ありがとうございます。ご迷惑をおかけしました。」

細かい雑用は代わってくれたし、残業にならないよう気を使ってくれる上司もいた。

私は、急速に日常に戻っていった。

と、思っていた。

職場に復帰して最初の金曜日。

帰宅すると、マンションの一階の郵便受けに、「村上慶子様」とだけ書かれたB5サイズの封筒が入っていた。

切手も消印も差出人の名前も無い。

私は、リビングのテーブルで封筒を開けた。

市販のCD‐Rと、半分に折られた便せんが入っていた。

便せんには手書きで一行だけ、

男 「貴女は悪くない」

慶子 と書かれていた。

心臓が、ドキリ、と痛んだ。

その瞬間、この顔の見えない誰かは全部知っている、と思った。

CD‐Rの表面には黒のマジックで、

男 「①2015年7月20日

②10月9日

③2016年3月1日」

慶子 と、書かれていた。

3月1日は主人の命日だ。

私はノートパソコンにCD‐Rを挿入し、itunesでデータを読み込んだ。

データは三つのトラックに分かれていて、それぞれの日付がタイトルらしい。

私は再生ボタンをクリックした。トラック1。

男 「2015年7月20日」

すぐに、主人と近藤紗良の声が流れてきた。

それは去年の7月にこの部屋で交わされた会話だった。

紗良 奥さんが帰ってきますよ

明 まだ大丈夫

紗良 ちょっと、駄目です

明 なんで

紗良 いいから、早く探して下さい

明 うん……無かったらどうする

紗良 もう一回、事務所を探しましょう

明 それでも無かったら?

紗良 誤魔化すしかないですね

明 悪いね

紗良 見つかればいいんですから

明 キスしてもいい?

紗良 聴いてます?

明 ねえ

紗良 ちょっと……

慶子 玄関の開く音。

明 (何事も無かった風を装って)……無いね

紗良 そうですか……あ、こんにちは

慶子 こんにちは

明 お帰り

慶子 どうしたの?

明 忘れ物、したかもしれなくて

慶子 何?

明 書類

紗良 すみません、お邪魔してます

慶子 いえ

明 寝室も見てくる

紗良 はい

慶子 ……大事な物なんですか?

紗良 そうですね、クライアントからお借りした物なので

慶子 ご迷惑おかけします

紗良 いえ

慶子 お茶でもいかがですか?

紗良 あ、もう、行きますので。ありがとうございます

明 駄目だ、無いな

紗良 そうですか。じゃあ事務所に戻りましょう

明 うん、じゃあまた

慶子 はい

紗良 お邪魔しました

慶子 いえ、色々、よろしくお願いします

紗良 はい、失礼します

慶子 今度は、二人の出て行く音。

既にこの時、二人の関係には気づいていたが、改めて生々しいやりとりを聴くと胸を衝かれた。

主人と近藤紗良が働くデザイン事務所はマンションから歩ける距離だ。

何度も来ていたのだろうか。

終わりかと思ったが、トラック1の再生時間はまだ何分も残っていた。

やがて、私の息遣いが聞こえてきた。

この日、主人と近藤紗良が出て行くと、私はそのままソファに横になり、下着の中に指を入れていた。

慶子 (荒い息)……はあ……はあ……はあ……

慶子 昔から、哀しみや虚しさを覚えると、股の間が疼く。

振り分けられたグループで自分だけ無視された時、面接で一言も答えられずに固まってしまった時、我を忘れて自分を慰めた。

恥や孤独や惨めさが、その一時だけでも洗い流されることにかけて。

この日、私が流し去りたかったものは何だろう?

主人の心が離れていることにはずっと前から気づいていた。

もはや嫉妬も感じていなかった。

では何だろうか?

主人とその愛人に、目の前で蔑ろにされた、怒りだ。

でも、二度目に果てた後でも、怒りは鈍く重く体内に残っていた。

殺意が芽生えたのも、この時だった。

唐突に主人の声が流れてきた。いつの間にかトラック2に切り替わっていた。

男 「10月9日」

明 どうしたんだよ、あれ

慶子 何?

明 うち、鼠なんて出るの?

慶子 ああ……間違って買っちゃったの

明 何と間違えるんだよ

慶子 害虫退治のつもりが、鼠退治

明 普通、間違えないでしょ

慶子 ああいうのって似てるから、箱のデザイン

明 そうかもしれないけど

慶子 ボーっとしてた

明 交換して貰えば?

慶子 恥ずかしくて。それに虫にも効くかと思って

明 効かないよ

慶子 昔観た映画の中で、ギャンブル中毒のシェフが、借金の取り立てに来た客のステーキに、殺鼠剤をふりかけて出そうとする場面があった。

結局シェフは直前に思いとどまりステーキを捨てるのだが、タイトルを忘れた映画のその場面だけは妙に心に残っていた。

私は近藤紗良が家に来た次の日曜日、電車に乗って、初めて使う駅で降り、15分ほど歩いた街道沿いのホームセンターに入って、洗剤やごみ袋などの日用品と一緒に、マスクとゴム手袋と、殺鼠剤、そして目立たない大きさの金槌を買った。

帰宅して、主人がいないのを確かめると、殺鼠剤の箱を開けた。

殺鼠剤は、食品に入っている乾燥剤のように小さな袋に小分けにされている。

中を透かして見ると、フリスクのような固形物がびっしりと詰まっていた。

私はマスクと手袋をつけると、フローリングに敷いた新聞紙の上に殺鼠剤の小袋を一つ置いた。

そして金槌を振り下ろし、袋の上から固形物を叩き潰していった。

ボキッ、ボキッ、と鈍い音がした。

袋の中の殺鼠剤は粉々になっていった。

その夜、私は粉を一ふり、主人が食べる生姜焼きにふりかけた。

主人は味については何も言わず、特に変わった様子もなく眠り、次の朝も普通に起きて出勤していった。

それ以降、主人が家で夕食をとる日は、料理に同じ分量の殺鼠剤をかけ続けた。

ある日は味噌汁に、ある日は鯖の塩焼きに、またある日はバニラアイスに。

一週間たっても、一か月たっても、主人に異変は無かった。

明 鼠って色んな種類がいるんだな

慶子 え?

明 ほら、「ドブネズミ、クマネズミ、ハツカネズミに効果があります」。これ、全部東京にもいるのかな?

慶子 さあ……

明 あれ、減ってるじゃん、使ったの?

慶子 うん

明 どこに?

