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1億3000万分の600

ナニモノかにならないといけないとずっと思っていた。
思えばずっとそう考えて生きていたんだと思う。

 ミャンマーという国を御存じだろうか?
独立の父、ボージョー・アウンサン将軍が有名だと思う。
先の大戦の時、日本軍と共にイギリスと戦い、最後は日本軍と袂を分かつも戦後独立を勝ち取った国である。
その一番の立役者であるアウンサン将軍は凶弾に倒れてしまうが、その後神格化され、英雄となった。
その娘が皆さんもご存知のアウンサン・スー・チー氏である。
バスは20円で乗れ、ご飯は1食150円、歩行者用の信号がほぼ皆無で、何車線もある幹線道路を歩行者が横切る。
タクシーの運ちゃんは仏塔を観るたびにハンドルから手を放して拝んでしまうほどの、敬虔なる仏教徒の国。
135もの民族がそれぞれ独自の文化を持ち寄っている。
借金をしても寄付しちゃうという世界一の寄付指数を持ち、人々はどんな時でも底抜けに無邪気に笑う、魅惑の国である。

日本人の数は約1億3000万人。
その中でミャンマーにいるのは約3000人。
約というのは、この国では日本などの先進国のように一々正確な数字は出ない。
数年前、国を挙げての人口調査をしたらそれまで言われていた国民の人口が1000万人くらい少なかった。
サバを読むにも程がある。
5000万以上の人口の半数が20歳以下だという。

「なんやそれ、可能性しかないやん」

始めてミャンマーを訪れた時にそう感じた。
いくつもの視察を終えたにも関わらず、おおよそ分析とは程遠い常軌を逸した勘のみで、ミャンマーに住む事を決めた。
そんなミャンマーという国で住み始めて6年、本当に色々な事があった。

私は、今から42年前、少子化で人口減が言われている昨今、何故か人口を微増させている明石市という港町で産まれた。
ダウンタウンの松本人志さんや、キングコング西野亮廣さんと同じ兵庫県である。

予定日から1ヶ月遅れの出産は、5人の子供を産んだツワモノの母からも、「あんたが一番大変やった」と言わしめた4400グラムの赤子であった。
3歳くらいの頃、ある事件が起きる。
上の兄弟達が家の1階で遊んでいる間に1人2階のベランダに行き、ベランダの柵に上って遊んでいてそのまま頭から落ちた。
イメージして欲しいのだが、ベランダの柵を鉄棒のようにして身体を前後にゆすっていたら落ちたのである。
子供の頭って大人より割合重いんだなぁと実感したかどうかはさておこう。
実際は死にかけていてそんなしょうもない事を考える余裕はない。
おばあちゃんが編んだ毛糸の毛布をかけられている瀕死状態の私の横で、父が黒電話で病院に電話をかけている様子を、今でも鮮明に思い出すことができる。
救急車で配送後、もはや手術も無理という状態でICUに送られ、頭蓋骨のヒビから脳髄なのか血液なのか、とにかく何がしかの液的なものが漏れたらアウトというような状態だったらしい。
その時のお医者さんの第一声が「覚悟してください」だったそう。
48時間、父は集中治療室の前で待っていたらしいが、もし自分がその立場だったらと思うとゾッとする。
死の淵を乗り越え目が覚めた時、痒くて酸素マスクのテープを外そうとしているのを看護師さんが見つけ、意識が戻ったのが確認された。
なにはともあれ無事生還、一般病棟に移る事になったのだが、たまたま自分とほぼ同時に交通事故か何かでICUに入った方は亡くなられたと聞き、生と死の狭間を身近に感じた。
その後、1週間で退院となる(死にかけからの回復早すぎじゃね?って他人事のように思う)
頭にハゲは出来たものの、何の後遺症もなく、計らずも悪運は強い事を若くし証明してみせた出来事であった。
因みに、上の兄弟達はパニック気味に親父にぶん殴られたらしい、普段手を出すような人ではないので、よっぽど動揺したんであろう。
良い迷惑である。
恐らく一番死にかけたであろうこの事故の他にも何度か
「あれって結構ヤバかったんじゃね?」と思うは多々ある。ミャンマーで、酒とドラッグでキマっちゃってるヤツが振った鉄パイプが頭をかすめたり、夜中に1人で居たオフィスに電動ドライバーを持った輩が襲撃してきたり。
そんな漫画のようなクレイジーミャンマーで私はガチでエンタメをやろうと決めた。
まず芸能事務所を立ち上げた。
ミャンマーで初の吉本を作る!
と目論むが、そもそも芸能事務所が無いには無いなりの理由があり、システムさえ入れりゃあ良いのかというとそんな訳にはいかず、ベテランや中堅の芸能人たちはわざわざ会社を間に入れてギャラが減るような事に乗っかるハズもなかった。
めげずに、新人を育てようと俳優養成所を作った。
ミャンマー映画協会に認めてもらい、未来のスターを育てようと意気込んだはいいものの、立ち上げから4年経ってもまともな新人は1人も育てれなかった。
因みにミャンマーは美男美女が多い。
決してレベルは低くなくむしろ世界的にも高いレベルにあるとさえ思う。
才能がある子は沢山いる。
いるのだが、急に授業に来なくなる、大事な約束をしょうもない理由で飛ばす飛ばす。
駆け落ちをし、黙っていればいいものの、FBでその様子を公開しちゃう娘もいた(まあ幸せになっているのなら良いのだが………)
生徒間、先生間、その他とにかくもめ事が絶えなかった。
養成所の子達に少しでも光が当たるキッカケになればと、当時の芸能マネージャーに「ギャラなんて無くても良いから何か俺に仕事取って来て」と頼んだ。
音楽PV、Vシネマ、ドラマ、映画と色んなところに顔を出しまくった。
が、そこまでの効果は感じられなかった。
因みにこの時の女芸能マネージャー、後に横領が発覚し、クビにした。

