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日が沈むことも、日が昇ることも、当たり前じゃないのだ

オーストラリア、アデレード近くの、山で寝ている。

先は、寝床の近くにガサゴソと音がするから、何かと思えば、ハリネズミが現れた。初めて遭遇したハリネズミに抱いた感覚は、可愛いでも、すごいでも、丸っこいでもなく、恐ろしいだった。動物園でみるのとも、ハイキングの最中にみるのとも違う。ハリネズミが寝床に現れたのだ。(もっともハリネズミからしたら、寝床に人間が現れたともいえるのだが)


ハリネズミの生体に詳しくない私は、寝ているときに、ハリで顔を刺されないかとか、突進してこないかとか、つい自衛のための考えを巡らせてしまう。未知なものに対しては、ああだこうだと無限に想像が拡がるものだ。それが良い方向ならまだしも、悪い方向に広がるならば、心はたちまち恐怖に支配されてしまう。まだハリネズミが人を殺傷するほどの危険動物ではないことを知っているだけマシだった。しかし、一匹動物がいるということは、他にも何匹も動物がいるということだ。その種も数も未知なのが、また私を脅かす。


山の中で寝ていると、当然暗い。明りといえば、夜空に浮かぶ月と星くらいだ。
定期的に、誰も人が来ないような大自然の中に一人で寝たいと思い浮かぶのだけれど、こうして来てみると、なぜ俺はここにきてしまったのだろうと、いつも後悔の念がやってくる。


私は自然の中で生活している歴は、並の人と比べれば多少はあるから、よく分かる。人は闇というものがどこまでも苦手だ。日が沈めば、本能が危険信号を出す。端的に、闇が死を連想させる。死ぬんじゃないかって思う。そして日が昇り、光が世界に戻ると、生き延びられたことに大きな安堵を得る。日が昇っていることが、奇跡のように、有り難く思える。


これは、現代人に不足している感覚だと思う。現代人にとって、日は当たり前のように昇り、当たり前のように沈む。闇に怯えることもなければ、光に喜ぶこともない。むしろ、逆転している場合もある。闇の訪れに安堵して、光の訪れに絶望している。かくいう私にもそんな時期があった。

明日が訪れることは奇跡だという台詞を聞いたことがある。ずっと腑に落ちなかったけれど、今ならそれが何となく分かるような気がする。光が訪れることは、生命にとって生きることそのものだ。希望そのものだ。それに希望に感じられるのは、生命の自覚があれば自然のことだ。先のハリネズミも、闇の訪れに怯えていたかもしれない。光の訪れを待っているかもしれない。そう思うと、彼らも仲間だと思える。いや、ここが弱肉強食なら仲間ではないか。いや、もうそんなことはどちらでもいい。

私は今、猛烈に光を欲している。明朝を早く迎えたい。そして生き長らえたことを確認して、胸を撫で下ろしたい。生きたぞ!と吠えたい。それだけを強く祈って、星空を見上げている。


明日の日の出を、心から待ち望んで…
おやすみなさい。
ちゃんと生きてますように。

***

<追記①>
寝れない。厳密には、寝ていたけれども、風に強く揺らされる木々の音が大変うるさくて、起こされ、ちっとも眠れなくなってしまった。

木が1本、ユサユサと揺れるのではない。何百、何千、何万といった木が一斉に揺れるのだ。とても寝られるどころではない。自然の圧倒的な大きさを山に見せつけられ、山に試されている様だった。私は身が小さく丸めるように縮こまった。


先程は、動物を恐れ、今度は、風を恐れ、山を恐れている。難しい本を読めば、眠くなるだろうと、デカルトを読もうとするも、木の唸りのおかげでまったく集中できなかった。頭の方から得体の知れない動物の鳴き声もする。もうどうなってしまうのだろう。


今はちょうど夜中の2時になる。寝てしまえば、意識が戻ったころには朝だと思っていたが甘かった。山は寝かせてくれない。夜は長い。恐怖の夜だ。ただ、これはなるべくしてなったのだろう。自然の洗礼だ。自然を舐めてかかった罰だ。早く朝日が昇ってほしい。

頼む。俺。生き延びてくれ。
お願いします、神様。どうか生かしてください。

***

<追記②>

生きている。今朝は7時に目を覚ました。曇り空で朝日が見れないことは非常に残念だったけれど、明るさの中に戻ってこれた喜びに、思わずシャァ!と声をあげた。

昨晩、2時に目を覚ました後、不思議な体験をした。私は、私を支配していた恐怖を内側から溶かすことができたのだ。ちょっと感覚的な話になる。私は私の内側に、黒い円(球)のようなものを感じていた。これは、私が恐れを抱くとき、いつも内に存在していたものだったのだけれど、平生はこの円が小さいためか、中々これを認めることができなかった。昨晩、初めてこれを認めることができたのは、嵐のように吹き荒れる木々に、私の恐れが極限まで高まったからだと思う。

この黒い円(球)が段々膨らんで、無視できないほどに膨らんだとき、私はこの円に飛び込むことができたのだ。厳密には、飛び込んだというよりも、吸い込まれたといったほうが適切かもしれない。ここへ飛び込むという発想も意志もなかったのだから。

黒い円に吸い込まれた私は、恐怖の真ん中を味わった。それは映像としても脳内に再生された。私は断崖絶壁から落ちていた。もうわけわからなかった。心臓を恐怖の槍で貫かれたようだった。

意識が今に戻ったとき、己の内に黒い円(球)の存在を認めることはできなかった。きれいさっぱり消えていた。相変わらず、風で木々が唸ろうとも、この晩、私が恐れを感じることはもうなかった。

黒い円が消えたのち、内にあるのは心地よく寝られそうな、温かな安心感だった。こうして私は、外が風で吹き荒れる中、安らかに眠りにつくことができた。

***

あれが一体何だったのかは分からない。ただ、恐怖に支配されていた身体が、さらなる恐怖を味わい、一瞬のうちに安らぎを得る体験はとても面白いものだと思った。

今日も、日が昇っている。世界には光が注いでいる。そして今、貴方も私も生きている。これは、本当に奇跡なのだ。

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