慶子 ベランダ

明 マジかよ

慶子 でも、雨に濡れて捨てたり、風に飛ばされたり

明 全然駄目だな

慶子 主人はそれ以上追及しなかったが、殺鼠剤を使うのはこの日でやめた。

次に使ったのは、メタノールだった。

物置の中に、主人が昔キャンプで使ったランプと、燃料用のアルコールがあった。

成分の76.6パーセントがメタノールと表示されていた。

私はその透明の液体を別の容器に移し替え、一滴ずつ、主人の食事に入れ続けた。

念のため、主人の健康診断の前後は混入をやめた。

診断の結果は、高血圧、また血液検査にやや異常が見られたが、経過観察となった。

殺鼠剤とメタノールの影響かどうかはわからなかった。

主人はもともと高血圧の家系で、それにも関わらず煙草の量も多かった。

そもそも、私に主人を殺したい気持ちがあったのか、今ではよくわからない。

主人の命が自分の掌にある感触。その優越感だけで満たされていた気がする。

それに、捕まりたくなかった。

だからあの日、リビングの床に倒れている主人を見つけた時は不意打ちで驚いた。

トラック3の音声が流れてきた。

男 「2016年3月1日」

慶子 ねえ、どうしたの、ねえ、ねえ……明、明……

慶子 改めて自分の声を聴いても、演技でなく取り乱していることがよくわかる。

夫に呼びかける声は途絶えたが、再生時間はまだ43分も残っていた。

私はitunesの画面を眺めながら40分間の無音を聴いた。

40分後、電話をかける私の声が聞こえてきた。

慶子 もしもし……あの、主人が倒れてるんです……はい、息をしてないみたいで……

慶子 音声はそこでプツリ、と切れた。

主人は病院に搬送された時点で死亡が確認された。死因は「急性心筋梗塞」だった。

事件の可能性を口にした人間はいなかった。

今年になって新しい仕事を任されたストレスも引き金だ、と噂されたようだ。

主人の直属の上司は、お通夜の時、涙目で私に何度も頭を下げた。

近藤紗良も参列し、

紗良 村上さんには本当にお世話になりました

慶子 と、私の目を見て言った。泣いているようには見えなかった。

私は再生を止めたitunesの画面を見つめた。

誰かが、私が主人の浮気に気づいたこと、食事に殺鼠剤を入れたこと、倒れた主人を放置して見殺しにしたこと、を私にだけ伝わる形で提示していた。

この部屋が盗聴されていたのは間違いないようだ。

誰が、いつから、何の目的で……?

心当たりは思い浮かばない。

そこまで考えて、気づいた。

今、この瞬間も、聴いている……?

じっと聞き耳を立てている誰かの姿が頭に浮かんだ。

私は部屋の中をゆっくりと見まわしてから、呟いた。

……今も聴いてるの?

30秒ほどして突然、家の電話が鳴った。

電話は一度だけコール音を鳴らしてすぐに切れた。

再び部屋の中を沈黙が支配した。かすかに冷蔵庫の音だけが聞こえてくる。

ずっと聴いてるんですか……目的は何ですか?

どこからも、何の反応も無かった。

改めて、便せんに書かれた無機質な文字を眺めた。

男 「貴女は悪くない」

慶子 気が付くと、手にびっしょりと汗をかいていた。

私は窓の外を見た。

夜空の下で、無数の建物が沈黙していた。

慶子 返事は次の日に届いた。

再び、郵便受けに封筒が入っていた。今度は便せんだけだった。

男 「僕はいつでも聴いています」

「貴女が嫌ならやめます」

慶子 その夜の10時に、また家の電話が一度だけ鳴って切れた。

聴いている、という合図らしい。

私はじっと電話機を見つめた。

私を疑った捜査関係者だろうか。いや、主人が死ぬ半年も前から盗聴するはずが無い。

脅迫しようとしているのだろうか。

私はこの夜は一言も喋らず、ずっと音楽をかけていた。

東京事変。ビル・エヴァンス。リップスライム。

次の日も手紙が来た。

男 「リップスライムとか、聴くんですね」

慶子 ……そこ?

そしてまた、夜の10時に電話が鳴った。

私は昼の間に選んでおいた、ヨーヨーマ、山口百恵、奥田民生をかけた。

その次の日の手紙。

男 「リップスライムの、誰が好きですか?」

慶子 ヨーヨーマと百恵と民生は完全に無視された。この夜もピッタリ10時に電話が鳴った。私は一言、

SUが好きです

と呟き、手元に無かったのでわざわざツタヤで借りて来たSUのソロ曲をかけた。

曲が終わると、

あなたは誰が好きですか?

と問いかけた。

次の日の手紙には、

男 「そこは普通にイルマリです」

慶子 とあり、イルマリのソロバンドのアルバムと、イルマリのプロフィールが同封されていた……普通に、って何?

男 「日本人の父親とフィンランド人の母親を持つハーフである。」

慶子 これはもちろん知っていたが、

男 「バン、という名前の犬を飼っている。愛称はバンちゃん。」

慶子 この情報は知らなかった。

私は改めて問いかけた。

……あなたは、誰ですか?

次の日の手紙は少し長かった。

男 「ずっと、貴女の生活を聴いてきました。

貴女は正しいことをした。

貴女を傷つけるつもりはありません。

僕は出来れば、貴女のことをもっと知りたい。それだけです。

僕が誰かは、聴かないで下さい。

今日はどんな一日でしたか?」

慶子 ……今日は仕事に行って、帰ってきただけです。いつもと同じ寂しい日です。

あなたは?

次の日。

男 「僕はずっと空を眺めていました。無味乾燥、いつもと同じ退屈な日です。」

慶子 働いてないのだろうか。でも電話が鳴るのは夜。昼間は仕事ではないのか。

手紙は最後にこう添えられていた。

男 「出来れば、ソファに座って話して頂けると、声が拾いやすいです。」

慶子 私はソファの周りを探したが、どこに盗聴器があるかはわからなかった。

次の日。

男 「慶子さんに友達はいますか?」

慶子 友達……いません。あなたは?

次の日。

男 「僕もいません」

慶子 お互いに孤独ですね

次の日。

男 「孤独は悪いことだとは思いません」

「それに僕はこうして慶子さんとお話が出来る。それだけで充分です」

慶子 これがお話……?じゃあ、あなたのことをもっと教えて下さい

次の日。

男 「つまらない人生を送ってきました。

家族も含め、誰かと心から触れ合った記憶はありません。

色の無い毎日です。

知らない誰かの生活を聴くことだけが趣味です。

ある日、偶然に慶子さんのことを知りました。

その部屋は、前の住人がいた時から、聴いていたのです。

貴女が引っ越してきて、声を聴いた時、不思議と惹きつけられるものがありました。

出しゃばるつもりは無かったんです。

でも、貴女が行動に出たのを知り、お話してみたくなりました。」

慶子 私だってつまらない人生です。

でも、面白い人生って何でしょうね。

次の日。

男 「慶子さんが外で、どんな風に過ごしているか、教えて下さい。」

慶子 こうして、毎日手紙が届き、夜になると電話が鳴り、ソファに座って呟き、また次の日に手紙が届く、という繰り返しが始まった。

24時間後に返事が届く文通のようだ。

昼の間に、今日は何を話そうかと考えることもあった。

一度にいくつかの話題に触れることも多くなった。

慶子 会社の食堂のカレーライス、もっとふくじん漬を盛ってほしいけど恥ずかしくて頼めないんです

男 「僕はふくじん漬も好きですがらっきょうも好きです」

慶子 今日の夕焼けは変な色でしたね

男 「僕は不吉な夕焼けを見ると、ドラえもんの映画を思い出します」

慶子 相変わらず、職場の人たちは腫れ物に触れるような感じです。

でもよく考えたら、主人が死ぬ前もそうだったな、って。

集団の中にいると、いつの間にか距離を置かれる感じ?