 世界的なコロ吉パニックはミャンマーにも直撃した。
人口600万人と言われているミャンマー最大都市ヤンゴン。
東京より全然狭い地域にそんなに人がいるのである(本当か?)
そんな超三密都市ヤンゴンの街から人が消えた。
本当に街から人が消えたのだ。
ミャンマーも日本と同じく外出自粛のような形であった、実際街には警察や自警団がパトロールをしたりはするのだが、法律的に厳しい処罰がくだされた諸外国のような事は全くないハズなのに、一年で最も人が浮かれる4月の正月祭りの時期に街を歩く人はほとんど居なくゴーストタウンと化していた。
この国は10年前はまだ軍事政権だったのだ。
国=軍の言う事は聞いておかないと、という感覚は日本のそれとは段違いのものなのかもしれない。
ミャンマーには何十年と住んでいるレジェンドな日本人もいらっしゃる。
たった6年しかいない私では想像もつかない奥深い歴史がここにはあるのだなと感じた。

「皆さん今は辛いかもしれないですが、自宅に居ましょう。大丈夫、私は20年ずっと自宅にいました」

とは軍事政権によって長年軟禁されていたアウンサンスーチー氏が国民にかけたスピーチである。
世界一の説得力。
ラプンツェルもビックリである。
自宅軟禁と言えば、ミャンマーに来る前、腰痛と言えば聞こえは軽いが、本当に酷い腰痛で3時間と寝ていると激痛で目が覚めるような地獄の日々があり、その時は今のようにずっと家にこもって療養していた過去がある。
手術で身体を切る以外のあらゆる手段を講じて少しはマシになったが、それでも朝昼晩ロキソニンを飲まないといけないような状態でミャンマーに来た。
それから半年後、何故か原因不明でこの腰痛は治ってしまった。
2年程付けていたコルセットを恐る恐る外せた時、私はミャンマーの奇跡に感謝した。
この国でやるべきことがあるからこそミャンマーの神様の祝福を受けたんだと、何かそんなような超常的な事を本気で感じている。
ちなみにもう一つ40を前にして背がほんの少し伸びたのは二つ目の奇跡と読んでいる(本当にどうでも良い)
辛い事も沢山あったが、ここで私は何物にも代えがたい経験を山ほどさせてもらい、色んな事がある度に現地のスタッフや仲間たちに助けてもらっている。
まだまだ返し切れていない恩をこれからどう返していこうかと悩む日々である。
沢山のチャンスを貰って、もがいて、あがいて失敗を繰り返しながら色んな、本当に色んな事をやってきたし、コロ吉で少し止まっているとはいえ、今もやろうとしている。
これまでに短編映画を2本作った。
どちらもほぼノリでやり始めたが、結果世界で映画賞などもいただいたりしている。
内容はまだまだもっと出来ると思う内容ではあったが、ミャンマーで日本人が何か面白そうな事をやっているという事で注目はしてもらっている気がする。
ビックリするほどお金にはなっていないのだが、少しずつ、でも着実にミャンマーの中で何となくオモシロ日本人としてはやっていけているんではないかと、そんな風には自負したい(せめて)
沢山の仲間も出来た。
その倍以上クソみたいな人間にも会ってきた。
だからやっぱり、私はナニモノかにならなくてはいけない。

 3月末、突然唯一の国際線があるヤンゴン空港が封鎖になるというニュースが飛び込んできた。
3日後から閉鎖ですよという三日坊主もビックリのスピードでミャンマー政府はコロナ対策を打ち出していった。
慌てて沢山の日本人の知り合いが帰国していった。
在ミャンマー日本大使館の方の尽力により、空港が閉鎖された後も唯一の日本直行便、成田⇔ヤンゴン便だけは約2週間の猶予が与えられた。
既に国外からの人は受け入れない状態だったので、成田から乗客ゼロで飛行機はこちらに飛んで来るというような特殊な事態であった。
私は最後の日本行きの飛行機も見送りミャンマーに残った。
2020年5月31日現在、この国から出る方法はない。
色々考えてみるよ、とは周りに言ってはいたが心の中では「残る」一択であった。
全てはナニモノかに成るという想いが理由なのだと思う。
勝算なんてハッキリしたものは無い、何が出来るかどうかもわからないが、少なくとも私は今、大半の日本人が帰国し、600人しかいない在緬日本人の1人になった。
エンタメに深く関わっているという人間で言えば単に600分の1以上の価値がある。

「ナニモノかに成る為には誰も持っていないモノを持たないといけない」

ようやくたどり着いた結論である。
1億3000万分の600になったと言ってもそれだけでは何にもならない。
自分の可能性をみんなにわかる形で成さないといけない。
今、世界で勝負できるような長編映画を作る為に動いている。
ようやく、ようやく見えたナニモノかへの糸を力業で手繰るべくこれからもこのミャンマーで生きていこうと思う。
まぎれもない77億分の1である自分とこれからどう向き合っていくか楽しみだなぁとまた明日の為に今日ももがいてみよう。


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