私って絡みづらいんですね。

あそうだ、司馬遼太郎の本、図書館で予約して借りてきました。

久しぶりに行ったけど、図書館て凄くサービス充実してますね。

男 「慶子さんの問題じゃないです。周りがつまらない人間なんです。

群れたがる奴らは、気にしないことです。

慶子さんは慶子さんでいて下さい。」

「図書館、住民税を払ってるんだからどんどん活用しましょう。

お読みになったら、好きな登場人物を教えて下さい。

答え合わせしましょう。」

慶子 でも、人間は社会的な動物だ、って言うでしょう?

集団でうまくやっていけるのが、優れた人間なんじゃないんですか?

まだ途中ですけど、淀君って誰よりも不幸な人ですね

男 「人間を動物とか本能とかで語ってもいいことはありません。

『男は狩りに行き、女は村を守っていた』、だから何だって言うんですか?

引きこもる男も母性本能を持たない女もいくらでもいる。

だいたい、人類はいまだに殺し合い、環境を破壊し続ける最悪の動物です。

でも慶子さんみたいに素晴らしい人もいる。

個体差が大きいんです」

「淀君の気持ちになって詠んでみました。

信長さま 秀吉さまに家康よ 私の大事な 人たち返せ」

慶子 素晴らしい人?あなたはどうして私をそんなに褒めてくれるんですか?

男 「思ったまでを述べただけです」

慶子 たまに、電話が鳴るのが11時を過ぎる時もあった。

私は帰ってからずっと、話しかけるのを待っていたのに。そういう時は少し意地悪に、

今日は遅かったですね

と前置きしてから話し始めた。

研修で本社の社員が来てるんですけど、教わったことをもう一度聴くと、明らかに嫌な顔をするんです。

口癖は「前にも言いましたけどね」。

ああいうの、パワハラって言わないのかな。

男 「また殺してしまえば良いのでは?」

慶子 私はそれについては何も答えなかった。

主人を殺したと認めるような発言はしない。

男は全て録音している。それは忘れなかった。

男は次の日もこの話題を続けた。

男 「そいつの名前を教えて頂ければ、僕が退治してやりますよ」

慶子 退治ってどうやって……?

男 「方法はいくらでも。水道に下剤を混ぜたり」

慶子 ……(笑って)ありがとう。あの……あなたのお名前を教えてくれませんか?

部屋の空気が急に緊張したような気がした。

でも、次の日、ちゃんと返事をくれた。

男 「ホムラ、と呼んで下さい。僕からもお願いがあります。敬語はやめて貰えませんか?」

慶子 カタカナで三文字のホムラさん。

ホムラさん、こんにちは。ホムラさんはどんな顔をしているの?

男 「一度だけ似ていると言われたのは、ロバート・ダウニー・ジュニアです」

慶子 ある日、駅からの帰り道で、意外な人物と遭遇した。

近藤紗良だ。

近くで働いているとは言え、こんな風に偶然会ったことは無かった。

むこうも驚いているようだった。

既にお互い無視できない距離だった。

紗良 ……こんばんは

慶子 こんばんは。今お帰りですか?

紗良 はい……村上さんも?

慶子 何と呼ぶか一瞬迷ったのがわかった

慶子 そうです

紗良 お疲れ様です……その後、いかがですか?

慶子 え?

紗良 いえ、あの、ごめんなさい

慶子 いいんです。ありがとう、大丈夫です

紗良 そうですか

慶子 ……近藤さんは?

紗良 はい?

慶子 ……お仕事の方は?

紗良 何とか村上さんの穴を埋めようと皆必死です

慶子 そうですか……それでは

紗良 はい、失礼します

慶子 私は不意に録音された主人と近藤紗良の会話を思い出し、胸が苦しくなった。

帰宅すると、ホムラさんからの手紙と歴史小説が届いていた。

男 「慶子さん、誕生日おめでとうございます。

ささやかなものですが、受け取って下さい。

司馬遼太郎が好きなら、きっと楽しんで貰えると思います。」

慶子 そして10時、いつものように電話が鳴った。

ホムラさん……小説ありがとう……読んでみます……

さっき……近藤紗良に会いました……すぐそこで……お葬式以来……相変わらず、綺麗な顔でした……私……

私はそれ以上、何を言って良いのかわからず、ゆっくりソファに寄りかかった。

次の日。

私は久しぶりに会社の飲み会に参加した。

帰ってきた時はかなり酔っていた。手紙を開いた。

男 「昨日は、お疲れのようでしたね。大丈夫ですか?季節の変わり目ですから、ゆっくり休んで下さい」

「慶子さんは、ご主人のことは、愛していたんですか?」

「近藤紗良のことは憎いですか?」

慶子 なぜそんなことを聴かれるのかわからなかったが、酔いにまかせて言葉が出た。

……愛してましたよ……そうじゃなきゃ結婚しないでしょう……今日みたいに私が遅い日は、一緒に深夜までやってるお店にふらっと食べに行ったり……結局いつも餃子なんだけど、二人でいるだけで自由で、無敵で……この人が、私の欠けてる部分を全部埋めてくれる人だと思ってました、本当に……近藤紗良と出逢うまでは……

近藤紗良という女。私は彼女が憎いのだろうか。

紗良 はじめまして、いつもお世話になっております

慶子 ……こちらこそ

紗良 お二人はどこでお知り合いになったんですか?

慶子 学生の頃に

紗良 へえ、じゃあご結婚されてもう……

慶子 三年ですね……近藤さんは?

紗良 まだ独身です

慶子 はじめから危険な女だと思っていた。

でも……憎くはありません。きっとあの人も、哀しい人だと思うから……でも、私は……

私は突然、24時間の時間差が寂しくなった。

ホムラさん……ねえ聴いてるの?

……今、ホムラさんの声を聴くことは出来ないの……?

数十秒の沈黙が続いた後で、家の電話が鳴った。

コール音は途切れなかった。

急に、心拍数が上がるのがわかった。

鼓動で胸が痛く、自分で誘ったくせに出たくない気持ちもあった。

私は深呼吸をして、電話に出た。

……もしもし

樹生 もしもし、あの、村上ですけど

慶子 主人の声だ。

何が起きたのかわからず、私は絶句した。

樹生 あ、すいません、樹生です……もしもし?

慶子 ……あ、もしもし……こんばんは

慶子 村上樹生は主人の弟だ。

長いこと海外にいたらしく、主人の生前は結婚式でしか顔を合わせたことが無かった。

お通夜で再会した時は五年ぶりだった。

樹生 すいません、家の番号しかわからなくて……お休みでしたか?

慶子 いえ……大丈夫です

樹生 どうも……先日はお疲れ様でした

慶子 いえ……色々、ありがとうございました

樹生 どうですか?その後

慶子 え?

樹生 大丈夫ですか……いや、大丈夫なわけないですよね、すいません

慶子 いえ……あの、何とか、やってます

樹生 そうですか……

慶子 どうしたんですか?

樹生 ああいや……あの……どうしているかなって……

慶子 はあ……

慶子 少し酔っぱらっているようだった

樹生 慶子さん……慶子さんて呼んでもいいですか……

慶子 ええ、はい、どうぞ……

樹生 兄はどんな男でしたか?

慶子 え……

樹生 俺、正直言って、何年も兄との思い出が無いんですよ

慶子 ああ……そうですよね

樹生 そうなんです……慶子さん

慶子 はい

樹生 フグはお好きですか?

慶子 ……フグ……あまり食べたことないですけど

樹生 良かったら、一緒に、どうですか?

慶子 ……フグ料理、ですか?

樹生 はい

慶子 えっと……

樹生 ゆっくりお話、させて下さい

慶子 ……はい

樹生 よし、それじゃあ……

慶子 週末に神田にあるフグ料理屋に行く約束をし、携帯の番号を伝え合ってから、電話を切った。

部屋を沈黙が支配した。

慶子 ……ホムラさん……?

その夜はもう、電話は鳴らなかった。

次の日、いつものように郵便受けを確認しても、手紙は入っていなかった。

夜の電話も、鳴らなかった。

その日から、手紙も電話も途絶えた。

私は、ホムラさんに何か呼びかけたかったが、何を言っても言い訳になるようで、一言も話せなかった。

……言い訳?何の言い訳……?

慶子 村上樹生との約束の日。

樹生はヒレ酒を飲みながら、どうしてフグなのかについて語りだした。

樹生 僕の中で子供の頃からの固定観念として、「フグとカニは高級料理」っていうのがありまして、手も足も出ない、というイメージがどういうわけか強くてですね、でも日本に帰って来て、上司に飲みに誘われて、「どうする、焼き鳥かそれかフグでも」なんて言われて、焼き鳥とフグ同列かと、お前の焼き鳥はいかほどか、と思ったわけなんですけども、まあ結果、フグに行くじゃないですか、そうしたらね、そりゃ焼き鳥よりも店は綺麗だし高いですけどね、でもちょっと贅沢をするつもりで使えるレベルだな、と発見がありましてね、さすがに美味いし味わい方も豊富ときてはね、フグ、これは是非、大切な人と来たいな、とそう思った次第で慶子さんは素敵な唇をしていますね

慶子 ……え?

樹生 言われませんか?

慶子 私の、唇ですか?

樹生 はい。吸い付きたくなるって

慶子 ……言われたことないですね

樹生 そうですか。相変わらず、日本の男の目は節穴ですね。だからずっと不景気なんだ。すいません、ヒレ酒もう一本

慶子 刺身で始まり雑炊でしめる一人6千円90分のコースの間、死んだ主人の話は一度も出なかった。

樹生は雑炊を食べ終えると、コースに含まれていた白子ポン酢を追加で注文した。

会計は樹生が払った。

店から神田駅に向かう途中で、樹生は手を繋いできた。

私は気づかないふりをして手をほどいた。

別れ際、新宿駅の構内でお礼を言うと、今度は急に抱きしめてきた。

思った以上に強い力だった。

大量の人の流れが私たちを避けて二つに分かれた。

ズボンの下が固くなっているのがわかった。

慶子 ちょっと……人が見てますから

樹生 イタリアでは普通です

慶子 ここは日本です

樹生 後で電話してもいいですか?

慶子 無理やり身体を離して歩き去る私に樹生はそう声をかけた。

家に帰ると、予告通り、携帯が鳴った。

慶子 ……もしもし

樹生 たしかに、日本では日本の流儀に従うべきですね

慶子 いや、そういう問題じゃなくて

樹生 何ですか

慶子 ……今日、最初からそういうつもりだったんですか?

樹生 そういうって?

慶子 だから……

樹生 駄目ですか?

慶子 駄目って言うか……あなたは、明さんの弟ですよ

樹生 ああ、その気まずさというか罪悪感については、僕も一週間以上考えまして、既に結論が出ているから大丈夫です

慶子 いや、私は出てないです

樹生 じゃあ出るまで待ちます

慶子 ……そもそも

樹生 そもそも?

慶子 お義父さんやお義母さんには、何て言うんですか?

樹生 言う必要がありますか?

慶子 え?

樹生 わざわざ報告しなくてもいいでしょう。結婚するわけじゃあるまいし……僕だから駄目なんですか?この先一生、男性と関係を持たないわけじゃないでしょう?

慶子 この時、私は自分がソファに座っていることに気づいた

慶子 あの……ちょっと待って下さい

樹生 え?

慶子 私は、ベランダに出た

樹生 どうしたんですか?

慶子 もう大丈夫です

樹生 車の音が聞こえますけど

慶子 あの、ちょっと外に出たので

樹生 どうして?

慶子 いえ、別に……

樹生 ……部屋に、誰かいるんですか?

慶子 ……いません

樹生 そういうことなら、ハッキリ言って下さい

慶子 誰もいませんよ、いるわけないでしょう……ちょっと、おかしなことを言うから、外の空気に当たりたくなっただけです

樹生 ヒレ酒も随分飲みましたしね

慶子 ……そうですね

樹生 ヒレ酒を飲んで赤くなった頬っぺたも、吸い付きたかった

慶子 ……あの

樹生 はい

慶子 イタリアの人って、皆そんな感じなんですか?

樹生 さあ

慶子 え?

樹生 イタリアに行ったことはありません。旅は南米中心だったので。イメージです、イメージ

慶子 そうですか

樹生 慶子さんが僕を情熱的にさせるんですよ

慶子 ……とにかく、今日は失礼します

慶子 電話を切って部屋に戻った。

シン、とした部屋が、不自然に無表情を装っているような気がした。

私はたまらずに呟いた。

どうすればいいと思う……?

次の日、四日ぶりの手紙が入っていた。そこには一行、

男 「彼を家に呼んで下さい」

慶子 とだけ、書かれていた。

慶子 一週間後。近くの居酒屋で飲んでから、樹生を家に誘った。

私は郵便受けを確認した。封筒が入っていた。

樹生に見られないように中身を確認すると、手紙には一行だけ。

男 「ソファの上が一番聴き取りやすいです」

慶子 ……座って下さい

樹生 どうも

慶子 樹生はゆっくりとソファに腰かけた。

私はその隣に座った。樹生は私の腰に手を回すと、髪の匂いを嗅いだ。

樹生 慶子さん……綺麗です

慶子 樹生はそう言ってキスをした。

樹生 力を抜いて

慶子 ……ごめんなさい

樹生 謝らないで

慶子 私……

樹生 何?

慶子 ……久しぶりなの

樹生 ……ベッドに行きましょうよ

慶子 樹生が立ち上がると、家の電話が一度だけ鳴った。

樹生は気にせずに私の手を引こうとした。

慶子 あの……

樹生 何?

男 「ソファの上が一番聴き取りやすいです」

慶子 ……ここでもいい?

樹生 え?

慶子 ここで、このまま……駄目?

樹生 ……俺としては、何の問題も無いです

慶子 そう言うと、樹生は私を押し倒し、スカートの中に手を入れてきた。

この夜、私は樹生とソファで二回、セックスをした。

私は、樹生の声を覆い隠すように、何度も大きな声を出した。

樹生 ……兄貴とも、やってたの?

慶子 え?

樹生 ソファで、こうやって

慶子 ……ううん

樹生 このままここで寝る?

慶子 私は少し迷ってから、一緒に寝室に移動して、樹生の腕の中で眠った。

朝、再び樹生が入ってきた。

寝室では、私の声はそれほど大きくはならなかった。

次の日。

郵便受けの中の封筒は、奇妙な形に膨らんでいた。

中には、コンセントに差し込む電源タップが入っていた。

男 「寝室のコンセントに差し込んで下さい」

慶子 盗聴器だった。

私は指示通り、ベッドの脇のコンセントにそれを差し込んだ。

身体の奥が熱くなるのがわかった。

樹生が次に来た時は、最初から寝室に誘った。

樹生 いいの?ベッドで

慶子 うん

樹生 俺、ソファも好きだったけど

慶子 いいから、きて

樹生 (嬉しそうに)積極的だね

男 「これでいつでも聞こえます」  

 慶子と樹生、前戯。

慶子 はあ……はあ……

樹生 (重なって)はあ……慶子さん……

男 「慶子さんの声を、聴いています」

慶子 ねえ、はやく……

樹生 うん……ちょっと待って……

慶子 どうしたの?

樹生 ちょっとゴムが……よし、いくよ……

慶子 ああっ……!

樹生 ああ、慶子さん……慶子さん、慶子さん、慶子、慶子……(やたら呼びたがる)

慶子 ねえごめん……

樹生 え?

慶子 何も言わないで……

男 「慶子さん」

慶子 その方が集中できるから……

樹生 ……わかった

慶子 はあ……ホムラさん……

樹生 ……え……?

男 「僕はいつでも、聴いています」

慶子 ホムラさん……

男 「慶子さん」

慶子 ホムラさん、ホムラさん、きて……!

終わった後で、樹生は当然の疑問を口にした。

樹生 ホムラさん、て誰?

慶子 ……ごめん

樹生 元カレ?

慶子 違うよ……昔好きだった、漫画のキャラクター……

樹生 へえ……

慶子 ごめんなさい

慶子 でも、樹生はなぜか嬉しそうだった

樹生 それさ、兄貴とする時も呼んでたの?

慶子 まさか、呼ばないよ

樹生 そっか……教えてよ、何て漫画?

慶子 いいよ

樹生 近づきたいからさ

慶子 ……え?

樹生 ちゃんと読んで、キャラ設定、共有したいからさ。俺は慶子さんのこと、何て呼べばいい?

慶子 ……ごめん、忘れて

慶子 次に逢った時も樹生は諦めなかった

樹生 漫画のタイトルだけでも教えてよ

慶子 ……ごめん

樹生 謝ることはないよ

慶子 嘘なの

樹生 え?

慶子 漫画っていうのも、嘘……

樹生 じゃあ、誰?

慶子 その……私の頭の中だけにいる

樹生 ……妄想?

慶子 ……うん

樹生 ……いいよ、それを詳しく教えてよ

慶子 え?

樹生 俺、慶子さんと一緒に、その世界観を、積み重ねていきたい

慶子 樹生は更に嬉しそうだった

樹生 とりあえず、ホムラって、日本人?

慶子 樹生と関係を持ってからも、ホムラさんとのやりとりは続いたが、徐々に、手紙と電話が途切れがちになった。

嫉妬しているのだろうか。

でも私には、きっと聴いてくれている、という確信があった。

だから毎晩、ホムラさんに語り続けた。

最近、私が喋ってばかり。ホムラさんのことももっと知りたい

男 お久しぶりです。僕は空っぽの人間ですよ

慶子 何だか弱気だ。

ホムラさん、空っぽの何がいけないの?

ホムラさんからの手紙が無い日は、樹生といても上の空だった。

しかし樹生は一向に気にしない様子だった。

そして。

樹生 一緒に住まないか

慶子 ……え……

樹生 結婚を前提に

慶子 そんな……

樹生 珍しくはないみたいなんだ

慶子 何が?

樹生 配偶者が死んだ後に、その兄弟と再婚すること

慶子 でも……

樹生 両親も安心すると思う

慶子 話したの?

樹生 いや、まだ俺と慶子さんとのラブは秘密だよ?でも「慶子さんはもったいないお嫁さんだった」って言ってたよ。二人は今でも、慶子さんのこと好きなんだ

慶子 ……私、お義父さんたちと、ほとんど話したことないけど

樹生 これから、関係を築いていけばいいよ

慶子 聴いてた?あれって……プロポーズだよね……

男 「受けないんですか?」

慶子 ……受けるわけないでしょう……

男 「どうして?」

慶子 だって……私はあの人の兄弟を、殺したんだよ?

男 「それは、誰も知りませんよ。僕以外は」

慶子 でも……ホムラさん……私は……私は……ホムラさんに逢いたい……

次の日。

手紙はこなかった。

その夜、家の電話が鳴った。電話は切れずになり続けた。

慶子 ……もしもし……ホムラさん……?

紗良 ……もしもし。夜分に失礼いたします。近藤でございます

慶子 ……近藤さん……?

紗良 はい、ご無沙汰しております。今、よろしいでしょうか?

慶子 どうしたんですか?

紗良 いくつか、奥様にお返しする書類が見つかりまして

慶子 え……?

近藤紗良は改めて届けに来てくれると言う。約束をして、電話を切った。

再び、ホムラさんからの手紙は途絶えた。

私の中にはもう、ホムラさんにしか埋められない穴があった。

樹生 こんばんは。メール、見てくれているでしょうか?

この間の話、混乱させたようならごめん。

とにかく、一度電話に出てくれると嬉しい。

今までの全てのメイクラブを思い返しながら待ってます。

貴女の樹生より。

慶子 樹生のメールは全て無視した。

ホムラさんは、マンションに来て自分の手で投函しているはずだ。

待ち伏せすることも考えた。

でも、私が会社にいる日中に来ている可能性が高い。

管理人に、監視カメラの有無を確認したが、郵便受けの前には設置されていなかった。

マンションは出入りも多く、部外者が入って来ても目立たない。

週末に、近藤紗良が家に来た。

どうしてわざわざ家に来たのかはわからない。

主人の思い出にでも浸りたいのだろうか。

紗良 こちらです

慶子 ありがとうございます

慶子 約束通りに書類を渡すと、近藤紗良は頭を下げた。

紗良 それでは……奥様にも、色々とお世話になりました

慶子 ……私は何もしていません

慶子 懺悔のつもりだろうか。

ふと、もしかしたら私が殺したのはこの女だったのかもしれない、と思った。

日常的に彼女に接する機会があれば、或いは……

紗良 それでは、失礼いたします

慶子 近藤紗良は最後まで礼儀正しく、もう一度頭を下げて帰っていった。

その夜、郵便受けを確認すると、手紙が入っていた。

男 「村上慶子さま

ホムラです。

今日は、お別れを言う為に手紙を書きます。

事情があり、もう貴女の声を聴くことも、手紙を書くことも出来ません。」

慶子 長い手紙の最後は、こう書かれていた。

男 「慶子さん、貴女は私にとって、初めての、そしてたった一人の友達でした。」

慶子 ……私にとってホムラさんは、友達なんかじゃない、もっと特別な……

男 「お元気で。さようなら。」

慶子 涙が止まらなかった。

明 2:村上明

息が出来ない。

胸が死ぬほど痛かったが、急に楽になった。

いや、本当に死ぬのかもしれない。

時間の感覚が無い。

頭が朦朧とする。

あと二メートル手を伸ばせば受話器に届くがもう一ミリも動けないだろう。

去年の健康診断の時に、もっとしっかり調べて貰うべきだったか。

慶子……慶子はまだ帰ってこないのか。

ひどく喉が渇く。

水を飲ませてくれ。

床から見上げると、調味料が並んでいるのが見える。

慶子の料理は美味かった。

知らぬところで、努力してくれたんだろう。

俺は慶子を愛していた。

愛の定義はわからないが、俺が慶子に抱いていたあの気持ちが愛だったことは、今になってはよくわかる。

慶子 ただいまー

明 お帰り

慶子 ごめんね遅くなって

明 許さない

慶子 よしよし

明 ご飯は?

慶子 まだ……え、明も?

明 うん

慶子 嘘、ごめん!

明 まだやってるから行こうよ

慶子 どこに?あ待って、わかった……あの餃子でしょ

明 いつの間にかあの気持ちを失っていた。

随分と有り難がるくせに、人間は愛の取り扱いが下手だ。

いや、俺だけか。

この一年、慶子にとっては氷のような時間だったろう。

もう謝ることも出来ないのか。

こんな時に、司馬遼太郎の顔が浮かんでくる。なぜだ。

そうだ、いつだったか紗良が司馬遼太郎を読んでいた。

本が好きとは知っていたが、意外だった。

紗良 この人、なんで生まれてきたんだろう。可哀想

明 誰?

紗良 茶々

明 茶々、って誰だっけ?

紗良 秀吉の側室

明 ああ、淀君?

明 俺も司馬遼太郎でも読んでいれば、紗良に捨てられずに済んだのかもしれない。

でも、今となってはどうでもいい。

慶子を愛していたとわかるように、紗良を愛していなかったこともよくわかる。

俺が悪いんじゃない。

紗良は、誰かに愛されたことも、それ以上に誰かを愛したこともない女だ。

綺麗な形をした空洞。

玄関の開く音がする……慶子か……

紗良 3:近藤紗良。

高校の時、放課後の教室に入ろうとすると、中からクラスメイトの話し声が聞こえてきた。

私の取り巻きたちだ。

私はドアの前に立ち止まって、聞き耳を立てた。

一人の女が、私を罵っていた。

一番目立たないと思っていた女だった。

私はしばらくそこに立ったまま、彼女の声を聴いていた。

精一杯の悪意が身体に刺さってくるようで、気持ちが良かった。

その女の彼氏はつまらない男だったが、誘惑すると簡単に落ちた。

一度だけ寝て、次の日から無視すると、男は半狂乱になった。

女はそれを知り、私に直接怒りをぶつけてきた。

泣きながら私のことを非難する顔は文字通り震えていて、私は生まれて初めて、生身の人間とぶつかっている気がした。

もっともっと責められたくて、わざと彼女が傷つく言葉を並べた。

ほら、あんたの目の前にこんなに無防備に頬をさらしているぞ。叩いてみろよ。

しかし彼女はいきなり過呼吸になり、その場に崩れ落ちた。

私は急速に冷めた。

弱い女に興味は無い。

それから、男を選ぶ時は、その恋人あるいは妻がどんな女かを見るようになった。

でも、たいした男がいないように、たいした女も少なかった。

ある日、村上明が職場に村上慶子を連れてきた。

慶子 お邪魔します……

紗良 はじめまして、いつもお世話になっております

慶子 ……こちらこそ

紗良 お二人はどこでお知り合いになったんですか?

慶子 学生の頃に

紗良 へえ、じゃあご結婚されてもう……

慶子 三年ですね……近藤さんは?

紗良 まだ独身です

慶子 ……へえ

紗良 警戒する眼が高校のあの女に似ていた。

久しぶりに胸が高鳴るのがわかった。

明は簡単に引っかかった。

私は、慶子が自分を罵る声を聴きたい、と思った。

2015年7月20日。

村上夫妻の家に入るのは二度目だった。

前回、リビングの電源タップは確認しておいた。

鞄には同じ形状の電源タップが入っている。

明 どうぞ

紗良 お邪魔します

紗良 家に入ると村上明はすぐに書類を探し始めた。

明 あ、座って

紗良 その言葉を待っていた。

私はソファに腰をおろし、自分の荷物を見るふりをして鞄から電源タップを取り出した。

明は背を向けている。

私は素早く、電源タップを差し替えた。

明は全く気付く様子も無く、書類を探すのを諦めて私の隣に座り、すぐに顔を近づけてきた。

紗良 奥さんが帰ってきますよ

明 まだ大丈夫

紗良 ちょっと、駄目です

明 なんで

紗良 ニヤニヤと笑っている。

私は男の浅はかさは嫌いではない。快感に理性で抗おうとする、演技をする。

明 キスしてもいい?

紗良 聴いてます?

明 ねえ

紗良 ちょっと……

紗良 玄関の開く音がして明は慌てて身体を離した。

私も立ち上がった。

明 (何事も無かった風を装って)……無いね

紗良 そうですか……

紗良 村上慶子が入ってきた。この家で顔を合わせるのは初めてだった。

紗良 あ、こんにちは

慶子 こんにちは

明 お帰り

慶子 どうしたの?

明 忘れ物、したかもしれなくて

紗良 明が寝室に行く。

感情の読めない慶子の顔。

慶子 ……大事な物なんですか?

紗良 そうですね、クライアントからお借りした物なので

慶子 ご迷惑おかけします

紗良 いえ

慶子 お茶でもいかがですか?

紗良 あ、もう、行きますので。ありがとうございます

紗良 帰宅すると、ヘッドフォンをして、受信状態をチェックした。

多少、雑音は混じるものの、マンションからの距離を考えると想像以上にクリアだった。

部屋が最上階なのが効いているようだ。対象が高い位置にあるほど、電波は広く届く。

私は、録音を最初から再生した。

紗良 奥さんが帰ってきますよ

明 まだ大丈夫

紗良 ちょっと、駄目です

紗良 自分の声を聴くのは変な気分だった。

明 駄目だ、無いな

紗良 そうですか。じゃあ事務所に戻りましょう

明 うん、じゃあまた

慶子 はい

紗良 お邪魔しました

慶子 いえ、色々、よろしくお願いします

紗良 私は一人取り残された慶子の姿を想像した。

泣いただろうか。ヒステリックに独り言でも叫んでくれると鑑賞しがいがある。

私のことを存分に罵ってくれ。

しかし何の声も聞こえない。つまらない。

早送りしようとすると、ソファのスプリングの軋みが聞こえた。

そして。

慶子 (荒い息)……はあ……はあ……はあ……

紗良 一人で始めたようだ。

なるほど、そうきましたか。

私は慶子の裸を想像した。腹の肉は、少しだけ余分に弛んでいて欲しいと思った。

慶子は短い間隔で二回達してから、立ち上がってリビングを出て行った。

私は、そこで再生を止め、その40分間の録音に日付を付けて、パソコンのフォルダに保存した。

7月27日。

受信と録音を始めて一週間が経った。正直言って、盗聴はとても面倒くさい作業だ。

この夫婦の会話は思った以上に少なかった。一週間の間に録音に値すると思われた会話は、

明 SMAPのSって何だっけ?

慶子 ……SWEET

紗良 だけだった。どうでもいい。

間違ってるし。

日中の録音も可能な限り確認したが、24時間分のデータを聴くことは物理的に不可能だ。

10月2日

このところ、明の顔色が悪い気がする。私が冷たくしているのも原因だろうか。

健康診断もいくつかひっかかったと言っていた。

2016年3月1日

部屋の音を聴いていると、明の呻き声がした。

明 うっ……はあ……はあ……

紗良 倒れたらしい。通報するわけにはいかない。どうしたものか。

慶子が帰ってきた。

慶子 ねえ、どうしたの、ねえ、ねえ……明、明……

紗良 ところが、そのまま長い沈黙が続いた。

慶子はなかなか救急車を呼ばなかった。

3月2日

明の死が知らされた。

3月5日

結局、通夜でも葬式でも、慶子は一度も泣かなかった。

3月10日

兵庫県の主婦が、夫に毒物を飲ませて殺そうとして捕まった。

私はそのニュースを見て、まさかと思いながら、過去の録音分を頭から聴き直した。気になる会話があった。

明 SMAPのSって何だっけ?

慶子 ……SWEET

紗良 ……違う。これじゃない……これだ

明 うち、鼠なんて出るの?

慶子 ああ……間違って買っちゃったの

明 何と間違えるんだよ

慶子 害虫退治のつもりが、鼠退治

明 普通、間違えないでしょ

慶子 ああいうのって似てるから、箱のデザイン

明 そうかもしれないけど

慶子 ボーっとしてた

紗良 嘘だ、慶子は嘘をついている。胸が高鳴って眠れない。

3月18日

編集したCD-Rを投函した。

「貴女は悪くない」

の一行は、出来るだけ男っぽくなるよう練習した。

投函は、誰かに頼むことも考えた。

近所の子供に小遣いをあげて届けさせる。子供は捕まっても「綺麗な女の人に頼まれた」という……駄目だ、女とばれる。

結局、帽子をかぶり、目立たない格好で行った。

監視カメラが無いのは幸運だった。

仕事を終えると急いで帰宅し、ヘッドフォンをして耳をすませた。

慶子が帰ってきた。

そしてCD‐Rを再生する音。

どんな顔で聴いているのだろう。

再生が終わると、慶子の声が聞こえてきた。

慶子 ……今も聴いてるの?

紗良 少し迷ってから、慶子の家の電話を鳴らした。

慶子 ずっと聴いてるんですか……目的は何ですか?

紗良 私は、次の日の手紙の内容を考え始めた。

「僕はいつでも聴いています」

「貴女が嫌ならやめます」

楽しい。凄く楽しい。

3月22日

慶子 ……あなたは、誰ですか?

紗良 「ずっと、貴女の生活を聴いてきました。

貴女は正しいことをした。

貴女を傷つけるつもりはありません。

僕は出来れば、貴女のことをもっと知りたい。それだけです。

僕が誰かは、聴かないで下さい。」

3月26日

慶子 お互いに孤独ですね

紗良 「孤独は悪いことだとは思いません」

「それに僕はこうして慶子さんとお話が出来る。それだけで充分です」

5月10日

慶子 ありがとう。あの……あなたのお名前を教えてくれませんか?

紗良 名前か……なぜかすぐに浮かんできた。

男 「ホムラ、と呼んで下さい」

紗良 6月10日

今日は慶子の誕生日だ。

仕事を早く終えて、手紙と一緒に、買っておいた小説を投函した。

その帰り道、慶子に会ってしまった。

いつもより時間が早い。私に気づいている。目をそらすことはできなかった。

紗良 ……こんばんは

慶子 こんばんは。今お帰りですか?

紗良 はい……村上さんも?

紗良 思わず、お誕生日おめでとうございます、と言いそうになるのをこらえた。

慶子 ……お仕事の方は?

紗良 何とか村上さんの穴を埋めようと皆必死です

慶子 そうですか……それでは

紗良 はい、失礼します

紗良 帰宅して10時まで待ち、電話を鳴らした。

慶子 さっき……近藤紗良に会いました……すぐそこで……お葬式以来……相変わらず、綺麗な顔でした……私……

男「昨日は、お疲れのようでしたね。大丈夫ですか?季節の変わり目ですから、ゆっくり休んで下さい」

「慶子さんは、ご主人のことは、愛していたんですか?」

紗良 ……近藤紗良のことは、憎いですか?

6月11日。

慶子 憎くはありません。きっとあの人も、哀しい人だと思うから……

紗良 ……哀しい……?私が?

慶子 ホムラさん……ねえ聴いてるの?

……今、ホムラさんの声を聴くことは出来ないの……?

紗良 次の瞬間、電話のコール音が聞こえてきた。無意識に自分の手が動いたかと思った。

慶子 ……もしもし

樹生 もしもし、あの、村上ですけど……あ、すいません、樹生です

紗良 明の弟だ。慶子に気があるらしい。

慶子 ……フグ料理、ですか?

樹生 はい

慶子 えっと……

樹生 ゆっくりお話、させて下さい

慶子 ……はい

紗良 慶子は電話を切った。しばらくして、細い声が聞こえてきた。

慶子 ……ホムラさん……?

紗良 突然、慶子をひどく傷つけたい気持ち、ホムラの正体を暴露したい気持ち、そして……ホムラになりすまして慶子と直接話したい気持ちが生まれ、混乱した。

次の日の手紙を書こうとした。

どうして、近藤紗良が哀しい人なんですか……?

手紙はゴミ箱に捨てた。この日から、手紙と電話は止めた。

6月15日

慶子が樹生と電話をしているようだ。

樹生 この先一生、男性と関係を持たないわけじゃないでしょう?

慶子 あの……ちょっと待って下さい

紗良 ベランダに出る音がした。

声が遠ざかる。

私に聞こえない所で勝手に話をするな。

しばらくして、部屋に戻ってきた慶子が呟いた。

慶子 どうすればいいと思う……?

紗良 自然と、手が動いていた。

男 「彼を家に呼んで下さい」

紗良 6月20日。

慶子と樹生のセックスを聴いた。新しい盗聴器も送ろう。

6月25日。

慶子は明らかに「ホムラ」という男に心を委ねている。

しかし、私はそれに応えることは出来ない。

……当たり前だ。

7月11日。

慶子 最近、私が喋ってばかり。ホムラさんのことももっと知りたい

紗良 何も話すことが無い

男 「僕は空っぽの人間ですよ」

紗良 7月12日。

慶子 ホムラさん、空っぽの何がいけないの?

空っぽだからお互いを埋め合うんじゃないの?

紗良 慶子の一言一言が胸に響く、それなのに……

何だろう。この無力感は。

7月22日。

樹生 いや、まだ俺と慶子さんとのラブは秘密だよ?でも「慶子さんはもったいないお嫁さんだった」って言ってたよ。二人は今でも、慶子さんのこと好きなんだ

慶子 聴いてた?あれって……プロポーズだよね……

男 「受けないんですか?」

紗良 7月23日。

慶子 ……受けるわけないでしょう……

男 「どうして?」

紗良 7月24日。

慶子 だって……私はあの人の兄弟を、殺したんだよ?

紗良 言った。ついに慶子は言ってしまった。

慶子は気づいているのだろうか。

今の音声をばらまけば、慶子を社会的に抹殺することも出来る。

でも、私はそうしない。

私は何がしたいのだろう。

男 「それは、誰も知りませんよ。僕以外は」

紗良 7月25日。

慶子 でも……ホムラさん……私は……私は……ホムラさんに逢いたい……

紗良 唐突に、「ホムラ」という名前の由来を思い出した。

幼稚園の頃、毎日、家で一人でいる間、一緒に遊んでいた人形の名前だ。

私は「ホムラ」とままごとをし、秘密を共有し、南の島を冒険し、毎晩一緒に眠った。

あの人形はどこに行ったのだろう。

……そうだ、ある日、家に帰ると捨てられていたのだ。

もうどんな顔をしていたのかも思い出せない。

頬が冷たい。

人差し指で触れると濡れていた。

この涙は、なぜ流れたのだろう。

この感情を、人は何と呼ぶのだろう。

慶子さん、私は、貴女と……

7月26日。

深呼吸をして、電話をかけた。

慶子 もしもし……ホムラさん……?

紗良 話す内容は決めていたのに、他の言葉を口にしそうになる。

紗良 ……もしもし。夜分に失礼いたします。近藤でございます

慶子 近藤さん……?

紗良 はい、ご無沙汰しております。今、よろしいでしょうか?

慶子 どうしたんですか?

紗良 いくつか、奥様にお返しする書類が見つかりまして

慶子 え……?

紗良 電話を切ると、私は、最後の手紙を書き始めた。

7月30日。

紗良 それでは……奥様にも、色々とお世話になりました

慶子 ……私は何もしていません

紗良 慶子の顔を見る。いつかこの顔も思い出せなくなるのだろうか。

紗良 それでは、失礼いたします

紗良 家を出ると、最後の手紙を投函した。

その夜。

慶子の声が聞こえてきた。

慶子 私にとってホムラさんは、友達なんかじゃない……

紗良 しばらくして、私は頭からヘッドフォンを外した。

樹生 4:村上樹生。

慶子さんからの返信はいまだ無い。

電話も繋がらない。

いつだったか、慶子さんが独り言を言っていた。

まるで誰かに語りかけるように。

慶子さんだけの世界……

でも俺は諦めない。

慶子さん……

男 5:手紙。

男 村上慶子さま

ホムラです。

今日は、お別れを言う為に手紙を書きます。

事情があり、もう貴女の声を聴くことも、手紙を書くことも出来ません。

本当は、僕も慶子さんとお逢いしたかった。

叶うことなら、貴女とどこか遠くに旅に行きたかった。

貴女と同じ景色を見て、同じ船に乗り、同じ料理を食べて、同じ所で眠りたかった。

貴女との時間は忘れません。

貴女との時間だけが、僕の人生だったような気もします。

慶子さん、

紗良 慶子さん、貴女は私にとって、初めての、そしてたった一人の友達でした。

お元気で。さようなら

エピローグ

慶子 エピローグ。

夢に出て来たのは、初めてだった。

すぐに彼だとわかった。

私はようやく彼の顔を見る。

彼は目の前に座り、優しい表情で、少し戸惑ったように私を見返した。

満ち足りた時。

彼が、口を開いた。

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